聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

「礼拝⑨ 祈りの幸い」マタイ六5-8

2017-01-15 15:31:06 | シリーズ礼拝

2017/1/15 「礼拝⑨ 祈りの幸い」マタイ六5-8

 今日から祈りについてお話しします。そう言われると怯(ひる)む方もいません。祈りへの苦手意識がありますか。しかし、礼拝とは祈りです。礼拝そのものが祈りです。礼拝は、祈りが一人一人にとってなくてはならぬ大切なものだと気づかせて、祈りへと誘う恵みでもあります。

1.祈りについての誤解

 今日のマタイの六章9節以下でイエスは「主の祈り」を教えてくださいました。その最初に

「だから、このように祈りなさい」

と言われたのですが[1]、それはどのようになのかが8節までの所に書かれています。この当時、ユダヤの社会には礼拝も祈りも日常に浸透していました。しかし、そこに大きな勘違いが生まれていたことをイエスは教えられます。祈ってはいても、人が陥ってしまう過ちがあります。それは私たちも陥りやすい誤解です。

 5また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。

 偽善者のような祈りとは、神に祈っているようでも、実は人に見られたり誉められたりしたいから祈っている。祈りさえも、自分を良く見せたいためにする手段にしてしまう。だから6節でイエスは、奥まった部屋に入り、戸を閉めて、神に祈るようにと勧めます。もう一つは、

 7また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。

 8だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。

 こちらでは、異邦人のように同じ言葉を繰り返して、自分たちの祈りの力で神を動かそうとするような祈りを戒めています。神は、私たちがお願いする先に、私たちに必要なものを知っておられる、私たちの天の父です。その事を忘れているなら、いくら熱心に祈ったとしても、それは神を知らない「異邦人」の祈りと変わらない、というのです。

 ここでイエスは、祈り方を通して、私たちが神をどのような方と考えるかを問われています。もし私が、神を小さく考え、表面的なことしか見ないお方、私に何が必要かは神よりも私の方がよく知っている、と考えているなら、私は、言葉や格好だけで立派な祈りを取り繕ったり、自分の願いを只管(ひたすら)訴えたりするでしょう。そして、その祈りが叶わないと自分の祈り方が間違っていたか、神をケチだと考えるでしょう。願い事が叶えてもらう事が祈りの目的になっているからです。でもその神を小さくする考えが既に、小さすぎる神を拝む不信仰なのです。

2.神に祈るということ

 ここでイエスは神を

「隠れた所におられる(もしくは、隠れた所で見ておられる)あなたの父」

と繰り返して呼んでおられます。人は、会堂や通りの四つ角、目に付く所で自分を良く見せようと考えますが、神はむしろ隠れた所、見えない所、だれも見ていない時の私の本当の姿に目を留められます。上辺を良く見せようと誤魔化す裏の、あるがままのあなたをご存じです。隠しておきたい素の私たちを、人目を気にせずにはおれない、不安や妬みやプライドや怒りを抱えた私たちの心に、天の父はおられるのです。しかも、そういう私たちの問題を責めたり、蔑んだりするのではなく、天の父として私たちを深く憐れみ、見守っておられるのですね。

 神に祈る時、私たちはまずそのような神として祈りを捧げる神を覚えたらよいのです。私たちの、隠れた生活や思いをご存じの方、そして、私たちが祈るより先に私たちの必要をすべてご存じのお方。そういう大いなるお方の前に祈るのが祈りです。「いや、そんなことを言われたら、どう祈ったら良いか分からなくなる」と仰るかもしれませんね。でもそれが大事なのではありませんか。神が私たちに求められるのは、立派で行き届いた言葉を蕩々(とうとう)と述べる祈りではありません。祈りとは作文の提出ではないのです。

伝道者の書五2神の前では、軽々しく、心あせってことばを出すな。神は天におられ、あなたは地にいるからだ。だから、ことばを少なくせよ。

ローマ八26御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。[2]

 神と私たちの、天と地との差異を思う時、人は軽々しく言葉を出せなくなります。神が偉大で近寄りがたいお方だというだけではありません。その神が私たちの心の隅々までもご存じで、私たちの必要を私たちが祈るより先にご存じでいてくださる、それほどのお方なのです。そして、御霊なる神ご自身が私たちのために言いようもない深い呻きで、私たちの事を神に届け、私たちが祈るのを助けてくださる。そうやって、私たちが祈ることが成り立つものなのです。だから、祈る時には、どう祈れば良いかと考えて焦って言葉を出すよりも、神の測り知れない偉大さの前で大きく息を吸い込んでから、ゆっくりと、飾らない言葉を紡いでいくのです。[3]

