聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

詩篇一二一篇「助けはどこから来る」新年夕拝

2017-01-02 17:54:39 | 説教

2017/1/1 詩篇一二一篇「助けはどこから来る」

 今日の詩篇一二一篇は、一二〇篇から一三四篇まで、一五の詩篇が

「都上りの歌」

とタイトルがつけられている中の一つです。「都上り」とは、ユダヤの人々がエルサレムの都まで礼拝のために上っていく、巡礼の旅の事です。今のように近くの教会に車で行くのとは訳が違います。年に数回、歩いてエルサレムまで行くのが「都上り」でした。それは、実に貴重で、また大変な旅でした。一番北のガリラヤからなら、三日ほどはかかったでしょう。往復で一週間ほどかけての旅です。その間、色々なことを考えたことでしょう。数時間だけ教会に行くのでさえ、大変なことがありますが、まして一週間家を空けるのです。家族のこと、仕事のこと、親のこと、そして戦争や侵略がしょっちゅうあった昔ですから、そういう社会や民族的な心配も考えずにはおれなかったでしょう。

 ここに出てくる「山」は巡礼の旅の途中で見た、山々だったのでしょうか。あるいは、都エルサレムがある山々の連なりが目に見えたのかもしれません。ここで「山」を見た時、恐らく詩人の心に浮かんだのは、美しい自然というよりも、山の険しさ、自分たちの道に立ちふさがる問題を象徴するような恐れだったのでしょう。山は綺麗だなぁ、と憧れて山を見ているのではなく、山に登っていく巡礼の道を覚えながら、

 1私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。

と思わずもらしたのでしょう。それは、ただ山を登るのが大変だ、上り坂だから嫌だなぁという事ではないのです。私の助け、と彼は言います。自分の生活の助け、巡礼に行って帰ってくればいいだけではない現実の自分の生活全般を思いながら、心に浮かんでくる問題を、見上げる山に重ねながら、

「私の助けはどこから来るのだろうか」

と言ったのです。この礼拝に来ている私たちもどうでしょうか。礼拝に来ながらも、心に引っかかっている心配があるでしょう。教会の上がりかまちを見てため息をつく方は、普段もあちこちでため息をついているはずです。今ここにいる私たちそれぞれの心にはどんな山があるのでしょう。もし私たちが礼拝のため、ここではなく、三日も旅をしなければならない都だとしたらどうでしょうか。とても、そこまで行く気力はない、と思わないでしょうか。詩篇作者の生活も、決して悩みや苦労が何もないから、都に上って行けたのではないはずです。その途中、山を見上げてはため息が出、助けて欲しいと叫びたくなるような自分の心に気づくのです。しかし、彼は続けて言います。

 2私の助けは、天地を造られた主から来る。

 私の助けは、天と地を造られた神、主から来るのだ。今から向かっている都で崇めているのは、エルサレムだけにいる神ではありません。礼拝だけを要求し、私の生活のことは知らんぷり、という神ではありません。私を助けてくださる方です。しかも、この神は天地を造られた神です。この山を越えた向こう側のエルサレムにおられる神ではないのです。山も空も、大地も、後ろの故郷も、その向こうの異国の地も、すべてをお造りになった神なのです。その主から、私の助けは来る。そう彼は自分に言い聞かせます。

 3主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。

 4見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。

 「まどろむこともない」と二回繰り返して、主の守りの確かなこと、信頼するに価することを自分に思い起こさせますね。今日、私たちもこの言葉を言いましょう。

「私の助けは、天地を造られた主から来る」。

 私たちの教会にとって大きな影響を与えたジャン・カルヴァンはジュネーブの教会の礼拝の最初に、召詞として毎回この詩篇一二一篇2節を読み上げて始めました。神を礼拝するに当たり、その神を

「天地を造られた主」

として覚え、同時にその方から

「私の助けが来る」

と励まされる。そこを確認した上での礼拝としたのです。これは、今も大切な確認です。この礼拝と、私たちの生活は、別々のことではありません。私たちは、今自分の心に引っかかっている様々な問題の助けも、この方から来ると信じて、天地を造られた主を礼拝するのです。

