聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

申命記七章「主があなたがたを愛されたから」

2015-04-12 20:23:48 | 申命記

2015/04/12 申命記七章「主があなたがたを愛されたから」

 

 先週はイースターでした。主イエス・キリストの復活は「最大の奇蹟」です。今も私たちに主イエスは近づいてくださって、信仰と新しいいのちを与えてくださいます。けれども、それほどの出来事を知らされて信じて、神様の深い憐れみに深い感動を覚えて洗礼を受け、神の民として歩み始めても、その後の歩みでは、小さな事で信仰から外れかねないのが私たちです。

 この申命記という聖書の書物は、まさしくそういう私たちのために書かれた本です。イスラエルの民は、エジプトの奴隷生活から、たくさんの奇蹟によって救い出されました。シナイ山で神の栄光を目の当たりにしながら、神との契約を結ぶ体験をしました。神に逆らったために四十年間荒野を彷徨いましたけれども、でもその間にもたくさんの恵みで養われ、いつも主がともにいてくださいました。そして、約束されていた地に入ろうとしています。これだけ十分な、十分すぎるぐらいの体験をしてきても、新しい生活、人生の新しい段階、今まで体験したことのない出来事、他民族との出会い、子どもたちが結婚適齢期になる[1]、収穫の時期、病気…。そして、自分たち自身が老いていくこと。この章だけでも、それだけのことがあります。人生の旅路の曲がり角や分かれ道に行き当たるたびに、唯一の神である主から離れず、その素晴らしい御業を思い出すよう励まされることが必要です。主への信頼に帰り、御言葉に従うよう、信仰を新たにすることが絶えず必要な私なのだ、と確認させてもらえるのです。

 とはいえ、今日の所には「聖絶」ということが出て来て、こちらの方に引っかかりを覚えるかも知れません。七つの民を徹底的に打ち滅ぼして、女子どもも家畜も財産も、すべてを亡き者にする、という命令です。どうしてこんな残虐なことが出来たのでしょうか。これに対してはいくつもの答があります。それを詳しくお話しすると大変ですが、いくつかも説明があること自体が、ある意味では私たちの理解を超えている、三千五百年前と現代との隔たりだけを考えても、説明のつけがたいことだ、という慎みを忘れてはならないと思います[2]

 しかし、見落とされがちなことですが、この言葉は結局殆ど実行されませんでした。それも「人道的な理由」からではなく、財産を惜しんで、だったのですが、イスラエルの民は聖絶を途中で止めてしまい、カナンの地の人々と契約を結び、息子娘同士を結婚させていきます。そしてその時に主は、「なんとしてでも聖絶を実行しなさい」と繰り返し命じはされません。

「この民は、わたしが彼らの先祖たちに命じたわたしの契約を破り、わたしの声に聞き従わなかったから、わたしもまた、ヨシュアが死んだとき残していた国民を、彼らの前から一つも追い払わない。彼らの先祖たちが主の道を守って歩んだように、彼らもそれを守って歩むかどうか、これらの国民によってイスラエルを試みるためである。」[3]

 つまり、敵を聖絶することが目的ではなかったのです[4]。大事なのは、イスラエルの民が、徹底的に主だけを恐れ、主の真実に応え続けて主の御心を行うことでした。取引や商売、病気や不作、そういう時に、外から手招きする声に流されそうになっても、主の命令に背くことはしない。何とかしてそう学ばせ、味わい知らせて、成長させることが主の願いなのです。

 6あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。

 7主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。

 8しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。

 しかし、ここで思い出すのは、その主の命令が破られ続けたという現実です。ノアやイサクやヤコブも息子たちに異教徒との結婚を許し、ソロモンや多くの王たちも異教徒の妻を迎え、偶像礼拝に妥協してきました。ですから、12節から16節に書かれているような、豊かな祝福の報いは日の目を見たことがないのです[5]。人は、祝福を信じ切れず、自分の思いで世間や人の声に流されて、神ならぬものを頼り、幸せになれるんじゃないかと思いたがる。そういう失敗を繰り返す人間を、主が憐れみ、導き、神に従うことを教えて来てくださったことを、聖書は語っています。あの「放蕩息子」は、父の財産を譲り受けながら、それを贅沢三昧で遊び使って幸せになろうとしました。しかし、最後はどうなりましたか。素寒貧(すかんぴん)になっての、惨めな帰宅でした。すっかり打ちのめされて帰って来たのです。しかし、その変わり果てて、持たせたものを一切失った息子を、父親はどうしましたか。走り寄って受け入れてくれたのですね。

 ですから決して、御心に従わなくてもいいのではありません。「放蕩しても帰って来れば良いんだから、たまには遊んでこよう。最後は神様が何とかして下さる」と思ったら大間違いです。自分が神様に背くなら、その報いは自分が手ひどく引き受けるのです。そんな無駄をするには、人生は短すぎます。神から離れるなら苦々しい思いしか残さないし、その失態をなかったことには出来ず、刈り取りは一生ついて回るのです。こう言われています。