3.祈ることが救い

 祈りが、自分の願いや自尊心のためになってしまうのは、祈りだけではなく、そもそもの私たちの神理解そのものが、小さすぎる神に貶(おとし)めて考えているからですね。そこで私たちはこういう言葉を聴いても、「ああ、自分は偽善的で、異邦人のような祈りをしてしまうから、神は喜ばれないに違いない」などと考えてしまうのです。私たちが神を小さくしているからダメだ、なら絶望しかありません。しかし、イエスはそんな勘違いの祈りはダメだと仰って切り捨てることはなさいませんでした。イエスは、御父とはどのようなお方であるかを教えてくださいました。また、ご自身が神と私たちとの架け橋となって、神との関係を回復してくださったのです。そして、イエスが祈りを教えてくださることで、私たちは、もう一度、本来の神との関係を回復させていただきます。主の祈りを祈ったり、聖書や教会の祈りに教えられたり、祈祷会でともに祈ったり、自分で祈ったりしながら、神を大いなるお方として、自分はその前に人間に過ぎないこと、けれども測り知れない恵みを神から戴いていることを知るのです。それは、言わば、祈りを通して、私たちが自分自身を取り戻していく恵みのプロセスです。

 最近

「祈る事自体が救い」

という言葉に触れました[4]。どう祈ったら聞いてもらえるかとか、どんな言葉で祈れば良いかとか以前に、神に祈る事が出来る。貧しい祈りや雑念が混じっても、いいえ言葉を失ってただ立つだけの私たちと向き合う神がおられます。人が見積もるよりも深く確かな神の御心に、心をぶつける程に信頼しながら生きる。その事自体が救いなのです。

 礼拝には司会者や代表者が祈りますし、礼拝そのものが祈りです。それは、代表者に祈ってもらえば自分たちは祈らなくても良いということではありませんし、礼拝で祈ったのだから後は祈らなくて良い、ということでもありません。私たちが祈りを後回しにすると、私たちはもっともっと迷って、心配に振り回され、流されてしまいます。それは余りに勿体ないことです。「寝溜め、食い溜め」と言う言葉もありますが、礼拝は「祈り溜め」ではありません。普段は祈らなくて良いように礼拝に来るのではないのですね。礼拝に来て、ここで私たちは、神の偉大さや憐れみ深さを本当に素晴らしいものとして教えられます。代表者の祈りも、会衆一人一人を励まして、自分も普段から祈ろう、難しく考えず天のお父様に祈ろう、願いを捧げよう、自分の思いを全部祈っていこう、そして御心にお任せしていこう、と誘うものでもあるのです。私たちは、呼吸のように自然に神を呼び求め、天の父に祈る幸いを知る者として生きるのです。

「祈りを聞きたもう天の父よ。あなたに祈れる幸いを感謝します。あなたに祈れるこの関係そのものが救いです。あなたが祈りに応えて私たちに下さる幸いを、どうぞ一人一人にお恵みください。あなたを私たちの闇も必要もご存じの父として、ますます恐れ、心から崇め、感謝と希望をもって御名を呼び求めながら生きる恵みを、私どもの歩みを通して証ししてください」



[1] 新改訳聖書で「こう祈りなさい」と訳されているのは「このように祈りなさい」とすべきです。主の祈りをそのまま祈れと言われたのではなく、主の祈りを手本として、それにならった祈り方をしなさい、と言われたのだからです。

[2] ここでも、根拠となっているのは、私たちが受けたのは「人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます」(八14)とあるとおり、神が「父」となってくださった契約関係の確かさです。また29節でも「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」とあるとおり、御子イエス・キリストを長子とする神の子らの兄弟たちになるよう、私たちを定めてくださった永遠のご計画において、御霊の執り成しが位置づけられるのです。

[3] 「祈るということは、あなた自身の内にある同じようなケチな思いを神に求めることではない。祈るということは、神の完全な光の内を歩むことであり、「私は人間にすぎませんが、あなたは神です」と一歩も引きさがることなく素直に言うことである。このように表明するときに、神のみもとに戻ること、すなわち、(人間と神との)本来の関係がとりもどされる。」一キリスト者のメッセージ http://voiceofwind.jugem.jp/?cid=31

[4] 左近豊氏の言葉。参照、「傍らにあっての祈り~旧約聖書の祈りに学ぶ」http://www.nfkws.org/womenPasterCommittee/tsudoi41.pdf

