聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問46-48「主は今どこに?」ローマ8章31-37節

2017-01-15 15:41:30 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/1/15 ハイデルベルグ信仰問答46-48「主は今どこに?」ローマ8章31-37節

 前回はキリストの復活についてお話しをしました。イエスの十字架と復活が、教会の福音の中心であることを確認することが出来ました。本当にイエスはよみがえられて、私たちとともにおられる。それが、私たちの信仰告白の最も大事な部分なのです。

 ではよみがえられたキリストは、その後どうされたのでしょうか。使徒信条では

「天にのぼり」

と言われています。今日からこの主イエスの「昇天」を二回お話しします。

問46 あなたは「天にのぼり」をどのように理解しますか。

答 キリストは弟子たちの目の前で地上から天に上げられ、生きている者と死んだ者とをさばかれるために再臨される時までわたしたちのためにそこにいてくださる、ということです。

 使徒の働き一章では、主イエスは復活されてから、四十日の間、弟子たちとともにおられ、それから天に昇られたとあります。■

使徒の働き一9こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなった。

 イエスは本当にお生まれになり、十字架に死なれ、本当によみがえられたように、地上から天に上げられた、と言います。勿論それは、肉眼で観察して追跡していれば、そのまま大気圏を突き抜けて上昇し続け、宇宙旅行を続けたのか、ということではありません。「天」とは「宇宙」のことではなく、神がおられる栄光の場所を表現するものです。でもそれを私たちがイメージするには、高い天をイメージするのがやっぱり相応しいのでしょう。大いなる神を思うのに分かりやすいのは、天におられるお姿です。イエスがよみがえられてから、神のもとに帰られたという時にも、天に昇る形で見えなくなるのが、一番相応しいことだったのです。そしてイエスは、もう一度おいでになって、生きている者と死んだ者とを裁かれるのです。それまでは、その天の神の御座の右におられる、と教会は信じてきたのです。

 ところで、この後、ハイデルベルグ信仰問答では、こんな二つの問いを挟みます。

問47 それでは、キリストは約束なさったとおり、世の終わりまでわたしたちと共におられる、というわけではないのですか。

答 キリストは、まことの人間でありまことの神であられます。この方は、その人間としてのご性質によるなら今は地上におられませんが、その神性、威厳、恩恵、霊によるなら片時もわたしたちから離れておられることはないのです。

問48 しかし、人間性が神性のある所どこにでもある、というわけではないのならば、キリストの二つの性質は互いに分離しているのではありませんか。

答 決してそうではありません。なぜなら、神性は捉えることができず、どこにでも臨在するのですから、確かにそれが取った人間性の外にもあれば同時に人間性の内にもあって、絶えず人間性と人格的に結合しているのです。

 ちょっと回りくどいですね。キリストは私たちとともにおられる、というのに、天におられる、というのはどっちなのですか。人としては地上におられないし、神としてはどこにでもおられるのだ。いやそれなら、キリストが神であり人であるというのも、結局別々のこともある、ということではないのですか? そういう細かい事を論っているように思えます。面倒くさいなぁ、ということで読み飛ばしても良い気もします。

 けれども、この言葉の裏には、本当に大きな問題がありました。とても大切な問いがありました。今はその問題にはあえて触れません。それでも覚えておいていただきたいし、それはただの雑学ではなくて、私たちを励まし、支えてくれる知識になるのかも知れません。端的に言ってしまえば、それは

「イエスは今どこにおられるのか」

という問いです。皆さんはどうでしょうか。イエスは今、どこにおられるのですか、と問われたらなんと答えるでしょうか。「そうだなぁ、イエス様はともにおられるというのだから、私たちのそばに、かな?」「いいや、もう一度、この世界に戻ってこられて、新しい世界を始められるのだから、今は天におられるはずだけどなぁ?」どちらでしょう?

 ある人たちは、イエスは人だけれども神でもあるのだから、イエスは人としても特別な人であって、今も私たちとともにおられるのだ、と言いました。天におられつつ、同時に、この世界にもおることが出来る、特別な方なのだ。だから、聖餐式のパンと葡萄酒は、本当にイエスの肉となり血となるのだ、とも言ったのです。これに対してハイデルベルグ信仰問答を書いた改革主義の人たちは、そうではない、と言ったのです。

 イエスは本当に人となられたのだ。本当の人である以上、どこにもかしこにもおられることが出来はしないのだ。もしそれが出来る、特別な人間だったとしたら、イエスは本当の人となられたとは言えなくなるではないか。イエスが、本当に私たちと同じ人間になってくださった。この慰めを踏みにじることになってしまう。そうではないのだ。そういう事から、わざわざこの二つの問答を挟んだのです。