ローマ十二2この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

 天地を作られた神、その神の数々の御業-出エジプトや聖書の奇蹟、そして主イエス様の十字架と復活-を知らされて信じ、本当に私たちを限りなく憐れみ、愛し、恵んで下さる主を信じました。でも、それでもなお、私たちの心の底には、この神様を信じるよりも、世間の声、偶像の声、神のように語る様々な声が唸(うな)り続けています。私たちを愛したもう、真実な神よりも、もっと自分の直感とか感覚に信頼をおいて流されてしまったりします。目の前の出来事がすべてに見えて、御言葉が当てにならないように思うのです。祝福は主が下さったのだという事実を忘れてしまうのです[6]。しかし、その私たちの感覚とか思い込みの方がよっぽど当てにならないのです[7]。その現実を知り、私たち以上に大きく、真実で、嘘も間違いも失敗も絶対にない方、十字架にかかりよみがえってくださった主を信じ、そのお方だけが私たちを祝福してくださるのだと、「心を一新する」のです。主の御言葉に従うことが、戦いのようでも、確かに無駄ではないのだと「心を一新」するのです。

 人と調子を合わせず、この暗い時代に希望を持ち、綺麗事ではなく罪の現実を見据え、神の愛と赦しに生きましょう。いい縁談を逃しても、宗教行事に参加しないために損をしても、主の恵みを信じて、蟠(わだかま)りなく歩みましょう。そして、どんな人とも好き嫌いを超えて、分け隔てなく関わり、教会でも家庭でもどこででも裏表のない生き方をさせていただきましょう[8]

 

「聖なる主よ。この世界も私たちも、みなあなた様のものです。その主に私たちが深い信頼をもって従えるよう、私たちの心を変えてください。あなた様の偉大さ、約束、聖なる御心、十字架とよみがえりのいのちをもって、私たちの人生を支配してください。偽りの希望や目の前のまやかしよりも強く真実な御力への確信により、地上でなお続く戦いを勝利させてください」



[1] ここに書かれているように、当時の結婚は、恋愛や当人同士という以上に、親・家のためでした。親にとっての計算、思惑、両家の繁栄が、信仰的であり神第一か、それとも人間的で利得第一か、を問われるのです。人間の自己中心は、何よりも家庭においてその本心を表します。社会的には隠していても、家庭においてはその根本的な願望はあらわれます。それゆえ、聖書の物語では、子育ての失敗例が圧倒的です。現代は、家父長制は崩壊して、核家族化しましたが、それでも親が家庭を支配しようとしてしまう傾向は変わりません。むしろ、伝統的な家父長制が基盤を失ったために、自分のアイデンティティの不安が、子離れできない親の姿に現れています。未信者との結婚は、相手を信仰に導くため、とも言われますが、主の民は、唯一の神である主をあかしすべき民なのであって、その神を結婚より後回しに引き下ろすような安易な妥協があるとしたら、それは「証し」どころか、むしろ逆効果です。(というより、大抵は、言い訳でしかないが)。

[2] 例えば、これは旧約の初期だけのものであって、聖書全体を支配していない、ということも言われます。しかし、新約でも、主イエスは「最後の審判」を厳粛に語られますし、「ヨハネの黙示録」だけでなく多くの書簡にも審判と、悪人の永劫の苦しみという表現はあります。あるいは、こうした事実そのものが、現実ではなく文学だった、という解釈もあります。ただ、私見としては、以下のような論点が有効ではないかと思います。今から3500年も前の感覚は現代とは違いました。他民族を滅ぼすことは当たり前、という価値観で、「人権」とか「いのちの尊厳」などという考えはなかった時代性も大きいでしょう。イスラエルの周囲の国も(また、最近までの多くの戦争や、日本での歴史を辿っても)自分たちの敵を、容赦なく滅ぼし尽くすのが当然だったのです。彼らは「イスラエルはなんて残虐な民なんだ」と非難はしませんでした。それは当たり前だったからです。しかし、小さなイスラエルが多くの国に戦いを挑み、勝ったことに、脅威を感じ、そこに神の働きを見て、和平を結んでイスラエルの宗教を受け入れる民はあったのですね。主はこの時代の、現代から見ると「暴力的」な文化の中で、略奪のためではない「聖絶」という方法を命じました。当時の人々は、それに人道的な理由で反対することはありませんでした。むしろ、自分たちが略奪できないことに不満を感じただけです。主の命令は、現代の私たちが感じるのとは違う意味で、当時の人々にとってはショッキングな命令でした。この異邦の民は、残虐な文化を持っており、子どもを生け贄として焼き殺して捧げ、相手を問わない近親相姦もしていました。それでも神様は、四百年忍耐をしておられたのです。そういう残酷な国家に対して、弱小なイスラエルが戦いを挑むことは、それ自体が無謀な挑戦だったのです。
 その後の歴史を経て、だんだん聖書は平和についてのビジョンを持つようになります。そして、最終的にはイエス様において、敵を赦し、武器を持たない、という絶対平和主義が打ち出されます。それもまた、当時の人々にとっては大変ショッキングな思想だったのです。少なくとも、ここから戦争を正当化したり、アメリカやイスラエルが圧倒的な軍事力でどこかの国を潰すことを「聖戦」と呼んだりすることは出来ません。