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問45「いのちは勝利する」ローマ書4章25節

2017-01-08 20:47:17 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/1/8 ハイデルベルグ信仰問答45「いのちは勝利する」ローマ書4章25節

 久しぶりにハイデルベルグ信仰問答に戻ります。今日は問45です。主イエスの御業を「使徒信条」に沿って見てきましたが、ここでは「三日目に死人のうちよりよみがえり」と告白した、キリストのよみがえりについて、実に力強く簡潔に言い表されます。

問45 キリストの「よみがえり」は、わたしたちにどのような益をもたらしますか。

答 第一に、この方がそのよみがえりによって死に打ち勝たれ、そうして、御自身の死によってわたしたちのために獲得された義にわたしたちをあずからせてくださる、ということ。第二に、その御力によってわたしたちも今や新しい命に生き返らされている、ということ。第三に、わたしたちにとって、キリストのよみがえりはわたしたちの祝福に満ちたよみがえりの確かな保証である、ということです。

 今まで、主が

「処女マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて、葬られ、よみに降り」

と低く、卑しくなってくださったことを見てきましたが、それが

「三日目に死人のうちよりよみがえり」

と一挙に明るくなるのですね。復活は本当に喜ばしい知らせ、素晴らしい勝利の知らせです。

 復活は確かに奇想天外な告白です。奇蹟中の奇蹟であって、簡単には信じがたいことです。聖書そのものが、復活を驚くべき事として記しています。幻だとか集団催眠だとか、仮死状態だったのだとか色々な説明をしたがる人も後を絶ちませんが、そういう理屈での説明を超えた、文字通りの事実として、イエスはよみがえられたと聖書は言っていますし、教会は主にそのように信じてきました。これは決して教会にとってどうでもよい枝葉の信仰ではありません。譲ることの出来ない肝心要の告白です。「使徒の働き」では

「イエスが死んでよみがえられた」

と繰り返して、教会がイエスの十字架と復活を宣べ伝えたと記しています。キリスト教とは「イエスの十字架と復活の福音」です。

ローマ四24…私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。

25主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。

 主イエスが十字架にかかって私たちの罪の身代わりとなって死んでくださった、という事は大事です。でもそれだけで、イエスが死んだままであったなら、そんな言い草そのものが負け犬の遠吠えでしかなくなります。なぜなら、イエスは死に負けたままで、結局はイエスよりも死の方が強かった、イエスは死に損ないであった可能性が否めません。しかし、神はイエスをよみがえらせてくださいました。ここに第一の、

 …この方がそのよみがえりによって死に打ち勝たれ、そうして、御自身の死によって私たちのために獲得された義に私たちをあずからせてくださる、という…

「益」があります。死によって私たちのために獲得してくださった義、というのがただの理念や口約束などではなくて、現実に私たちがあずかれるのは、キリストがよみがえってくださったからです。イエスの復活は、イエスの謙りや苦しみ、十字架の死が現実に私たちのためであったことを意味づけるのです。神の愛とか、罪の赦し、犠牲的な死というテーマだけでいいと言う人もいるでしょう。しかし、もしそういう道徳や美談であれば、私たちがそれに本当に預かれるかの保証はありません。キリストが命に代えて果たされた赦しを私たちが受け取るかどうかは、私たち次第、という話に人間はしてしまうからです。イエスは死んで向こう側に行ってしまわれたのを、私たちこちら側にいる者が何とかしてそれに肖れるよう努力する、という話にならざるを得ないのです。しかし、そういう人間の側の不確かさや不信仰や弱さに関係なく、イエスは先によみがえり、私たちのところに復活した方として現れてくださいました。私たちに、罪の赦しと新しいいのちを約束してくださいます。私たちは、そのシステムをまだ十分理解できません。復活についても詳しく説明したり納得したり出来ません。それでも、イエスが私たちのために既によみがえられたのが事実である故に、希望をもって信じるのです。そして、その時に、私たちは現実に、新しいいのちに生かされる恵みに与るのです。

 …第二に、その御力によってわたしたちも今や新しい命に生き返らされている、ということ。…

 キリストのよみがえりは、神との関係が改善されたというだけではありません。その復活の力に私たちも与って、今や新しい命に生き返らされている、というのです。キリストの復活の力は、キリストをよみがえらせただけではなく、私たちにも働いているのです。これも素晴らしい約束ですね。キリストが復活されたのが事実であるなら、それは二千年前だけのことではないのです。今に至るまで、キリストのいのちは、神の民に働いている。私たちも神の民として、生かされているというのです。勿論、病気にもなりますし、不死身でもありません。けれども、だから意味がないとか、早く天国に行きたい、とは考えません。私たちが今すでに新しい命を生かされている。今ここで、私たちが神の御心を仰いで生きる営みそのものが、神から与えられている尊い歩みとして生きる事が出来るのです。キリストが魂として現れたのではなく、からだをもって復活されたことは、この世界を神が尊いものとして祝福なさることの保証です。

