聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問39「十字架だったわけ」使徒2章36-39節

2016-11-13 18:08:49 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2016/11/13 ハイデルベルグ信仰問答39「十字架だったわけ」使徒2章36-39節 

 教会にとってのシンボルの一つは十字架です。

でも、十字架のネックレスは日本でも普通のお店でたくさん売られています。

十字架のアクセサリーをしているからといって、「この人はクリスチャンかも」なんて思うのは考えすぎですね。なんとなくオシャレだから、格好良いから、ぶら下げている人が多いのです。けれども、本当は十字架とは人を磔にする処刑道具でした。

キリストは十字架にかけられて殺されたのです。そしてそれは、ここで皆さんにもっとリアルな絵を見せることも出来ますけれども、あまりにもショッキングで、心に深いトラウマを抱えてしまうような残酷な処刑方法でした。

 当時も十字架は、残虐すぎて、国家への反逆か大きな犯罪をした極悪人しかこの十字架刑は適用されませんでした。また、ローマ市民には十字架刑を科すことは決してせず、十字架刑のことをローマ市民が思い出すことさえ忌むべき事だとされていたのです。もし当時のローマ市民が、現代の日本に来て、十字架のネックレスが売られていたり、身につけられて歩いたりしているのを見たら、どんなにビックリするでしょうか。ですから、改めて、今日の聖書箇所で使徒たちが言った言葉を考えてください。

使徒の働き二36ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」

 イエスをあなたがたは十字架につけた。逆に言えば、十字架につけられたキリストという教会の告白は、当時の常識からは考えられない、信じがたい事だったのです。

問39 その方が「十字架につけられ」たことには、何か別の死に方をする以上の意味があるのですか。

答 あります。それによって、わたしは、この方がわたしの上にかかっていた呪いを御自身の上に引き受けてくださったことを、確信するのです。なぜなら、十字架の死は神に呪われたものだからです。

 なぜ、十字架だったのでしょうか。イエスが死なれたのは、もっと違う方法でも良かっただろうに、十字架だった事には特別な意味があるのだろうか。教会が「主は…十字架につけられ」と特に言うことにはどんな意味があるのだろうか、というのが今日のポイントですね。少なくとも「オシャレだから、かっこよかったから」ではないのです!

 イエスの十字架にはいくつもの意味があります。特にここでは

「…なぜなら、十字架の死は神に呪われたものだからです。」

とあります。この言葉は、聖書に、

ガラテヤ三13キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。

と言われている言葉に基づいています。木にかけられる死は、神の呪いの象徴でした。確かに、木にかけられて、見せしめに殺され、その死体が遠くからも見られるほど晒されている、というのは普通ではありません。だから、そういう死体は日没までに取り下ろさなければならない、と申命記二一23に書かれているのです。その言葉をパウロは引用しながら、キリストが木にかけられたのは、それほどのろわしい死に方をあえてされたのだ、と言うのです。イエスは私たちのために、ご自分のいのちを与えて下さいました。でも、ただいのちを与え、ご自分を犠牲にして下さった、というなら、もっと楽で、綺麗な死に方でもよかったんじゃないかと言いたくなります。しかし、イエスはそこで楽で綺麗な道は選ばれませんでした。

 もしイエスが、ひっそりと綺麗な死に方をなさっていたとしたら、どうでしょうか? そして、三日目によみがえられたとしたら。そうして、「わたしはあなたがたのために死んでよみがえったのだ」と言ったらどうでしょう。確かにそういう高貴な死は、弟子たちには受け止めやすかったでしょう。話しても、十字架ほど抵抗はなかったかもしれません。でも、信じられない人にとっても意外じゃなかったはずです。本当にイエスは死んだのか、よみがえったのか、私たちのための死だなんて、信じられないね、と言われたら返す言葉はありません。

 けれども、十字架の死はそうではありません。イエスは安らかにひっそりと死なれたのではなく、見せしめになり、さらし者にされながら、大勢の人の前で死なれました。それは、人が目を背けずにはおれないほどの苦しみでした。何時間もぶら下げられて、身体の骨が外れ、一糸まとわぬ裸で辱められ、何日も太陽に照りつけられて、気が狂うような拷問でした。他の死に方だったら、死んだように見えただけで、仮死状態から蘇生したのをよみがえったと誤解したんじゃないかとも言われたかもしれません。しかし、十字架の死に仮死状態はありません。百歩譲って仮死状態になったのだとしても、全身のダメージが酷すぎて、イエスは歩いたり立ち上がったりさえ出来ない、重度の障害の身であったはずです。十字架刑とはそれほどの拷問でした。そういう生々しい死を、そこにいた大勢の人々が目撃しました。だからペテロがこう言った時、誰も否定できなかったのです。