[3] 士師記二20~23。また、同じく士師記二3も。「わたしはあなたがたの前から彼らを追い出さない。彼らはあなたがたの敵となり、彼らの神々はあなたがたにとってわなとなる」

[4] 22節で、すぐには滅ぼされない理由が「野の獣が増してあなたを襲うことがないため」と、彼らの存在によって、神の民が守られている、という面を謙虚に・現実的に認める。現代も、非キリスト者の存在によって、教会が守られているという面は、積極的に直視されるべきだろう。追い払い、根絶やしにしようなどと考える必要はない。それでも、注意しすぎるぐらいが丁度良いほど、悪影響を受ける面も警戒する必要はある。

[5] この「祝福のリスト」をそのまま適用するなら、今、私たちに、祝福や子宝がないことや、病気がある事は、不信仰の呪いになります。しかし、新約はもっと苦難や痛みに対して、違う視点を教えます。そうであるとすると、ここに書かれているMessageそのものを、読む読み方も違わなければいけないでしょう。

[6] 祝福してくださるのは、主だけだ、と信じ続ける戦い。祝福があったとしたら、それは、バアルやアシェラ、お金や豊かさ、日本や親、恋人や子どもではない。神である主。私たちが小さくても、愚かでも、不信仰でも、何度失敗しても、なお見捨てず、愛し、祝福してくださるのはこの神だけだと、固く信じ続ける戦い。13節の「産物、穀物、ぶどう酒、油」をホセア書二章7-9節は繰り返して訴えることになります。ホセア書は、まさしく異教礼拝にイスラエルの民が大きく傾き、「姦淫の女」と呼ばれるような時代の預言書です。

[7] 現代は現代で、新しいチャレンジがあります。特に、感覚が偶像化されています。直感とか、楽しい、嫌だ、面白い、気持ちいい、そういう感覚こそが何よりも大事にされています。また、体が偶像化されています。神のものであり、キリストに贖われ、御霊が住まう宮、御栄えを現すための体であるとは考えず、自分のものとして捕らわれ、健康を過度に重視したり、老いたりすることや死を毛嫌いして避けようとしています。また、「自分を信じる」という言い方も、現代の特徴のようです。確かに健全な自信は必要です。でも、自分の直感や判断を信じるということは危険です。多くの犯罪者、スキャンダル、大惨事を起こした人たちは、まさに自分を信じてあのような行動に踏み切ったのではないでしょうか。

[8] 「聖絶」が「彼らの祭壇を打ちこわし、石の柱を打ち砕き、彼らのアシェラ像を切り倒し、彼らの彫像を火で焼かなければならない(5節)」ということであれば、現代の私たちに置き換えるなら、このような行為となって、現代の自己称賛的な文化を引っ繰り返すべきではないでしょうか。かつての聖戦について批判する以上に、現代において積極的・「攻撃」的な証しをすることが求められているはずです。

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ルカの福音書二四章1~11節「復活の朝」 復活日礼拝

2015-04-06 19:35:53 | ルカ

2015/04/05 復活日礼拝 ルカの福音書二四章1~11節「復活の朝」

 

 イースターの喜びを覚えつつ、朝には墓前礼拝を行いました。教会学校では卵を配ります。そして礼拝の後、イースターは恒例のポトラックです。毎年、この春の時期に、主イエスのよみがえりを喜び、ともにお祝いしてきて、今年もこうしてイースターをお祝いします。時代は変わり、顔ぶれも変わりながら、でもともに主のよみがえりを祝うことは大きな幸いです。

 新約聖書の四つの福音書は、どれも復活の出来事を最後に伝えています。しかし、その四つがかなり違うことを伝えていて、ちぐはぐな所もあるのですね。読み比べてみれば分かりますが、四つを継ぎ接ぎしてその朝の出来事を再現しようとするとうまくいきません。では作り話だったのかというとそうは思えません。逆に、作り話であれば、口裏合わせも必ずしたでしょう。みんなが同じ事を書いていたら、それこそ口裏合わせをしたに違いないと思われたはずです。一つの大事件に目撃者がいれば、お互いの記憶に食い違いがあることはよくあります。ですから、あえてこの食い違いの記録こそ、復活が事実だという証拠でもあるのでしょう。

 それでも、いくつかのことは共通しています。例えば、弟子たちはみなイエス様の復活を最初は信じられなかったし、期待してもいませんでした。最初にお墓に行ったのが、女性の弟子たちでしたが、彼女たちも、イエス様のよみがえりを期待してはいませんでした。そして、墓の蓋をしていた大きな石がすでに転がしてあり、中にイエス様のおからだがなかったことも同じです。そこに、一人か二人の御使いがいたのも、福音書が四つとも伝えています[1]。そして、女弟子たちは、イエス様の復活を知らされて驚くのですね。その後、ルカは一番好意的で、