 5主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。

 6昼も、日が、打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。

 7主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。

 8主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。

 詩篇作者はこう言い切っています。この短い詩篇の中で、「守る」という言葉が何度も繰り返されているのに気づきます。全部で六回も、

「守る方…守る方…守る方…あなたを守る…あなたのいのちを守られる…今よりとこしえまでも守られる」

と繰り返すのですね。裏を返せば、主の守りを繰り返して確認することが必要なほど、禍もあるし、助けが必要なのが人生の旅路だ、ということです。主は私たちを禍から守ってくださいます。けれども、禍に遭わせずぬくぬくと過ごさせてくださる訳ではありません。私たちが一年の初めに、主に禍からの守りを祈り、主の確かな守りを確信するのも、決して、この一年、不幸や苦しみがない、という事ではありません。病気や死や悲しみがない人生を期待せよ、というのではありません。そういう禍があって、実際、大変な思いをしたり、取り返しの付かない曲がり角を経なければならないのも、私たちの人生です。しかし、そうした中でも、私たちは、神が私たちを守り、禍をも益に変え、祝福にしてくださると信じるのです。主は私たちの「右の手」を守り、なすべきことを果たさせてくださいます。私たちの「いのち」を守って、死においても、恐れることなく、魂を主に委ねさせてくださいます。主はすべての禍よりも強いお方です。

ヘブル十一6信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

 私たちは神がおられる事実だけでなく、この方が御自身を求める者には報いてくださる方であることをも信じます。それが主が私たちに与えてくださる信仰です。天地を造られた主から、私の助けが来る。何と大胆な信仰でしょう。主イエス・キリストが示して下さり、御霊が私たちに育んで下さるのは、この信仰です。どんな歩みがこの先にあるのか、私たちは1年後も、明日さえも分かりません。でも、どんな禍が起きようとも、その事さえ主は助け、私たちを守り、神の民として支えてくださると約束されています。

 

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創世記一章26~31節「開かれた心で生きる」新年礼拝

2017-01-02 17:51:00 | クリスマス

2017/1/1 創世記一章26~31節「開かれた心で生きる」新年礼拝

1.驚くばかりの

 創世記一章には、神が世界をどのようなものとして創造されたかのドラマが語られています。実に豊かな創造です。闇に照らされた光の中に、神はゆっくりと、色とりどりの作品を描いてゆかれます。あらゆる果樹や海の動物、あらゆる鳥、野の獣など、素晴らしく多様に、多彩にお造りになりました。神のなさることは実に楽しく、驚きに満ちています。神は尽きることのないアイデアを形にしてゆかれるアーティストです[1]。私たちには、その全てを見極めることは勿論、神が次に何をなさるかさえ推測することが出来ません。神のなさることは驚くばかりの御業です。そして、その創作やプロセスを美しいものとされます。そのわざを楽しまれ、喜ばれ、祝福されるのが神である。そう物語ることから聖書が始まるとは何と素晴らしいことでしょうか[2]

 勿論、世界には様々な問題があります。創世記三章以降、人間が神に背いたために、罪と悲惨が入った問題が展開されていきます。しかし、世界にはもう驚きや祝福は失われ、神が喜ばれた創造は台無しになってしまったのではありません。むしろ、世界にある美しさ、神の御業が溢れ、私たちを驚かせてやまない素晴らしさに、聖書は立ち帰らせてくれます。そして、今それぞれの場所で私たちは、人知を超えた神の御手の中に生かされているのです。

2.神のかたちに

 しかし、神が世界の豊かに造り上げ、想像力を存分に発揮なさった頂点で、なさったことがまた私たちの意表を突くのです。なんとその創造の最後に、神がなさったのが人間創造です。

26神は仰せられた。「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地を這うすべてのものを支配するように。」

27神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

 創造の最後を飾るのに神がお造りになったのは、その栄光に相応しい巨大な生物ではありませんでした。巨人や竜、天使や仙人でもなく、なんと人間でした。それも、神がご自身の

「かたち」

ご自身に

「似せて」

造られたというのです。更に驚くべきことに、その神のかたちは、

「男と女とに創造された」

と言いかえられます。男だけが神のかたちでもないし、男も女も神のかたち、というのでもないのです。男と女とに創造されたことが神のかたちなのです。男と女、この造りからして違う者が、ともに生きることに神は、ご自身のかたちを置かれました。神の神らしさを現すのは、万能の存在や無敵の生物や完成された天使ではありません。男と女-互いに相手を必要としつつ、しかし決して同じでなく、厄介でさえある別の人格同士が、愛し合い助け合い、ともに神の恵みに応えて生きる。神は、そういう手に負えない関係にこそ、ご自身の神らしさが現れるのだとされるのです[3]。そうして人間に世界を委ねられたのです。