「…神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」

 それは一面では、私たち人間の残酷さを現しています。罪のない愛のお方を十字架に殺した残酷さ、そもそも十字架刑などと言う残酷な処刑方法を考え出して実行できる残酷さ。そして、そのような私たちは、神に呪われて、自分の罪の罰を受けても当然だったでしょう。十字架でなくても、何かがあれば、神の呪いかお怒りだ、罰だと怯えなければならなかったでしょう。でもその十字架をイエスが引き受けて下さいました。最ものろわしい十字架が、最も尊い主の愛のシンボルになりました。

 「イエスの十字架によって、わたしは、この方がわたしの上にかかっていた呪いを御自身の上に引き受けてくださったことを、確信するのです。」

 そう告白することが出来るようにされました。引いては、主が最悪の出来事さえも、祝福に変えてくださるという約束も与えられたのです。どんな禍、どんな苦難や悲しみさえ、主の怒りでもなければ、神が無関心である証拠でもありません。イエスの十字架を通して、私たちは、神が呪いを引き受け、私たちを愛してくださったことを約束されています。最悪をも恵みに変える主の恵みを信じて、私は歩ませていただいています。

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礼拝⑦ 永遠の礼拝 ヨハネ4章1~26節

2016-11-13 17:57:22 | シリーズ礼拝

2016/11/13 「礼拝⑦ 永遠の礼拝」ヨハネ4章1~26節

 今日の箇所、「サマリヤの女」と名付けられてよく知られている箇所ですが、初めて読んだ方はどんな感想をもたれたでしょう。最後にイエスが「あなたと話しているこのわたしがそれです」というオチに、コミカルだなぁとクスッとしたくなりませんでしたか[1]。改めて私もそう思いました。そしてここに、礼拝についての大原則が語られている事もビックリな発見です。

1.「霊とまことによって礼拝する」ほんとうの礼拝者

23しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。

24神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。

 これは、イエス・キリストが示して下さった、礼拝の大原則です。礼拝する場所がどこか、エルサレムかこの山か、そういう場所に関係なく、「霊とまことによって父(なる神)を礼拝する」時が来た、とキリストは語られました。霊である神を礼拝するには、人間も、場所や形式でなく、霊的な礼拝をすべき、というのです。しかし、もう少し具体的な説明も必要です。

 この言葉が語られたのは、サマリヤ人の女との会話においてでした。イエスは、疲れて井戸のそばで座っておられました[2]

「第六時」

とは正午頃の暑い真っ盛りです。そこに女がやってきました。普通、水汲みはこんな暑い時間ではなく、早朝か夕暮れのもっと涼しい時にするのだそうです。誰も水汲みには来ない時間に来たのは誰にも会いたくなかったからでしょう。そこにユダヤ人がいて、自分に話しかけ、水を飲ませて下さいと頼まれて、彼女はどれほど驚いたかしれません[3]。男性が女性に話しかけること、ユダヤ人がサマリヤ人にものを頼むこと、どちらも当時の非常識だったのです。その後のやり取りでも、その人イエスは彼女に

「生ける水」「決して渇くことのない」

水を与え、その水を飲むなら、

「泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出る」

という不思議なことを言いますね。更に驚くべき事にイエスは、彼女の今までの生活や問題を何故か知っておられました。彼女は五回の結婚と離婚を繰り返し(死別はあったとしても全部ではないでしょう)、今は夫婦ではない同棲をしていました[4]。それでもイエスは彼女を見下さず断罪せず、話すのも汚らわしいなどと言わずに、真摯に会話を続けられました。その人生や心の深い所に触れながら、なお彼女との時を楽しまれました。傷ついてガードを堅くして、皮肉やすり替えで応えてきた彼女が、イエスと話すうちに自分についての「ほんとう」を語ります。ガードを下ろし、肩の力を抜き、自分のありのままを知っておられるイエスと語るようになる[5]。そして、何とその方こそ、来たるべきキリストだと分かる話なのです。

2.私のしたこと全部を

 「霊」といえば「第六感」や「霊感が強い」などと言うように、人間の普通の感覚以上の特別な感性のようなイメージがあるのではないでしょうか。聖書が言う霊はその逆です。人間の最も根本にあるのが霊です。五感や理性も失う時が来るでしょうが、人間が霊的な存在で、神との深い繋がりの中で生かされる必要がある事は決して失われることがありません。神が霊であると言うのも、フワフワとした捉え所のないお方であるのとは反対に、最も人格的であられるということです。ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません[6]。場所が大事なのではありませんし、場所はどこでも心がこもっていれば良いのだ、と簡単に言って済ませることでもないのです[7]。恍惚した状態になるとか、感情的に高揚した気分で礼拝するとか、そういう事ではなく、もっと私たちの心の奥深くでの礼拝のことです。