 8女たちはイエスのみことばを思い出した。

 イエス様が、前から、ご自分が引き渡され、殺されると予告されていたことを思い出すのです。けれども、その話を帰って、弟子たちにするのですけれども、誰も信じてくれない。

11ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった。

 この信じてくれない、でこの朝は終わってしまうのです。これがイースターの朝だと、福音書は告げているのです。復活は、弟子たちが考え出した作り話や、弟子たちの希望が生み出した神話でもありません。彼らは信じなかったのです。空の墓を見ても、御使いを見ても、イエス様が仰った御言葉を思い出しても、信用しようとはしませんでした。弟子たちの信仰の強さとか、イエス様に対する愛の深さが、「イエス様は死んだけれども、今でも生きていらっしゃるんだ」という希望や告白を作りだしたのではないのです。

 では、どうして弟子たちは復活を信じたのでしょうか。それは、この後にあるように、イエス様が弟子たちに近づいてくださったからです。イエス様が弟子たちに近づき、それでも分からず信じられない弟子たちに、聖書を通して語りかけて、パンを割いて渡したりして、彼らに信仰を与えてくださったから、ですね。状況証拠をいくら積み上げても、復活信仰を持つことは出来ません。イエス様が本当によみがえられて、遭いに来られたから、弟子たちはイエス様が復活されたと信じたのです[2]

 勿論、それは何でも「見たら信じる」とか、無茶苦茶な話でも「体験したのだから何と言われようと疑わない」という狂信とは違います。そうでないと、すごい奇蹟をしてみせる宗教だの詐欺まがいの手口にも簡単に引っかかってしまいます。ここに書かれている通り、イエス様の復活は、イエス様も以前から予告しておられたことでしたし、聖書そのものに証言があった神様の約束です。また、イエス様が十字架に掛かられて、死なれて、墓に納められたことも動かしがたい事実でした。十字架に何時間もかけられた犯罪人は、たとえ生き延びたとしても、関節が外れ、背中は曲がり、二度と歩くことは出来なかったでしょうが、イエス様はただ「息を吹き返した」のではなく、神様の力によって、死に勝利されて復活なさったのです。そこには、偶然も、インチキも、種も仕掛けもありません。キリスト教の最大の奇蹟が、イエス様の復活です。そして、その復活が事実でなければ、キリスト教はなんの希望も真実もなくなります。ただの道徳とか、立派な人になる、互いに愛し合い、敵をも愛しなさい、だなんて教えるような宗教がキリスト教だと考える人も少なくありませんが、それは全くの誤解です。

 ここで御使いは墓の前で女弟子たちに言いました。

 5…「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。

 6ここにはおられません。よみがえられたのです。…」

 イエス・キリストは、「生きているお方」です。だから私たちに近づいて、信仰を持たせてくださいます。私たちが自分たちでこの復活信仰を信じられるかどうか、という問題ではありません。イエス様は本当に今も生きておられます。死からよみがえられた方として、私たちに今も働いてくださるのです。そして、イエス様がよみがえられたことを信じさせてくださるだけでなく、私たちにこの復活のいのちを与えてくださって、私たちを新しくしてくださるのです。よみがえられたイエス様が、今ここに生きている私たちの中に来てくださるのです。

 イエス様に出会った弟子たち、特に9節に

「十一弟子」

と出てくる中心となった人は、「使徒」という立場を与えられて、この主イエスの十字架と復活を伝道しました。初めは信じようともしなかったし、墓に行くのも女弟子たちに任せていたつれない弟子たちが、復活を信じ、命をかけて世界に伝えるようになりました。ただの捏(でっ)ち上(あ)げや思い込みや何かの下心があって「イエス様はよみがえられた」と言っていただけなら、そこに自分たちの人生を捧げるようなことが出来たでしょうか。そして、教会は互いに愛し合い、正直に、謙遜な関係を大切にしたのですね。恥も隠さず、問題や罪を告白する所に赦しと回復、祝福があると語ったのです。そういう集団が、一番大事な信仰の中身に、捏造(ねつぞう)や嘘があったら立ちゆかなくなるはずです。

 主イエスがよみがえられたという信仰は、それが本当だと考えた方が筋が通ります[3]。でも、私たちがちゃんと説明したら、誰かがイエス・キリストの復活をそれで納得して信じるのではありませんし、それが大事ではないのです。大事なのは、復活して今も生きていらっしゃるイエス様が、その人その人に色々な形で近づいて、信仰を持たせてくださるのだ、という事です。

 主イエスは人となって下さいました。生きる中での苦しみ、悲しみ、痛みも味わい知っておられます。その方が今、私たちとともにおられて、私たちを支えてくださいます。ご自分が人々の裏切りや十字架の死を経てよみがえられたように、私たちの労苦や悩みも、その先に、朽ちない祝福を用意してくださいます。心燃やされるような思いを下さいます。喜びや希望を与えてくださいます。飾ったり背伸びをしたりしない、正直で、謙虚な、そして、希望や明るさを持たせてくださる。生きておられる方が、私たちの心にも人生にも、深く慰めつつ、そこにご自分のいのちを輝かせて、私たちを新しくしてくださる。それが復活の信仰なのです。