 イエスは神であるゆえに、いつもどこにでもおられるお方です。けれども、そのイエスが私たちと同じように人間になられ、この世に来て生きてくださいました。そのお方は十字架の苦しみも、人としてのあらゆる苦しみや喜びをご存じです。そうであるなら、今は天におられます。私たちが今、イエスがどこにおられるのかと言われても、簡単に「ともにおられます」とは言い切れないもどかしさも十分味わっておられます。なぜならイエスは今、天におられるのですから。離れている今も、聖霊を遣わして私たちとともにおられますが、それだけではありません。今はともにいない寂しさもご存じであるに違いありません。だからこそ、イエスはやがて再びおいでになって、私たちとともにいる日を楽しみに待っておられる、とも確信できるのです。イエスは言われました。

マタイ二六29ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。

 イエスは今も聖霊を通してともにおられます。でもまだ昔のように、また将来のように、触れ合える形ではともにおられません。それは心細い事です。そしてイエスもそのように思い、今は断酒して、私たちとともに食卓を囲む日を楽しみにしておられるのです。イエスは今、人としては天におられ、私たちはやがての再会を待っているのです。

 

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「礼拝⑨ 祈りの幸い」マタイ六5-8

2017-01-15 15:31:06 | シリーズ礼拝

2017/1/15 「礼拝⑨ 祈りの幸い」マタイ六5-8

 今日から祈りについてお話しします。そう言われると怯(ひる)む方もいません。祈りへの苦手意識がありますか。しかし、礼拝とは祈りです。礼拝そのものが祈りです。礼拝は、祈りが一人一人にとってなくてはならぬ大切なものだと気づかせて、祈りへと誘う恵みでもあります。

1.祈りについての誤解

 今日のマタイの六章9節以下でイエスは「主の祈り」を教えてくださいました。その最初に

「だから、このように祈りなさい」

と言われたのですが[1]、それはどのようになのかが8節までの所に書かれています。この当時、ユダヤの社会には礼拝も祈りも日常に浸透していました。しかし、そこに大きな勘違いが生まれていたことをイエスは教えられます。祈ってはいても、人が陥ってしまう過ちがあります。それは私たちも陥りやすい誤解です。

 5また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。

 偽善者のような祈りとは、神に祈っているようでも、実は人に見られたり誉められたりしたいから祈っている。祈りさえも、自分を良く見せたいためにする手段にしてしまう。だから6節でイエスは、奥まった部屋に入り、戸を閉めて、神に祈るようにと勧めます。もう一つは、

 7また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。

 8だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。

 こちらでは、異邦人のように同じ言葉を繰り返して、自分たちの祈りの力で神を動かそうとするような祈りを戒めています。神は、私たちがお願いする先に、私たちに必要なものを知っておられる、私たちの天の父です。その事を忘れているなら、いくら熱心に祈ったとしても、それは神を知らない「異邦人」の祈りと変わらない、というのです。

 ここでイエスは、祈り方を通して、私たちが神をどのような方と考えるかを問われています。もし私が、神を小さく考え、表面的なことしか見ないお方、私に何が必要かは神よりも私の方がよく知っている、と考えているなら、私は、言葉や格好だけで立派な祈りを取り繕ったり、自分の願いを只管(ひたすら)訴えたりするでしょう。そして、その祈りが叶わないと自分の祈り方が間違っていたか、神をケチだと考えるでしょう。願い事が叶えてもらう事が祈りの目的になっているからです。でもその神を小さくする考えが既に、小さすぎる神を拝む不信仰なのです。

2.神に祈るということ

 ここでイエスは神を

「隠れた所におられる(もしくは、隠れた所で見ておられる)あなたの父」

と繰り返して呼んでおられます。人は、会堂や通りの四つ角、目に付く所で自分を良く見せようと考えますが、神はむしろ隠れた所、見えない所、だれも見ていない時の私の本当の姿に目を留められます。上辺を良く見せようと誤魔化す裏の、あるがままのあなたをご存じです。隠しておきたい素の私たちを、人目を気にせずにはおれない、不安や妬みやプライドや怒りを抱えた私たちの心に、天の父はおられるのです。しかも、そういう私たちの問題を責めたり、蔑んだりするのではなく、天の父として私たちを深く憐れみ、見守っておられるのですね。

 神に祈る時、私たちはまずそのような神として祈りを捧げる神を覚えたらよいのです。私たちの、隠れた生活や思いをご存じの方、そして、私たちが祈るより先に私たちの必要をすべてご存じのお方。そういう大いなるお方の前に祈るのが祈りです。「いや、そんなことを言われたら、どう祈ったら良いか分からなくなる」と仰るかもしれませんね。でもそれが大事なのではありませんか。神が私たちに求められるのは、立派で行き届いた言葉を蕩々(とうとう)と述べる祈りではありません。祈りとは作文の提出ではないのです。

伝道者の書五2神の前では、軽々しく、心あせってことばを出すな。神は天におられ、あなたは地にいるからだ。だから、ことばを少なくせよ。

ローマ八26御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。[2]