 その実例が、このサマリヤの女性です。彼女にとってそれまで「礼拝」とは、自分には縁のないものだったでしょう。今でも誰とも会いたくないのなら、将来メシヤが来られてもその礼拝の輪に自分が入れてもらえるか、入りたいかさえ分からなかったのではないでしょうか。そもそもユダヤ人の言い分が正しくてサマリヤ人が間違っているなら、絶望するしかありません。礼拝とは自分にはあまりにもかけ離れた話であり、自分の今の人生を何とかするだけで必死でした[8]。でも、その自分に語りかけた人がいて、「わたしがキリストだ」と言うのです。彼女はせっかく水を汲みに来たのに水瓶を置いて街に行き、顔も遭わせたくなかったはずの人々に、

29「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」

と言い回ります。自分のしたことを全部ありのままに知りつつ、その自分と相対(あいたい)してくださる方と出会った。若い頃の魅力も消え、刺々しい言葉しか出てこない彼女のガードも含めて、イエスは彼女を受け止められた。これこそ、彼女にとって霊的な出会いでした。18節でイエスが

「あなたが言ったことはほんとうです」

と仰ったのも、23、24節の

「まこと」

に通じます[9]

「霊とまことによる」

礼拝とは、誠実なふりをするとか自分の現実は棚上げして神に喜ばれようとする礼拝ではなく、自分の全部を知っておられる方、自分の全ての恥や渇きや傷、人に合わせる顔のない、孤独で淋しい霊的な現実を、受け止めておられる方の前に立つ礼拝なのです。

3.神は礼拝者を求めておられるから

 私たちはつい、「神は霊とまことによって礼拝することを求めておられるから、私は礼拝者として不十分だ」と減点思考で考えやすいものです。私自身、今までの50年近い礼拝生活で、心が神だけに向かい、雑念や余計なことを一切考えない礼拝をしたことなど一度もありません。主の祈りだけでも、心がさ迷わずに唱えたことなどありません[10]。私たちの努力で真の礼拝者になることは絶望的です。でも、主がそれを求めておられるのですから、希望があります。やがて真の礼拝者となる日に向けて、私たちは今途中にいるのです。今はまだ、礼拝の最中にも、人の仕草が気になったり、礼拝後の食事や今週の楽しみ、あるいは心配事を考えたりするでしょう。でも、そのような心配、お節介や夢を抱く私たちの全てを主はご存じです。私たちのありのままを、主は知っておられます。そういう人生で私たちがイエスから、生ける水を頂いて、渇くことなく永遠のいのちへの水が湧き出る歩みをさせたいと主は願っておられるのです。

 サマリヤの女は、このイエスの言葉に、そんな魔法の水があるなら、もうここに来なくてもいいよう、その水を下さいよと、本気とも皮肉ともつかない言葉を吐きました。でも彼女のもっと大きな誤解は、今まで男性や結婚で幸せになろう、自分の心の渇きを癒やそうと思ってきたことでしょう[11]。それは私たちにも重なります。そういう誤解を続ける人生で、すべてを知っておられる主と出会い、生ける水を下さって、私たちの心が潤される経験が

「永遠のいのちへの水」

となっていくのです。自分の心の渇きを主が知って、私たちが願いもしなかった深い癒やしと潤いを下さる。そういう体験を今ここで重ねながら、私たちは心から神を喜び、ただの習慣や宗教行事としての礼拝ではなくて、自分の全存在で礼拝する者とされていくのです[12]

 聖書は「永遠のいのち」を語ります。やがて、永遠に神を礼拝する栄光の御国が来ると語ります。それは、フワフワとした楽園の天国ではなく、永遠に神の栄光を見て、永遠に心から神を礼拝し、神の素晴らしさを称える神の国です。とても想像できないです。でも神は、私たちが神を永遠に、霊とまことをもって礼拝するようにしたいのです。神を喜び褒め称えずにはいられないように、今私たちを慰め、潤し、自分に向き合わせ、隠れた生き方から喜んで人に語るような生き方を下さるのです。神の素晴らしさは、やがてでないと分からないのでもなく、今の私たちの深い渇きに触れます。いつか飽きたり色褪せたりするものでもなく、むしろ、永遠に輝きを増していきます。そういう素晴らしい神だからこそ、霊とまことをもって神を礼拝するに価するのです。やがて神を永遠に礼拝して過ごすというゴールに、希望を置きましょう。

「主よ。あなたを純粋に礼拝するなど遠すぎるように思えます。しかし、あなたは私たちの全てを知り、ともにおられ、深い渇きを慰め、呻きを聞き給う、素晴らしい方です。その深い恵みを主イエスにおいて味わい知りながら、霊とまことによる真の礼拝者とされていく御心を感謝します。今週もそれぞれの現場で、恵みに驚かされ、心からの礼拝をささげさせてください」