 

「主は墓からよみがえられました。不信仰や無理解や疑い、人間の思惑がうずまく中に、主は十字架に掛かり、そして三日目に復活してくださいました。そのあなたによって、心を燃やされ、人生を変えられ、教会が歩んできました。今も主が私たちに、そして私たちを通して多くの方々に、朽ちない救い、慰めと希望、真実な交わりという、命の御業をなさってください。」



[1] ルカでは、二四4で「まばゆいばかりの衣を着たふたりの人」となっていますが、23節では「御使いたちの幻」と言われていますから、これは御使いと理解されています。

[2] 女たちは思い出して信じました。しかし、その証言を聞いても「たわごと」としか思わなかった弟子たちも、主イエスによって思い出させられます(25~27、32、44~48節)。御言葉なしに、主イエスの働きかけだけで信じたのではなく、それまでの約束の繰り返しとそれを「思い出す」という要素が重要視されていることも見逃してはなりません。ですから、私たちも、御言葉を語り、伝え続けるのです。

[3] 3節の「主イエス」という呼称は、どの福音書においても復活後までは使用されないキリスト称号です。福音書で使われるのは、復活以降の二回だけ(マルコ十六11、ルカ二四3)、それが、「使徒の働き」で17回、書簡では81回も使われます。

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Ⅰテサロニケ一9-10「復活以上のことを信じる」 復活日夕拝

2015-04-06 19:34:05 | 説教

2015/04/05 Ⅰテサロニケ一9-10「復活以上のことを信じる」

 

 今日開きましたテサロニケ人への手紙第一は、新約聖書の中でも、最も早く書かれた手紙ではないかと言われているものです。その中でも今日の箇所は、パウロがテサロニケの教会の信じた信仰がどんなものであったのか、思い出させる意味でも、簡潔にまとめている言葉です。教会が、最も早い時代から何を信じ、何を教え、何を伝えてきたのか、それを教えてくれていると言えます。そして、当然と言えば、当然ですが、ここにイエス様の復活のことが述べられていますね。

…あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、

10また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、…

 もちろん、これはパウロがテサロニケに行ったときに、こういうことを教えたのですね。「神ではない偶像から、本物の神に立ち返りなさい。生けるまことの神に仕えなさい。そして、イエス様を待ち望みなさい。イエス様は、神が死者の中からよみがえらせなさった神の御子であり、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるお方です」と伝道していたのです。それを信じた人ばかりではなく、むしろ、大半の人々は、偶像から離れませんでした。復活だなんて馬鹿馬鹿しい、神の怒りだなんて信じたくない、と福音を嘲り、抵抗しました。けれども、これを信じる人もいたのです。

 ある人たちはこう言います。「現代は科学や医療が進んだから、復活だなんてあり得ないと知っている。昔の人なら、奇蹟や復活を信じられたのかも知れないが、自分たちは信じられるわけがないさ」と言います。けれども、聖書を見ると、今から二千年以上前の時代だって、奇蹟や復活は、普通ならあり得ないこと、信じがたい特別なことだと十分疑われていた事が分かります。昔だから信じられたのではありません。そして、今でも、「科学だ」何だと言いながら、「占い」だ「祟り」だ「風水」だなんて言っているほうがよっぽど可笑しいのではないかと思います。

 今日の箇所が教えているのは、教会は、イエス様の復活という奇蹟が本当に起こったのだと信じただけではない、ということです。奇蹟があり得るかどうか、という問題を論じて信じただけではないのです。もしそれだけなら、今、私たちがイエス様の復活を伝えても、「信じられないけど、そんな二千年も前の話、結局、どっちだっていいんじゃない?」という事になりますね。「よみがえったかどうかなんて、自分には関係ないよ」で済んでしまいます。そういう事ではないのです。

…神さまが死者の中からよみがえらせなさった御子[は]、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエス…

 イエス・キリストが復活されたという信仰は、そのイエス・キリストが今も生きておられて、私たちにも新しいいのちを下さること、やがては神の正しい審判の時にも私たちを、罪に対する怒りから救い出してくださる、という信仰でした。私たちとは関係ない、昔々の遠い場所での不思議なお話、ではありません。いいえ、神さまがイエス様をよみがえらせなさったのは、イエス様を通して私たちを救ってくださるため、死を越えた力に、私たちも与らせてくださるためだったのです。その御力が、復活という事実に現されたのであって、復活とは死人が息を吹き返す以上のことだったのです。よみがえられたイエス様は、今も私たちとともにいてくださいます。そして、私たちのうちにその命を注いで、私たちを新しくしてくださるお方なのです。

 でも、その「新しいいのち」は、人間が思い描くような、特殊な能力とか人も羨むような輝かしく魅力あるもの、とは少し違います。9節に、

…あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、

とありましたね。偶像から神(本物の神)に立ち返った、というだけでなく、生けるまことの神に仕えるようになった、とわざわざ言っています。神に仕えるようになる。これも、キリストの復活と切り離せないことですね。偶像から神に立ち返ったけど、その神様にも、自分がしたいことをお願いするばかりだったり、自分が輝いたり羨ましがられたりさせてくれることを期待するだけ、ということだってあるでしょう。でも、それは本当に、神を知ったことにはなりません。自分のために神様があるという思い上がりでしょう。自分が幸せになる秘密を見つけた、と考えているだけなら、神様を卑しめていることにしかなりません。

