2016/11/27 イザヤ書八22~九7「ひとりのみどりごが私たちに」
今日からクリスマス前までの四回を「待降節(アドヴェント)」として過ごします[1]。この間に私たちはクリスマスを待ちつつ、イエス・キリストがこの世にお生まれ下さった恵みを味わい、思い巡らします。そして、今ここで主イエスが、もう一度私たちの所に来て下さることを待ち望むのです。
1.イザヤの預言した誕生
イザヤ書九章6-7節はクリスマスには必ず読まれる、イエス・キリストの誕生を、その七百年も前のイザヤの時代に預言していた聖書のお言葉です。
6ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
イザヤ書にはキリスト預言の大事な言葉が沢山あります。キリストが来られる七世紀も昔から、その御生涯や死が約束されていました。イエスの誕生はずっと待ち望まれていた約束でした。実際キリストがお生まれになった時、それを待ち望んでいた大勢の人がいました[2]。彼らはイザヤ書を読んでいたはずです。けれどもその前にイザヤの時代の読者を考えたいのです。
八22地を見ると、見よ、苦難とやみ、苦悩の暗やみ、暗黒、追放された者。
これがイザヤの当時の様子でした。イスラエルの国は、北のアッシリヤからの軍事侵略に怯えていました。国の政治家たちは腐敗や不正で堕落していました。民の中にも信仰や誠実さが失われていた時代です[3]。そういう時代を考える時に、七百年も先の話を言われても、どうでしょうか。希望どころか、絶望に突き落とされた気がしたでしょう。今の自分たちは助けてもらえないのかと、もっと暗い思いをしたでしょう。でもイザヤが語ったのは、今の慰めです。
1しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。
2やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。
イザヤは過去形で「受けた。見た。照った」ともう出来事が起きたかのように語っています。勿論、まだ神の光は来ていないのです。闇はなくなっていません。でもそれを、「光が照った」と過去の出来事のように言うのです。これは、聖書に出てくる独特の言い方です。神が確かになさることは、まだ起きていなくても、確実なことだから過去形で表現するのです。日本語で「なるだろう」「するだろう」と言うと「ならないかもしれないけど」ですが、聖書の神がなさることは将来でも確実です。ですから、イザヤも六百年先にメシヤが来ますよ、ではなく、この時代、今の闇の中に神が光を与えてくださる、という確かな約束を語るのです。
2.逆説の神
まだ闇ばかりの時、神は光を語られます。まだ夜中ですが、明けの明星が見えた。それを見て、朝を確信する。朝が確実に来ることを知る者として生きるのです。その確かな徴として、実際この時、アッシリヤの軍隊が奇跡的に打ち負かされ、国際情勢や政治や倫理での改善も、僅かながら与えられるのです。しかし、ここで語られる光は、人間の思い描くような光とは違う、不思議な光です。1節の
「ゼブルンの地とナフタリの地」
はイスラエルでも一番北の田舎でした。
「ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤ」
と言われるぐらいの辺境でした。しかし、そこに光が見えるというのです。徳島が「VS東京」や「徳島から日本創生」と言うように、神はエルサレムという中心の大都市からではなく、ゼブルンやナフタリ、田舎からの意外な回復を語られます。4節の
「ミデヤンの日になされた」
というのも、ギデオンという臆病者が指導者となったエピソードです。三万二千人いた兵士を、神はわざわざ三百人に減らして、ミデヤンの大軍を破らせたのです[4]。神は、小さな者や田舎や闇の中に働かれるお方です。そしてそれこそ、イエス・キリストのお誕生でした。
「ひとりのみどりご」「ひとりの男の子」。
「赤ちゃんってカワイイ、会いたい!」と思うのは豊かな現代の感覚です。貧しい近代まで、子どもは劣って、価値がなく、手がかかるもの、「子供」(供えもの、お供)と低く見るのが一般的でした[5]。そういう卑しい形で神がお遣わしになるとは、理解に苦しむ事だったでしょう。
6…主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