 神と私たちの、天と地との差異を思う時、人は軽々しく言葉を出せなくなります。神が偉大で近寄りがたいお方だというだけではありません。その神が私たちの心の隅々までもご存じで、私たちの必要を私たちが祈るより先にご存じでいてくださる、それほどのお方なのです。そして、御霊なる神ご自身が私たちのために言いようもない深い呻きで、私たちの事を神に届け、私たちが祈るのを助けてくださる。そうやって、私たちが祈ることが成り立つものなのです。だから、祈る時には、どう祈れば良いかと考えて焦って言葉を出すよりも、神の測り知れない偉大さの前で大きく息を吸い込んでから、ゆっくりと、飾らない言葉を紡いでいくのです。[3]

3.祈ることが救い

 祈りが、自分の願いや自尊心のためになってしまうのは、祈りだけではなく、そもそもの私たちの神理解そのものが、小さすぎる神に貶(おとし)めて考えているからですね。そこで私たちはこういう言葉を聴いても、「ああ、自分は偽善的で、異邦人のような祈りをしてしまうから、神は喜ばれないに違いない」などと考えてしまうのです。私たちが神を小さくしているからダメだ、なら絶望しかありません。しかし、イエスはそんな勘違いの祈りはダメだと仰って切り捨てることはなさいませんでした。イエスは、御父とはどのようなお方であるかを教えてくださいました。また、ご自身が神と私たちとの架け橋となって、神との関係を回復してくださったのです。そして、イエスが祈りを教えてくださることで、私たちは、もう一度、本来の神との関係を回復させていただきます。主の祈りを祈ったり、聖書や教会の祈りに教えられたり、祈祷会でともに祈ったり、自分で祈ったりしながら、神を大いなるお方として、自分はその前に人間に過ぎないこと、けれども測り知れない恵みを神から戴いていることを知るのです。それは、言わば、祈りを通して、私たちが自分自身を取り戻していく恵みのプロセスです。

 最近

「祈る事自体が救い」

という言葉に触れました[4]。どう祈ったら聞いてもらえるかとか、どんな言葉で祈れば良いかとか以前に、神に祈る事が出来る。貧しい祈りや雑念が混じっても、いいえ言葉を失ってただ立つだけの私たちと向き合う神がおられます。人が見積もるよりも深く確かな神の御心に、心をぶつける程に信頼しながら生きる。その事自体が救いなのです。

 礼拝には司会者や代表者が祈りますし、礼拝そのものが祈りです。それは、代表者に祈ってもらえば自分たちは祈らなくても良いということではありませんし、礼拝で祈ったのだから後は祈らなくて良い、ということでもありません。私たちが祈りを後回しにすると、私たちはもっともっと迷って、心配に振り回され、流されてしまいます。それは余りに勿体ないことです。「寝溜め、食い溜め」と言う言葉もありますが、礼拝は「祈り溜め」ではありません。普段は祈らなくて良いように礼拝に来るのではないのですね。礼拝に来て、ここで私たちは、神の偉大さや憐れみ深さを本当に素晴らしいものとして教えられます。代表者の祈りも、会衆一人一人を励まして、自分も普段から祈ろう、難しく考えず天のお父様に祈ろう、願いを捧げよう、自分の思いを全部祈っていこう、そして御心にお任せしていこう、と誘うものでもあるのです。私たちは、呼吸のように自然に神を呼び求め、天の父に祈る幸いを知る者として生きるのです。

「祈りを聞きたもう天の父よ。あなたに祈れる幸いを感謝します。あなたに祈れるこの関係そのものが救いです。あなたが祈りに応えて私たちに下さる幸いを、どうぞ一人一人にお恵みください。あなたを私たちの闇も必要もご存じの父として、ますます恐れ、心から崇め、感謝と希望をもって御名を呼び求めながら生きる恵みを、私どもの歩みを通して証ししてください」



[1] 新改訳聖書で「こう祈りなさい」と訳されているのは「このように祈りなさい」とすべきです。主の祈りをそのまま祈れと言われたのではなく、主の祈りを手本として、それにならった祈り方をしなさい、と言われたのだからです。

[2] ここでも、根拠となっているのは、私たちが受けたのは「人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます」(八14)とあるとおり、神が「父」となってくださった契約関係の確かさです。また29節でも「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」とあるとおり、御子イエス・キリストを長子とする神の子らの兄弟たちになるよう、私たちを定めてくださった永遠のご計画において、御霊の執り成しが位置づけられるのです。

[3] 「祈るということは、あなた自身の内にある同じようなケチな思いを神に求めることではない。祈るということは、神の完全な光の内を歩むことであり、「私は人間にすぎませんが、あなたは神です」と一歩も引きさがることなく素直に言うことである。このように表明するときに、神のみもとに戻ること、すなわち、(人間と神との)本来の関係がとりもどされる。」一キリスト者のメッセージ http://voiceofwind.jugem.jp/?cid=31

[4] 左近豊氏の言葉。参照、「傍らにあっての祈り~旧約聖書の祈りに学ぶ」http://www.nfkws.org/womenPasterCommittee/tsudoi41.pdf

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