 「生けるまことの神」は、世界を作られた大いなる神です。いくら科学が進んでも、この宇宙のことではまだまだ分かっていないことの方が多いのです。動物や植物についての百科事典を完成させようとしたら、どれ程の量になるか分かりませんし、読めるだけを読んでも到底理解できないぐらいのものです。その世界を作られた神様は、もっと偉大なお方です。そして、この神は正しいお方です。罪を見逃さず、深く怒り、悲しまれ、裁かれるお方です。しかし、その神が、御子イエス・キリストをこの地上に送り込まれ、十字架の死にまで謙る道を行かせられました。私たちのために、です。そのイエス様をよみがえらせなさいました。イエス様は今も生きておられて、私たちに、この信仰を与えてくださるのです。偶像を信じたり、偶像に願ったり、神ならぬものに仕えて、振り回される生き方から、生きておられて、大いなる神で、そして、本当に真実で尊いまことの神様に仕える生き方を与えてくださっているのです。

 10節の

「救い出してくださる」

は未来形ではなく、現在形なのです。御怒りも、イエス様がおいでになるのも「やがて」のことです。でも、イエス様の助けは「やがて」の将来のことだけでなく、今の私たちに与えられている現実です。よみがえられたイエス様は、今も私たちを助けて、救い出してくださっています。神の御怒りを受けるような生き方の間違いに気づかせ、世界が自分を中心に回っているかのような勘違いに気づかせてくださいます。イエス様は、今も生きておられ、私たちに働いて、新しい心を下さって、導き、助けてくださっています。イエス様の復活とは、そういう約束なのです。

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2015墓前礼拝

2015-04-06 19:33:03 | 説教

2015/04/05 墓前礼拝

 

 今日、ここに、鳴門キリスト教会の墓前礼拝に集まってまいりました。同じこの場所に、ともに墓前礼拝のために集まってはいても、それぞれの思いは違うのでしょう。何年も経っても未だに思い出すと苦しくなるという方もおられるかもしれません。それほど歳月は経っていなくても、もう悲しみよりも感謝の思い出の方が大きい、という方もいらっしゃるかも知れません。亡くなった年齢、突然か長く伏せっておられたか、ご本人が苦しまれたか安らかだったか、といった亡くなり方、最後の交わした言葉、別れや「有難う」の言葉を言えたかどうか。また、皆さんご自身の性格も関係するでしょう。そういう、様々な方々が集まっている所で、一括りにお話しすることの難しさを感じました。

 死、あるいは死に別れる、とはそういうものです。どれも思いもかけない死であり、誰も自分の死に方を予想することは出来ません。そして、やり残しなく、キレイなタイミングで死ねることはまれで、何故なんだと問わずにはおれない状況であろうと、訪れるのが死です。そして、そういう様々な死、ありとあらゆる死別を含めて、主イエスは私たちの所に来てくださり、ご自身が死を味わわれ、よみがえってくださって、私たちに語りかけておられます。どのような死であろうと、その死は終わりではない。また、私たちがやがてどのような死に方をして、この世を去り、からだを葬ることになったとしても、それが終わりではない。いつ、どんな去り方をしようとも、それが決定的なことではない。その先に、なおキリストは、いのちがあることをご自身の死と復活によって示してくださいました。

 墓標に、「我らの国籍は天にあり」と書いてあります。これは、聖書のピリピ人への手紙3章20節にある言葉です。少し前の18節から読みます。

ピリピ三18というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。

19彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。

20けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。

21キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

 神の御子キリストは、「万物をご自身に従わせることのできる力」を持っておられます。でも、イエス様ご自身は、万物を従わせる力があるのに、その力で何でも「エイヤッ」と片づけたり、ご自分に都合良く世界を変えようとなさったりした方ではありませんでした。その力をもって、イエス様は私たちのところまで降りて来てくださり、人間として最も貧しい生涯を歩まれました。十字架の死という苦しみまで味わってくださいました。そして、その末に、日曜日の朝、よみがえってくださったのです。今日はそのことを記念するイースターです。

 言い換えれば、イエス様は、その力で私たちに近づいてくださったのです。私たちの生身の人間としての思いを分かち合ってくださったのです。そうして、私たちに天の国籍を与えてくださったのです。私たちを天国や楽園にたちまち入れる、というのではなく、悲しみや痛みがある今ここで、天に国籍を持つ者として歩むようにしてくださったのです。神様は愛の神ですから、私たちを愛されて、天の国籍を持つようにとその力をお使いになったのです。

 でも折角そんな神様の素晴らしい愛があるのに、そっぽを向いて、自分の事ばかり、自分の目の前のこと、人を押しのけたり無視したりして、自分さえ良ければいい、と考えるのが私たち人間に染みついている考えですね。「多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいる…彼らの最後は滅び…彼らの神は彼らの欲望…彼らの栄光は彼ら自身の恥…彼らの思いは地上のことだけです」と言われていたのはそういうことでしょう。