7その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今より、とこしえまで。…
これと
「ひとりのみどりご」
とのギャップは測り知れません[6]。神は本当に小さい者を愛されています。暗闇の中にいる者を、その片隅にいる者まで見落とす事なく、愛され、慰められ、生きる喜びを増し加えられます。だからキリストも小さな赤ん坊としてのお生まれも厭われませんでした。クリスマスだけではないのです。今も主は私たちを心に止め、小さな子どもや弱い人、悲しむ人を、だれも見落とさず、愛され、そこに光を届けてくださるのです。それは全て、将来に神が来て、私たちの隅々までを照らし、完全に闇を取り除かれる事の保証です。
3.ひとりのみどりごが
イザヤの時代、神はその時点での希望を与えられ、現実にも働いてくださいました。でもまだ闇はありました。その先、六百年後に約束のキリストが来られ、光となってくださいました。でもまだ完全ではありません。今も、闇が完全になくなってはいません。しかし神は私たちに希望を与え、今この現実にも働いてくださいます。望みを叶えたり、人生を照らしたり、折々に励ましてくださいます。それは、完全な未来への担保なのです[7]。だからこそ今まだ闇があること、悲しみや痛みがあること、不完全で不条理があることも受け止めます。そして私たちは、今この時にさえ光や慰めを下さる主を待ち望みながら、今ここで光とならせていただくのです。キリストが来られても、世界が平和で完璧になったわけではありません。しかし、キリストをその人生に受け入れた人の生き方は変えられ始め、社会が子どもを大事にするようになり、平和や赦しへと決して少なからず動き始めたのです。光は輝き始めたのです。
勿論、とてもそう思えない現実も沢山あります。クリスマスは派手に祝っても、ますます貧富の差は広がり、クリスマスなんて祝えない人も大勢いるのも事実です。まだ闇はあるのです。その闇に輝くのがキリストの誕生です。力や輝かしさを捨てて人となられました。それは、測り知れない謙り、自己放棄です。「清水の舞台から飛び降りる」より、暴力や争いに満ちた世界に、無力な赤ん坊になって来ることは遙かに勇気が要ります。キリストは私たちのため、小さくなり、希望の星となってくださいました。私たちは、このキリストを、心にお迎えすることから始めます。世界を照らし、人生に生きて働いておられる幼子イエスの光を仰ぐのです。世界は問題だらけですが、でもその中にあるささやかな喜びや祝福も輝いています。それは、やがて神が世界を光で包み、私たちの社会も心の隅々までも癒やして下さる夜明けを告げる星です。今ここに神が働いて下さることと、でも今に完璧を求めず、将来に完全な恵みの勝利があることとを待ち望むのが私たちです。自分の闇の現実を認めましょう。人がどうだ世界がどうだという現実が変わるにも、まず「私」が神の光を灯して頂く必要があります。無力な赤ん坊となることを選ばれたキリストの愛を頂く必要があります。キリストの愛で、怒りや競争心や傲慢な心を、赦しや愛や喜びに変えて頂きましょう。キリストはそのために来られたのです。
「ともにアドヴェントを迎えた幸いを感謝いたします。イザヤを通して希望を約束された主が、今の私たちにも希望の光を与えてくださいますように。主は本当にひとりの嬰児としておいでくださいました。私たちのためにおいでくださいました。この小さな私たち一人一人を愛することによって、あなたの御業が始まっていきますように。このクリスマスを祝福してください」
[1] 今年は12月25日が日曜日ですので、一番早くアドヴェントを数えることになります。
[2] 特に有名なのは、東の方から訪れた博士たちですが、待ち望んでいた人は大勢いたのです。
[3] イザヤはそういう時代に、神の言葉を預かり伝える預言者とされましたが、殆どの人は話を聞いてくれない生涯でした。
[4] 士師記六-八章、参照。
[5] 実際の歴史では「子供」は蔑称ではなく、複数を表す「供」とされていますが、それを使う人間の意識としては、子どもを軽んじる意識があったと言えます。
[6] そして、実際のイエス・キリストは、更に貧しく、飼葉桶にお生まれになったのです。
[7]「期待が長びくと心は病む。望みがかなうことは、いのちの木である。」(箴言13章12節)