ヴァルトミュラー作「キリストとサマリアの女」(大塚国際美術館で見られます)

[1] この手のお話しの典型的なものは「あしながおじさん」。映画では「ユー・ガット・メール」など多数あります。

[2] イエスが人として疲れて動けず、弟子たちも使いに出して孤独であった時、この出来事がありました。サマリヤの社会から外れた女ひとりに遭うことを通して、イエスの御業が広がりました。私たちも、この励ましを大事にしましょう。今、ここで休むこと、遠回りをすること、限界を認めて立ち止まることをも、神が何かの始まりや出会いとなさるかもしれないのですから。

[3] イエスとの出会いは、驚きから始まりました。霊とまことによる、神への真の礼拝は、人間にとって驚き抜きにはあり得ません。「ユダヤ人がサマリヤ人に水を乞うことなどないはず。ラビが女に話しかけることなどあり得ないはず。キリストがこんな所に来ることなどないはず。離婚を繰り返し、今は同棲している自分など、温かく話しかけてもらえることなどないはず」。そういう常識を逸脱する方こそ神であると知ることが、「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心」となり、「神よ。あなたは、それをさげすまれません」という告白になるのです(詩篇五一17)。

[4] あるいは「今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではない」とは、「夫ではない男性と一緒に住んでいる」よりも、「他の女性の夫と、夫婦のような関係になっている」かもしれません。

[5] この女との会話で、イエスは高度な宗教教義や高尚なお説教などはなさいません。彼女と会話し、「いのちの水」「希望」を示されます。のらりくらりと話しをかわす彼女をさえ蔑むことなく、対話し、向かい合われることによってその心を開かせました。揚げ足を取り、ユダヤ人とサマリヤ人では必ず決裂すると分かっているような難問をふっかけ、わざわざ関係を破壊しようとする彼女に、最後まで付き合われたキリストとの出会いこそ、「霊とまことによって父を礼拝する」者へと変えられて行く始まりなのです。

[6] 「霊」は、聖霊の働きか、人間の霊か、という問いは不毛です。神が霊であるからこそ、礼拝は霊的なものであり、即ち、聖霊が働いて、人間の霊を神賛美へと向かわせるものです。聖霊なしに人間が自分の霊だけで礼拝することはありません。同時に、聖霊が働いているが人間の側では形式的、ということもあり得ません。この女性を考えてください。神は彼女と場所の論争や形式の要求などなさらないし、彼女の過去や傷、問題を知り、寄り添い、真実を語らせることで彼女に主を慕い信じずにはおれない霊を整えられました。ここで用いられる「水」は聖霊のシンボルです。聖霊の働きによって、人の霊が息を吹き返すのです。どちらか、という問いは無意味です。

[7] 勿論、場所は重要ではない、とは、爆弾発言でした。今も私たちがこだわりやすい点(服装や雰囲気、荘厳さや言い回し、そうした入口に過ぎないもの)を越えて、神が褒め称えられる礼拝、私たちが神を霊とまことをもって礼拝する日が来ると言われるのです。そして、そこにこそ私たちの希望があります。

[8] 彼女の男性遍歴は、深い霊的な渇きと、現実逃避を伺わせます。しかし、五回も離婚をして、もう若くはなくなり、今の夫ならぬ男性との生活という現在の着地点が感じさせるように、今はさすがにそのような関係にも疲れていたのかもしれません。自分でも自分に嫌気が指し、目を背けていた心境が想像できます。

[9] 18節「ほんとう」はアレーセース(形容詞)、23節「まこと」はアレーセイア(名詞)です。

[10] しかし、そんな自分だからこそ、主が教えてくださった主の祈りを繰り返し、礼拝に自分を起き続けることは恵みなのだと思います。なぜなら、私たちに「霊とまことによって礼拝を捧げよ」と命じる神ではなく、神が私たちをそのような者となることを求めて、私たちに近づき、私たちの霊の深くに触れてくださる。そこにこそ、私たちの希望があるのだからです。

[11] それが五回も失敗して、半分諦めつつ、今は自分の夫でもない男性と暮らして、この先どうなるか分からない生活を続けながら、そこから感じる安心や喜びが全てだと思っていたのです。

[12] 礼拝は、永遠の仕事です。神を喜び、神に栄光を帰することは、私たちの主な目的です(ウェストミンスター小教理問答1)。前回のヨブ記を読んでも、聖書の諸告白(十戒、主の祈り、その他)を読んでも、なんという高いビジョンでしょうか。しかし、それこそ神の私たちに対する目的です。私たちが及ばないとしても、そこにゴールがあると知りましょう。これは本当に慰めに満ちた、素晴らしい、唯一の価値あることなのですから。

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