 墓前礼拝は、私たちが、自分の今の生き方をもう一度考えさせられる時です。地上の事がすべて、という思いが如何に虚しいか、惨めか、を振り返らされます。同時に、「我らの国籍は天にあり」です。キリストは天の国籍を下さいます。今、天に国籍を持つ者として生き、やがては死なせてくださいます。死の悲しみも知りつつ、死を恐れたり目をそらしたりせず、その先にある希望を知らせてくださいました。私たちを愛するキリストは、世界を支配しているほどの力で、私たちのうちに働きかけ、私たちのために苦しみ、死んで、よみがえって、天の国籍を下さったのです。どうぞ、主がその力によって、皆さんの悲しみを十分に包んでくださいますように。また、皆さん自身の天の故郷に帰るまでの歩みも日々助けてくださり、何よりも、キリストにしっかりと繋がらせて、歩ませてくださるようにと、祈りたいと思います。

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ルカの福音書二三章44~53節「わが霊を御手に」 受難日礼拝説教

2015-04-04 19:57:20 | ルカ

2015/03/29 受難日礼拝 ルカの福音書二三章44~53節「わが霊を御手に」

 

 日曜日にもお話ししたように、聖書には、イエス様が十字架にかけられて、どれ程苦しまれたのか、ということは一切記されていません。十字架刑は、当時ローマで行われていた処刑方法、それも最も残酷なものでした。ですから、聖書が書かれた当時の人々にとっては、イエス様が十字架にかかられた、というだけで十分に想像せずにはおれませんでした。確かに、イエス様が十字架という、凄まじい苦しみを味わって死なれたということは、測り知れない事実です。しかし、その十字架の痛ましい苦しみ以上のことが起きていました。十字架刑について詳しく知ったり、あるいは、十字架に実際に釘付けされて体験することになったりしたとしても、決して私たちは、イエス様の味わわれたことを本当に知る事は出来ないのです。

二三44そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた。

45太陽は光を失っていた。また、神殿の幕は真っ二つに裂けた。

 全地が真っ暗になり、三時間も続いた。神殿の幕が裂けた。そういう、大変な驚くべきことがイエス様の十字架において最後に起きたのだ。ルカはその事実を記して伝えています。

 勿論、ただそんな出来事が起きた、不思議だねぇ、と終わっていいことではありません。聖書では、全地が暗くなるとは、神様の怒り、裁きの表現としてたびたび出て来ます[1]。出エジプト記では実際に、「十の災害」という出来事の締め括りに、全地が暗くなったのです[2]。ですから、聖書全体から考えると、イエス様はその十字架において、神様の裁きをお受けになったのです。それも、イエス様は正しいお方ですのに、私たちの罪に対する神様の御怒りを、イエス様は私たちに代わって、受けて下さったのです。それは、十字架刑という苦しみとは別に、もっと深く、想像することさえ出来ない体験でしたが、この暗やみはイエス様の十字架において、神様の怒り、聖なる罰がイエス様に下されたことを物語るのです。言葉で説明されてはいませんが、どんな言葉を尽くしても説明など到底出来ないことをイエス様は体験されたのです。

 また、それゆえに、エルサレム神殿の幕が二つに裂けるという不思議な出来事も起こりました。神様を礼拝する神殿の幕が裂けるというのは、「不吉な」ことだとも言えますが、イエス様は神殿という建物を神聖視する信仰が間違っていることを繰り返して教えて来られました。神殿という建物がやがて崩れ去ることも予告しておられました。そういうことからすると、イエス様の十字架の時に、全地が暗くなり、神殿の幕が裂けたのは、当時の人々にとっては、世界をお造りになった神様と、この世界との間に、何かとてつもない変化が起きたことを雄弁に語り感じさせることだったのです。

 そうです。イエス様の十字架は、ただイエスという立派な方が苦しんで、最後まで立派な死に方をなさった、というようなだけの出来事ではありませんでした。この時に、神様はかつてなかったこと、世界が暗くなり、神様との関係が決定的に変わるようなことをなさったのです。しかも、それは私も皆さんも含めた、私たち人間を変えてしまう出来事なのです。そのイエス様の死を見て、ローマの兵士の百人隊長がこう言いました。

47この出来事を見た百人隊長は、神をほめたたえ、「ほんとうに、この人は正しい方であった」と言った。

 百人隊長は、イエス様を十字架につけた責任者であり、イエス様を嘲っていた一人でした。この人がイエス様の死に何を感じたのかは分かりません。兵士として多くの人の死を見てきたでしょうし、人を処刑することにも慣れていたでしょうこの隊長は、イエス様の死に、これまでにはないものを感じたのかも知れません。けれども、殆どの人は、そんなふうには思いませんでした。この告白は、そういう感動とかインパクトというだけでは説明できないことです。いいえ、むしろ、40節の犯罪人と同様に、この人がこういう告白をさせるために、イエス様がこの十字架にかかることで彼らに近づいてくださったのではありませんか。自然に、あるいは、偶然に、百人隊長がこんな告白をしたのではない。イエス様が十字架に苦しみ、全地を真っ暗にするほどの神の裁きを引き受けられたことを通して、イエス様を十字架につけ、嘲笑ったローマ兵が、イエス様に対する告白を見せる、という信じがたい出来事が起きたのです。