 …第三に、わたしたちにとって、キリストのよみがえりはわたしたちの祝福に満ちたよみがえりの確かな保証である、ということです。

 キリストの復活は、やがて私たちが完全に

「祝福に満ちたよみがえり」

に与ることを確証します。つまり、キリストの復活を信じるとは、よみがえりの奇蹟を信じられるかどうか、経験的には信じがたいけれど聖書や教会の歴史を考える時に事実として信じないわけにいかないじゃないか、というだけのことではないのです。キリストがよみがえられたからには、キリストが私の救い主だという事も本当に違いない。今の私も既にその命に与っているに違いない。そして、やがて私たちが死を迎えても、その後には祝福に満ちたよみがえりにも与れないはずがない。そういう繋がりを持っているのです。

 イエスが日曜日に復活されたので、教会は日曜日を礼拝の日としました。それが世界のカレンダーとなり、私たちも今ここに集まっています。イエスの復活を懐かしみ記念するだけでなく、神を礼拝する恵みに生かされています。これ自体、復活の証しです。

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「礼拝⑧ 幸いへの招き」詩篇一篇

2017-01-08 20:45:44 | シリーズ礼拝

2017/1/8 「礼拝⑧ 幸いへの招き」詩篇一篇

 昨年後半から「礼拝」について改めてお話しして来ました。その中でもお話ししたとおり、私たちは「礼拝共同体」だからです。今日から礼拝のプログラムそのものから何回かのお話しをします。今朝は、礼拝の始まり、「招詞(招き)」から始まる礼拝である恵みを確認します。

1.神の恵みによる招き

 私たちの礼拝は、司会者の挨拶と前奏、そして「招詞」を司会者が朗読し、祈る、という始まり方をしています。どれも大切な要素なのですが、この最初に「招詞(招きの言葉)」があるという事に、キリスト教の礼拝のユニークさがあるでしょう。神が私たちを礼拝に招いてくださったのです。私たちが集まりたくて集まって、礼拝と称した集会をする宗教もあるでしょう。神が呼んでもいないのに神のもとに押しかけて、迷惑も顧みずに願い事をする、という形もあるかもしれません。しかし、礼拝の最初に「招詞」を聴くことは、私たちの礼拝が、私たちの都合やアイデアや押し売りではなくて、神が集めてくださった礼拝であるという確認をすることです。神は私たちの礼拝を求め、主催し、喜んでおられます。神は、私たちがここに集まり、讃美を歌い、祈りを捧げ、御言葉によって養われることを願ってくださるのです。

 招待状をもらって嬉しい思いをしたり、招待されなくてガッカリしたりした事はありますか。抽選で当たっても嬉しいでしょうが、指名されてのご招待ならもっと嬉しいでしょう。でもパーティやイベントに招待されても、心配性の人は受付に行くまでドキドキするでしょう。「こちらの招待状は間違いです」と言われるんじゃないか。場違いな所に来たんじゃないかと考えるかもしれません。神を礼拝するとは、どのようなレセプションや大イベントにも勝って、光栄で喜ばしいことです。そこへの招待状を私たちは戴いたのです。抽選でも間違いでもなく、神が私たちを招かれました。そして、途中で摘まみ出されるんじゃないかという心配なく、神の礼拝の民とされているのです。私たちがここにいる根拠は、その神の招きにあるのです。

 それは、この日曜の聖日礼拝だけではありません。この時間だけではなく、私たちの全生活が神との交わりであり、神の栄光を拝して讃美を捧げる礼拝なのです。神はいつも私たちを呼ばれます。聖書には、この神の招きが満ちています。「招く・召す・呼ぶ」という言葉は百回以上出て来ますし、今日読みました詩篇一篇のように

「幸いなことよ。」

と始めることで、招きかけることばも数えきれません。聖書そのものが、私たちに、神を神とせよ、神を礼拝せよ、と呼びかける恵みに満ちています。そもそも「教会」という言葉の元々のギリシャ語「エクレシア」は「呼び出された」「召し出された」という意味です。私たちは、神の、この上なく尊く素晴らしい招きによって、礼拝に集められ、教会とされている民なのです。

