2017/1/1 詩篇一二一篇「助けはどこから来る」
今日の詩篇一二一篇は、一二〇篇から一三四篇まで、一五の詩篇が
「都上りの歌」
とタイトルがつけられている中の一つです。「都上り」とは、ユダヤの人々がエルサレムの都まで礼拝のために上っていく、巡礼の旅の事です。今のように近くの教会に車で行くのとは訳が違います。年に数回、歩いてエルサレムまで行くのが「都上り」でした。それは、実に貴重で、また大変な旅でした。一番北のガリラヤからなら、三日ほどはかかったでしょう。往復で一週間ほどかけての旅です。その間、色々なことを考えたことでしょう。数時間だけ教会に行くのでさえ、大変なことがありますが、まして一週間家を空けるのです。家族のこと、仕事のこと、親のこと、そして戦争や侵略がしょっちゅうあった昔ですから、そういう社会や民族的な心配も考えずにはおれなかったでしょう。
ここに出てくる「山」は巡礼の旅の途中で見た、山々だったのでしょうか。あるいは、都エルサレムがある山々の連なりが目に見えたのかもしれません。ここで「山」を見た時、恐らく詩人の心に浮かんだのは、美しい自然というよりも、山の険しさ、自分たちの道に立ちふさがる問題を象徴するような恐れだったのでしょう。山は綺麗だなぁ、と憧れて山を見ているのではなく、山に登っていく巡礼の道を覚えながら、
1私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。
と思わずもらしたのでしょう。それは、ただ山を登るのが大変だ、上り坂だから嫌だなぁという事ではないのです。私の助け、と彼は言います。自分の生活の助け、巡礼に行って帰ってくればいいだけではない現実の自分の生活全般を思いながら、心に浮かんでくる問題を、見上げる山に重ねながら、
「私の助けはどこから来るのだろうか」
と言ったのです。この礼拝に来ている私たちもどうでしょうか。礼拝に来ながらも、心に引っかかっている心配があるでしょう。教会の上がりかまちを見てため息をつく方は、普段もあちこちでため息をついているはずです。今ここにいる私たちそれぞれの心にはどんな山があるのでしょう。もし私たちが礼拝のため、ここではなく、三日も旅をしなければならない都だとしたらどうでしょうか。とても、そこまで行く気力はない、と思わないでしょうか。詩篇作者の生活も、決して悩みや苦労が何もないから、都に上って行けたのではないはずです。その途中、山を見上げてはため息が出、助けて欲しいと叫びたくなるような自分の心に気づくのです。しかし、彼は続けて言います。
2私の助けは、天地を造られた主から来る。
私の助けは、天と地を造られた神、主から来るのだ。今から向かっている都で崇めているのは、エルサレムだけにいる神ではありません。礼拝だけを要求し、私の生活のことは知らんぷり、という神ではありません。私を助けてくださる方です。しかも、この神は天地を造られた神です。この山を越えた向こう側のエルサレムにおられる神ではないのです。山も空も、大地も、後ろの故郷も、その向こうの異国の地も、すべてをお造りになった神なのです。その主から、私の助けは来る。そう彼は自分に言い聞かせます。
3主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。
4見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。
「まどろむこともない」と二回繰り返して、主の守りの確かなこと、信頼するに価することを自分に思い起こさせますね。今日、私たちもこの言葉を言いましょう。
「私の助けは、天地を造られた主から来る」。
私たちの教会にとって大きな影響を与えたジャン・カルヴァンはジュネーブの教会の礼拝の最初に、召詞として毎回この詩篇一二一篇2節を読み上げて始めました。神を礼拝するに当たり、その神を
「天地を造られた主」
として覚え、同時にその方から
「私の助けが来る」
と励まされる。そこを確認した上での礼拝としたのです。これは、今も大切な確認です。この礼拝と、私たちの生活は、別々のことではありません。私たちは、今自分の心に引っかかっている様々な問題の助けも、この方から来ると信じて、天地を造られた主を礼拝するのです。
5主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。
6昼も、日が、打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。
7主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。
8主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。
詩篇作者はこう言い切っています。この短い詩篇の中で、「守る」という言葉が何度も繰り返されているのに気づきます。全部で六回も、
「守る方…守る方…守る方…あなたを守る…あなたのいのちを守られる…今よりとこしえまでも守られる」
と繰り返すのですね。裏を返せば、主の守りを繰り返して確認することが必要なほど、禍もあるし、助けが必要なのが人生の旅路だ、ということです。主は私たちを禍から守ってくださいます。けれども、禍に遭わせずぬくぬくと過ごさせてくださる訳ではありません。私たちが一年の初めに、主に禍からの守りを祈り、主の確かな守りを確信するのも、決して、この一年、不幸や苦しみがない、という事ではありません。病気や死や悲しみがない人生を期待せよ、というのではありません。そういう禍があって、実際、大変な思いをしたり、取り返しの付かない曲がり角を経なければならないのも、私たちの人生です。しかし、そうした中でも、私たちは、神が私たちを守り、禍をも益に変え、祝福にしてくださると信じるのです。主は私たちの「右の手」を守り、なすべきことを果たさせてくださいます。私たちの「いのち」を守って、死においても、恐れることなく、魂を主に委ねさせてくださいます。主はすべての禍よりも強いお方です。
ヘブル十一6信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。
私たちは神がおられる事実だけでなく、この方が御自身を求める者には報いてくださる方であることをも信じます。それが主が私たちに与えてくださる信仰です。天地を造られた主から、私の助けが来る。何と大胆な信仰でしょう。主イエス・キリストが示して下さり、御霊が私たちに育んで下さるのは、この信仰です。どんな歩みがこの先にあるのか、私たちは1年後も、明日さえも分かりません。でも、どんな禍が起きようとも、その事さえ主は助け、私たちを守り、神の民として支えてくださると約束されています。
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