 そして、そのイエス様が、私たちにも届いてくださいます。私たちをも捕らえて、信仰告白を与えてくださいます。そのために、イエス様は私たちの所に来られて、想像も出来ないほどの犠牲を払い、痛みを引き受けられ、忍耐して関わり続けてくださるお方です。

 イエス様と「暗やみ」という事ではもう一つ触れておかなければなりません。このルカの福音書では、何度も「暗やみ」という言葉を使っています。(開きませんが、一79、十一35、二二53)[3]。イエス様が来られたのは、言わば、暗やみに光を照らすためだと表現されたのです。そのイエス様が、十字架において暗やみを味わわれました。そこにはほとんど説明はありません。でも、私は思うのです。私たちの暗やみのことを語ってこられたイエス様が、ここで暗やみに包まれ、十字架の最後の時間は真っ暗でした。それだから、私も自分が暗やみの中にいる時も、そこにイエス様はいてくださるのだ、そう約束されているのだと心から思えるのです。

 病気や悲惨で、目の前が真っ暗になる思いをすることもあります。戦争が起きたり、政治が悪い方向に突き進んだりして「暗黒時代」と称される時もやって来ます。そうした周りとは無関係に、自分自身の中に思いもかけないどす黒い思いがあると気づくこともあります。そんな闇に向き合うと、物凄く深い穴を覗き込むようで、他の一切が霞んで見えます。何も頼れるものがない。自分ではどうしようもない。将来にも明るい見通しが持てない。その闇の中にこそ、イエス様は来てくださる方です。私たちとともにおられるのです。闇をすぐ明るく照らして欲しくても、三時間か永遠に待つような思いをしなければならないかもしれません。それでもその所で、私たちの想像を越えたことをなされるのです。そうして、最後には、

46イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。

 そのように私たちにも、自分自身をお委ねすることの出来るお方、委ねますと言えば、この私をも、嫌がらず、聞き流さずに、間違いなくその御手に引き受けてくださる天の主がおられる。そう信じる最期を迎えさせてくださると、約束されているのです[4]

 この時以来、多くの人々が、イエス様によって人生を変えられてきました。お金や名誉や名声、人や思想、色々なものに人は自分を委ねては空振りに終わってきましたが、そんな闇の中に生きてきた人が、イエス様を信じる信仰へと導かれてきました。また、闇の中で、ともにいてくださる主を知ったのです。どんな闇も、主イエスの臨在に気づく窓となります。この御手に、他のどんな人でもものでもなくこの御手に、私たちも自分を委ねさせていただくのです。

 

「主の、言葉に尽くせぬほど尊い十字架を感謝します。それを忘れて、人に躓いたり、嫌な出来事が起きたり、妥協を迫られたりして弱ってしまう信心から、何があっても十字架のキリストの測り知れない御業に根差す信仰へと深めてください。自分を誇ったり、人を裁いたり、あなた以外のものに自分を委ね恐れる生き方をしていたら、今晩、この十字架の主のお姿を通して気づかせてください。そうして私たちの信仰を新しくし、闇に輝く光とならせてください」

派遣のことば
 
主は、私たちのために十字架に死なれました。
私たちの罪はすべて赦されています。
主は、私たちのために十字架に死なれました。
私たちは、愛されています。
主は、私たちのために十字架に死なれました。
死をも恐れる事なく、出て行きましょう。
 

[1] エレミヤ十五9、アモス八9など。

[2] 出エジプト記一〇21~23、参照。

[3] 一78~79「これはわれらの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、79暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く」、十一35「だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい」、二二53「あなたがたは、わたしが毎日宮でいっしょにいる間は、わたしに手出しもしなかった。しかし、今はあなたがたの時です。暗やみの力です」(ゲッセマネの園での逮捕にあたっての主の言葉)。また、ルカの続編「使徒の働き」では、二20~21「主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。21しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。」(ペンテコステの説教)、十三11「見よ。主の御手が今、おまえの上にある。おまえは盲目になって、しばらくの間、日の光を見ることができなくなる」と言った。するとたちまち、かすみとやみが彼をおおったので、彼は手を引いてくれる人を捜し回った。」(福音宣教を妨げる敵に対してのパウロの宣言)、二六18「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」(パウロの召命の目的についての主のことば)

[4] これは詩篇三一5「私の霊を御手にゆだねます。」の引用ですから、「イエスだから言い得た絶句」ではなく、神を信じるすべての者に許されている、恵みの告白です。そして、初代教会最初の殉教者ステパノがここにならった告白で息絶えるのです。「使徒七59主イエスよ。私の霊をお受けください」。これは、まさにすべてのキリスト者に与えられた言葉です。

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