2.招く神、拒む人

 神が私たちを招かれるということは聖書を通してハッキリ分かります。これが分かるまでは、礼拝を考えるのも自分たちが集まっているから礼拝をしているのだと考えたり、礼拝に来ない人を裁いたり、礼拝に来る人をも「あの人は相応しくない」などと裁くことにもなります。ですから、私たちが礼拝をまず、神の招きに根拠があると知ることはとても大切です。

 そしてそれに気づくと、聖書のメッセージそのものも分かるかもしれません。神は招いてくださるのに、人の方がつれなく、不遜にもその招待を断ったり無視したり逃げたりする、という事実です。神の折角のお招きを、自分のしたいことがあるからと無下にもやり過ごすのです。それが人間の中にある思いなのです。神を礼拝するよりも自分の好きなことをしていたい、という実に不思議で妙ちくりんな考えをするのです。つまり、神ではないものを神以上に礼拝してしまう、という事です。しかしこれもまた、忘れてはならない大事なポイントです。

詩篇一1幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、
あざける者の座に着かなかった、その人。

 2まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。

 3その人は、水路のそばに植わった木のようだ。
時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。

 この詩篇は、主の教えを喜びとし、いつもその教えを口にする生き方へと招いています。それは時が来ると実がなり、その葉は枯れることがない、瑞々しく豊かな生き方です。しかし、その切り口は、悪者の謀(はかりごと)や罪人の道、嘲(あざけ)る者の座という反面からなのですね。幸いを語るだけでなく、悪者の道に幸せがあるかのように考え違いしてしまうのが人間です。神を神として礼拝する、という一番肝心なことを抜きにして、幸せだけ手に入れて済ませたい。神を神とせず、自分を少しでも神と等しくしたい。自分を明け渡したくない、神に降参したくない。神の招きをはねつけてしまうのが人間です。そして、そこで、神ならぬものにないものねだりをして空回りし、もがいたり迷ったりしてしまっているのです。しかし、そういう人間を御自身との交わりに戻って来るよう招かれ、招きに応えることが出来なかった私たちに、礼拝への思いをも下さり招きに応えさせてくださるのが、イエス・キリストの神なのです。

3.神の招きの幸い

 神の招きに応えられない人間に、招きに応える思いを神は下さいます。とはいっても、それはプログラムを変更するように、自動的に招きに応えるようになる、というような意味ではありません。愛である神は脅迫や強制的に私たちが礼拝をすることを望まれません。自動的に応えられるようになるから応えた、と応答では意味がないのです。もっと深く働きかけ、心から神に立ち帰るような応答をさせてくださるのです。今日第二週の招詞を思い出してください。

マタイ十一28-30すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。

 イエスは私たちの疲れをご存じです。重荷を負う辛さを深く知って憐れんでおられます。だからわたしのところに来なさい、わたしが休ませてあげます、わたしと軛(くびき)をともにして歩み、わたしから学ぶことによる安らぎを約束してくださいます。この他にもイエスは、人の痛みや問題を見据えた上で呼びかけられ、御自身との交わりに招き入れられます。イエスの招きは、私たちの生活の現状や喜怒哀楽とは無関係な招きではありません。私たちの必要や求めを本当に深く知り、私たちを憐れみ、心にかけ、支えようとしてくださるお方の招きです。私たちの事をよくよくご存じの上で、私たちを御自身の祝福に招待してくださるのです。

 何よりもこの招きは、イエス御自身の十字架と復活というメッセージで届けられています。神は天の玉座から動かずに礼拝へと呼ぶのでなく、私たちのために、神の子イエス御自身が人となってこの世界に来られ、十字架の苦しみさえ受けて、いのちを与えてくださいました。そのメッセージに私たちは心を揺さぶられます。イエスの十字架と復活は、尊い犠牲さえ払って神が私たちを招かれている証しです。また、私たちのどんな罪や過ちや問題をも、このイエスの十字架と復活のゆえに赦されて、神を親しく礼拝し、礼拝の民に入れて戴けるのです。

 礼拝の招詞は、神が私たちを招かれた恵みを思い出させます。礼拝への思いを引き締め、謙虚にします。同時に、神がこの私を喜んで招いて礼拝させてくださる特権に心を高く上げてくれます。この礼拝の時だけでなく、私たちの全生活もです。様々な出来事や浮き沈みがあるとしても、主を仰いで、主とともに歩む幸いに招き入れられた恵みを思い出させてくれるのです。