3.開かれた心で

 そう考える時「開かれた心」という言葉が浮かびます。神の豊かさに対しても、男と女という身近な関係でも、私たちは心を開いて生きるように招かれています。何よりも、神御自身が素晴らしい世界を創造された最後に、私たち小さな、限りある人間の人格的な関係や精一杯の応答に、世界を預けてくださいました。神御自身が、様々なリスクを承知の上で、この私たちに対して心を開いてくださったのです。これは、最大の驚きです。

 私たちが生きる世界は、神が私たちの予想や理想の枠をはみ出して行動される世界です。家庭や職場で、思い通りにはならない相手と暮らす社会です。そこで、「全能の神も当てにならない、神に裏切られた、失望した」と心を冷たくするのは甚だ勘違いです。神は飼い慣らせる方ではありません。神の御業は私たちの予想の範囲内の単純なものではありません。聖書の歴史そのものが、予想外の展開の連続でしたし、教会の歩みも信仰生活も、内向きに守りや安全や祝福や成長のパターンを期待するのではありません。神の尊いご計画は、測り知ることが出来ません。この創造も、神の子イエスの十字架も、人の推測を裏切るような、神の驚くべき御業でした。私たち一人一人に対しても同じです。神は私たちを予想も付かない道へ、かけがえのない人生へ召されたのです。

 新しい年に主イエスの祝福を願います。私たちの願い、予想する祝福や安全と違い、もっと大きな祝福です。直ぐにはその意味が到底分からないでしょう。神は私たちよりも大いなるお方、私たちの思いも寄らない御業をなさるお方です。驚くべき豊かな御業をなさった神は、その巧みな御手を惜しみなく開かれたばかりか、私たちに心を開かれます。私たちがご自身に似た者として、世界を愛し、自分と違う者を愛するよう招かれます。私たちも、神に対して、そしてお互いに対して、いつも心を開いて生きる時、もっと神に似た者とされるのです。神を信頼して、心を開きましょう。祝福のご計画を信じ、その一端を担わせていただきましょう。

「天の父よ。御手のわざである世界の豊かさに圧倒され、それを喜び、楽しまれる主の笑いを褒め称えます。あなたを小さく考え、自分をも卑しく考えがちな私たちですが、あなたが聖書において驚くべき栄光を約束しておられるゆえに憩わせていただけます[4]。この一年も主の御心をなし、私たちにあなたへの賛美と信頼を深めさせ、御心に従う心と歩みをお恵みください」

※ 画像は、ノーマン・メッセンジャー『天地創造』(岩波書店)からのものです。

[1] この言葉を読みながら、うわべだけをさらっと読み飛ばしてはつまりません。私たちの貧弱な想像力で表面的に読んで、もうこの創造の記事については分かったかのように思うなら、最も肝心なメッセージを読み損ねているのです。神のなさることは私たちの想像力や予想を遙かに超えています。私たちが自分のちっぽけな頭で考えるよりも、遙かに大きく、意外で素晴らしいことをなさいます。

[2] 神は、「自分ではないもの」を作り、それを力で支配したり型にはめたり、固執しようとしたりせず、その自由を喜び、多様性を楽しまれ、小さな者、人格的な関係を生み、育て、そのためのリスクをも引き受ける神なのです。

[3] エペソ四22-24「その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、23またあなたがたが心の霊において新しくされ、24真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」「25ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。」 イエス・キリストにある教えとは、神のかたちに造られた人間性の回復です。その「真理」「義と聖」とは、硬直したものではなく、神の豊かな創造と贖いの御業に現された、豊かで生き生きとした神の属性です。

[4] この創造記事は、二章四節前半の「安息の制定」に頂点を持ちます。これもまた、人の予想を裏切る、神の創造の本質でしょう。やすむこと、眺めること、誇りやがんばりを捨てて、恵み豊かに働き、楽しまれる神への信頼を全身で告白すること…なのです。この安息に根拠を置いて命じられたのが、安息日規定です。主の日に集まるのは、神を喜ばせるためでも、奉仕するためでもなく、神が豊かに働き、私たちに労働(奉仕)や犠牲ではなく、ともに世界の王である神と過ごし、神の栄光を満喫し、信頼をもって静まり、喜びに生きるためです。礼拝出席や奉仕が、信徒個人の負担であるほどに強いられるならば、安息日規定の本質とは本末転倒になっています。主の前にともに休むこと、それこそ、神が私たちに求めたもう安息日です。

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