「主よ。今日私たちがここにあるのはあなた様の尊い招きによる事です。招きの言葉を通して、心を高く上げてください。どんな楽しみよりも心躍る思いで、あなたを礼拝する幸いを喜ばせてください。あなた様が御子イエス・キリストの命によって与えたもう祝福を、毎日の生活の折々に気づかせてください。私たちの礼拝と生活を通して、主の深い恵みを現してください」

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詩篇一二一篇「助けはどこから来る」新年夕拝

2017-01-02 17:54:39 | 説教

2017/1/1 詩篇一二一篇「助けはどこから来る」

 今日の詩篇一二一篇は、一二〇篇から一三四篇まで、一五の詩篇が

「都上りの歌」

とタイトルがつけられている中の一つです。「都上り」とは、ユダヤの人々がエルサレムの都まで礼拝のために上っていく、巡礼の旅の事です。今のように近くの教会に車で行くのとは訳が違います。年に数回、歩いてエルサレムまで行くのが「都上り」でした。それは、実に貴重で、また大変な旅でした。一番北のガリラヤからなら、三日ほどはかかったでしょう。往復で一週間ほどかけての旅です。その間、色々なことを考えたことでしょう。数時間だけ教会に行くのでさえ、大変なことがありますが、まして一週間家を空けるのです。家族のこと、仕事のこと、親のこと、そして戦争や侵略がしょっちゅうあった昔ですから、そういう社会や民族的な心配も考えずにはおれなかったでしょう。

 ここに出てくる「山」は巡礼の旅の途中で見た、山々だったのでしょうか。あるいは、都エルサレムがある山々の連なりが目に見えたのかもしれません。ここで「山」を見た時、恐らく詩人の心に浮かんだのは、美しい自然というよりも、山の険しさ、自分たちの道に立ちふさがる問題を象徴するような恐れだったのでしょう。山は綺麗だなぁ、と憧れて山を見ているのではなく、山に登っていく巡礼の道を覚えながら、

 1私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。

と思わずもらしたのでしょう。それは、ただ山を登るのが大変だ、上り坂だから嫌だなぁという事ではないのです。私の助け、と彼は言います。自分の生活の助け、巡礼に行って帰ってくればいいだけではない現実の自分の生活全般を思いながら、心に浮かんでくる問題を、見上げる山に重ねながら、

「私の助けはどこから来るのだろうか」

と言ったのです。この礼拝に来ている私たちもどうでしょうか。礼拝に来ながらも、心に引っかかっている心配があるでしょう。教会の上がりかまちを見てため息をつく方は、普段もあちこちでため息をついているはずです。今ここにいる私たちそれぞれの心にはどんな山があるのでしょう。もし私たちが礼拝のため、ここではなく、三日も旅をしなければならない都だとしたらどうでしょうか。とても、そこまで行く気力はない、と思わないでしょうか。詩篇作者の生活も、決して悩みや苦労が何もないから、都に上って行けたのではないはずです。その途中、山を見上げてはため息が出、助けて欲しいと叫びたくなるような自分の心に気づくのです。しかし、彼は続けて言います。

 2私の助けは、天地を造られた主から来る。

 私の助けは、天と地を造られた神、主から来るのだ。今から向かっている都で崇めているのは、エルサレムだけにいる神ではありません。礼拝だけを要求し、私の生活のことは知らんぷり、という神ではありません。私を助けてくださる方です。しかも、この神は天地を造られた神です。この山を越えた向こう側のエルサレムにおられる神ではないのです。山も空も、大地も、後ろの故郷も、その向こうの異国の地も、すべてをお造りになった神なのです。その主から、私の助けは来る。そう彼は自分に言い聞かせます。

 3主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。

 4見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。

 「まどろむこともない」と二回繰り返して、主の守りの確かなこと、信頼するに価することを自分に思い起こさせますね。今日、私たちもこの言葉を言いましょう。

「私の助けは、天地を造られた主から来る」。

 私たちの教会にとって大きな影響を与えたジャン・カルヴァンはジュネーブの教会の礼拝の最初に、召詞として毎回この詩篇一二一篇2節を読み上げて始めました。神を礼拝するに当たり、その神を

「天地を造られた主」

として覚え、同時にその方から

「私の助けが来る」

と励まされる。そこを確認した上での礼拝としたのです。これは、今も大切な確認です。この礼拝と、私たちの生活は、別々のことではありません。私たちは、今自分の心に引っかかっている様々な問題の助けも、この方から来ると信じて、天地を造られた主を礼拝するのです。

 5主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。

 6昼も、日が、打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。

 7主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。

 8主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。

 詩篇作者はこう言い切っています。この短い詩篇の中で、「守る」という言葉が何度も繰り返されているのに気づきます。全部で六回も、

「守る方…守る方…守る方…あなたを守る…あなたのいのちを守られる…今よりとこしえまでも守られる」

と繰り返すのですね。裏を返せば、主の守りを繰り返して確認することが必要なほど、禍もあるし、助けが必要なのが人生の旅路だ、ということです。主は私たちを禍から守ってくださいます。けれども、禍に遭わせずぬくぬくと過ごさせてくださる訳ではありません。私たちが一年の初めに、主に禍からの守りを祈り、主の確かな守りを確信するのも、決して、この一年、不幸や苦しみがない、という事ではありません。病気や死や悲しみがない人生を期待せよ、というのではありません。そういう禍があって、実際、大変な思いをしたり、取り返しの付かない曲がり角を経なければならないのも、私たちの人生です。しかし、そうした中でも、私たちは、神が私たちを守り、禍をも益に変え、祝福にしてくださると信じるのです。主は私たちの「右の手」を守り、なすべきことを果たさせてくださいます。私たちの「いのち」を守って、死においても、恐れることなく、魂を主に委ねさせてくださいます。主はすべての禍よりも強いお方です。

ヘブル十一6信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

 私たちは神がおられる事実だけでなく、この方が御自身を求める者には報いてくださる方であることをも信じます。それが主が私たちに与えてくださる信仰です。天地を造られた主から、私の助けが来る。何と大胆な信仰でしょう。主イエス・キリストが示して下さり、御霊が私たちに育んで下さるのは、この信仰です。どんな歩みがこの先にあるのか、私たちは1年後も、明日さえも分かりません。でも、どんな禍が起きようとも、その事さえ主は助け、私たちを守り、神の民として支えてくださると約束されています。

 

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創世記一章26~31節「開かれた心で生きる」新年礼拝

2017-01-02 17:51:00 | クリスマス

2017/1/1 創世記一章26~31節「開かれた心で生きる」新年礼拝

1.驚くばかりの

 創世記一章には、神が世界をどのようなものとして創造されたかのドラマが語られています。実に豊かな創造です。闇に照らされた光の中に、神はゆっくりと、色とりどりの作品を描いてゆかれます。あらゆる果樹や海の動物、あらゆる鳥、野の獣など、素晴らしく多様に、多彩にお造りになりました。神のなさることは実に楽しく、驚きに満ちています。神は尽きることのないアイデアを形にしてゆかれるアーティストです[1]。私たちには、その全てを見極めることは勿論、神が次に何をなさるかさえ推測することが出来ません。神のなさることは驚くばかりの御業です。そして、その創作やプロセスを美しいものとされます。そのわざを楽しまれ、喜ばれ、祝福されるのが神である。そう物語ることから聖書が始まるとは何と素晴らしいことでしょうか[2]

 勿論、世界には様々な問題があります。創世記三章以降、人間が神に背いたために、罪と悲惨が入った問題が展開されていきます。しかし、世界にはもう驚きや祝福は失われ、神が喜ばれた創造は台無しになってしまったのではありません。むしろ、世界にある美しさ、神の御業が溢れ、私たちを驚かせてやまない素晴らしさに、聖書は立ち帰らせてくれます。そして、今それぞれの場所で私たちは、人知を超えた神の御手の中に生かされているのです。

2.神のかたちに

 しかし、神が世界の豊かに造り上げ、想像力を存分に発揮なさった頂点で、なさったことがまた私たちの意表を突くのです。なんとその創造の最後に、神がなさったのが人間創造です。

26神は仰せられた。「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地を這うすべてのものを支配するように。」

27神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

 創造の最後を飾るのに神がお造りになったのは、その栄光に相応しい巨大な生物ではありませんでした。巨人や竜、天使や仙人でもなく、なんと人間でした。それも、神がご自身の

「かたち」

ご自身に

「似せて」

造られたというのです。更に驚くべきことに、その神のかたちは、

「男と女とに創造された」

と言いかえられます。男だけが神のかたちでもないし、男も女も神のかたち、というのでもないのです。男と女とに創造されたことが神のかたちなのです。男と女、この造りからして違う者が、ともに生きることに神は、ご自身のかたちを置かれました。神の神らしさを現すのは、万能の存在や無敵の生物や完成された天使ではありません。男と女-互いに相手を必要としつつ、しかし決して同じでなく、厄介でさえある別の人格同士が、愛し合い助け合い、ともに神の恵みに応えて生きる。神は、そういう手に負えない関係にこそ、ご自身の神らしさが現れるのだとされるのです[3]。そうして人間に世界を委ねられたのです。

3.開かれた心で

 そう考える時「開かれた心」という言葉が浮かびます。神の豊かさに対しても、男と女という身近な関係でも、私たちは心を開いて生きるように招かれています。何よりも、神御自身が素晴らしい世界を創造された最後に、私たち小さな、限りある人間の人格的な関係や精一杯の応答に、世界を預けてくださいました。神御自身が、様々なリスクを承知の上で、この私たちに対して心を開いてくださったのです。これは、最大の驚きです。

 私たちが生きる世界は、神が私たちの予想や理想の枠をはみ出して行動される世界です。家庭や職場で、思い通りにはならない相手と暮らす社会です。そこで、「全能の神も当てにならない、神に裏切られた、失望した」と心を冷たくするのは甚だ勘違いです。神は飼い慣らせる方ではありません。神の御業は私たちの予想の範囲内の単純なものではありません。聖書の歴史そのものが、予想外の展開の連続でしたし、教会の歩みも信仰生活も、内向きに守りや安全や祝福や成長のパターンを期待するのではありません。神の尊いご計画は、測り知ることが出来ません。この創造も、神の子イエスの十字架も、人の推測を裏切るような、神の驚くべき御業でした。私たち一人一人に対しても同じです。神は私たちを予想も付かない道へ、かけがえのない人生へ召されたのです。

 新しい年に主イエスの祝福を願います。私たちの願い、予想する祝福や安全と違い、もっと大きな祝福です。直ぐにはその意味が到底分からないでしょう。神は私たちよりも大いなるお方、私たちの思いも寄らない御業をなさるお方です。驚くべき豊かな御業をなさった神は、その巧みな御手を惜しみなく開かれたばかりか、私たちに心を開かれます。私たちがご自身に似た者として、世界を愛し、自分と違う者を愛するよう招かれます。私たちも、神に対して、そしてお互いに対して、いつも心を開いて生きる時、もっと神に似た者とされるのです。神を信頼して、心を開きましょう。祝福のご計画を信じ、その一端を担わせていただきましょう。

「天の父よ。御手のわざである世界の豊かさに圧倒され、それを喜び、楽しまれる主の笑いを褒め称えます。あなたを小さく考え、自分をも卑しく考えがちな私たちですが、あなたが聖書において驚くべき栄光を約束しておられるゆえに憩わせていただけます[4]。この一年も主の御心をなし、私たちにあなたへの賛美と信頼を深めさせ、御心に従う心と歩みをお恵みください」

※ 画像は、ノーマン・メッセンジャー『天地創造』(岩波書店)からのものです。

[1] この言葉を読みながら、うわべだけをさらっと読み飛ばしてはつまりません。私たちの貧弱な想像力で表面的に読んで、もうこの創造の記事については分かったかのように思うなら、最も肝心なメッセージを読み損ねているのです。神のなさることは私たちの想像力や予想を遙かに超えています。私たちが自分のちっぽけな頭で考えるよりも、遙かに大きく、意外で素晴らしいことをなさいます。

[2] 神は、「自分ではないもの」を作り、それを力で支配したり型にはめたり、固執しようとしたりせず、その自由を喜び、多様性を楽しまれ、小さな者、人格的な関係を生み、育て、そのためのリスクをも引き受ける神なのです。

[3] エペソ四22-24「その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、23またあなたがたが心の霊において新しくされ、24真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」「25ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。」 イエス・キリストにある教えとは、神のかたちに造られた人間性の回復です。その「真理」「義と聖」とは、硬直したものではなく、神の豊かな創造と贖いの御業に現された、豊かで生き生きとした神の属性です。

[4] この創造記事は、二章四節前半の「安息の制定」に頂点を持ちます。これもまた、人の予想を裏切る、神の創造の本質でしょう。やすむこと、眺めること、誇りやがんばりを捨てて、恵み豊かに働き、楽しまれる神への信頼を全身で告白すること…なのです。この安息に根拠を置いて命じられたのが、安息日規定です。主の日に集まるのは、神を喜ばせるためでも、奉仕するためでもなく、神が豊かに働き、私たちに労働(奉仕)や犠牲ではなく、ともに世界の王である神と過ごし、神の栄光を満喫し、信頼をもって静まり、喜びに生きるためです。礼拝出席や奉仕が、信徒個人の負担であるほどに強いられるならば、安息日規定の本質とは本末転倒になっています。主の前にともに休むこと、それこそ、神が私たちに求めたもう安息日です。

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