2015/07/26 ルカの福音書二二章39~46節「なぜ、眠っているのか」
41節に
「石を投げて届くほどの所」
とあります。どれくらいの距離なのでしょう。人によって随分変わってくるのではないかなぁと思います。英語では「目と鼻の先」という意味で使う言い回しでもあるようですが、そういう表現は十六世紀から始まったともありました。ですから、一世紀のユダヤでは、そういう言い回しはなかったんではないか。ひょっとすると、石を投げることに意味があって、イエス様は、この時も、何か異変があれば、石を投げて知らせることが出来るぐらいの距離になさったのではないかな、とも思いました[1]。いずれにせよ、もう次の47節では、群衆がやって来て、イエスを逮捕します。
ですから、今日の所で、最初と最後に二回、イエスが弟子たちに、
「…誘惑に陥らないように祈っていなさい。」
と仰るのは、弟子たちに繰り返して仰った、最後の命令と言ってもよいわけですね[2]。祈っていなさい。誘惑に陥らないように、祈っていなさい[3]。しかし、そうは言われても、弟子たちは祈るのではなく、眠っていましたね。しかも、ルカは同情的に、
45…彼らは悲しみの果てに、眠り込んでしまっていた。
と言っています。イエス様の最後の言葉や、十字架を前にした普段とは違う思い、また、この時のイエス様の祈り自体が、汗を血のように滴らせながらの祈りでした。ヘブル書六7では「大きな叫び声と涙とをもって」とあります[4]。その祈りを見て、弟子たちはまだ理解は十分では全くないながらも、愛するイエス様の悲しみに、自分たちも悲しくなって、どうしようもなくなって、眠ってしまったのだ、と言います。決して、鈍感で、イエス様の苦しみなど知らずに、よくまぁ平気でスヤスヤと眠っておられたものだ、などとは言わないのです。悲しさの余り、でした。しかし、悲しさのあまり、とわざわざあるのに、イエスは言われます。
46…「なぜ、眠っているのか。起きて、誘惑に陥らないように祈っていなさい。」
悲しみの余り眠ったのですが、イエス様は、それも承知の上で「なぜ」と言われるのですね。どうしてでしょうか。それは、悲しみのときこそ、誘惑に陥りやすいから、起きて祈る必要がある、ということですね。確かに余りに大きな悲しみの時は、心が麻痺をして、何もする気になれず、祈ることさえ出来ないのが私たちの体験です。どう祈ったら良いか分からなくなります。何も考えられずにいます。そして、そこに甘い誘惑や、絶望や疑いが囁いてくると、そちらに流されてしまい、もっとひどい状態に自分を陥らせるのです。だから祈りが必要なのです。
けれども、そんなとき、どう祈ったら良いか分からない時、どうしたらよいのでしょうか。それこそ、イエス様がここでご自身の祈りによって示してくださっている模範なのです。この時もイエス様ご自身が、深い悲しみを背負っておられました。立って両手を上げて祈るのが普通の時代に、立ってさえおれずに、跪いて祈られたのです。そして、そのような悲しみの中で、
42「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」
と祈られました。この最初の「みこころ」とは、神様のご計画を表す「みこころ」です[5]。イエスはいつも、神のご計画を強調しておられました。「必ず成就する」とか「死ななければならない」という言い回しで、神のご計画の必然性が、人間の思いとは全く違った形で実現していくことを語っておられました。その神のご計画に叶うことであれば、自分の杯-十字架に至る苦しみ-を取り除けてください、と言われます。「ちょっと計画変更をお願いできますか、よろしければこの杯を呑まずに済ましていいですか」と言われたのではないのです。神の永遠のご計画を優先している言葉です。そしてそれを裏打ちするのが後半です。
「しかし」
という言葉は、「それ以上に」「何よりも」という接続詞です[6]。立っている事も出来ないほどの悲しみは取り除けて欲しいというのが、当然の「わたしの願い」です。しかし、その「わたしの願い」以上に「あなたの(願い)」-後半の「みこころ」はそういう意味です-がなりますように、と大きなご計画に委ねたのです。それは、人の悲しみの中からは出て来ない願いです。御使いが天から来て、イエスを力づけましたが、この祈りの言葉も、これほどの天の父への信頼も、人のうちからは出て来ないのであって、神から与えられる力ですね。それによって、主イエスご自身も、悲しみの果てに眠りこけたり、誘惑に陥ったりすることなく、汗を迸(ほとばし)らせながら、こう祈られました。立ち上がられたのです。これが、私たちに与えられた、悲しみや苦しみの中で、絶望に陥らず、誘惑に絡め取られてしまわないための手がかりです。
簡単な言い方をすれば、私たちも、どう祈ったら良いか分からない時も、このイエス様の祈りの言葉をなぞって、そのまま繰り返してよいのです。そのためには、神が私を愛しておられる「父」であって、その「御心(ご計画)」が本当にどのようなもので、信頼するに足るものか、も知っていくことが助けになります。そして、祈りが叶えられるとか、父が聴いて助けてくださる、ということが、決して悲しみをなくすことでもない、私たちが失敗をしたり恥をかいたりしないようになることだとも限らないと知っておくことも大事でしょう。私たちは、今の自分は、そんなに信仰が強くないから、祈れません、悲しいと誘惑に負けます-そう言い訳したくなります。でも、イエス様のこの祈りのお姿を見てください。立ってもおれないほど悲しみに打ち拉がれています。天使に力づけられなければならないほど弱く、汗まみれで、叫んで、「臆病者」であることを隠されません。これほど激しく祈るほど、イエス様の信仰が素晴らしかった、だなんて大間違いです。これほど絞り出すような祈りをせざるを得ないほど、イエスにこの時のしかかっていた悲しみ・苦しみは重かったのです。そして、その重さは、私たちが地上で今、味わう全ての重荷や、私たち自身を背負ってくださった重さです。
私たちが悲しみや苦しみの中にある時、神はそれを知らなかったり「祈って乗り越えよ」と言われたりするだけでしょうか。いいえ、私たちの主は、私たちとともにおられて、その苦しみを味わい知っておられます。愛とは相手の痛みから逃げるものではありません。ですから、私たちも信仰に成長し、もっと祈るようになれば、それだけ身近な人の痛みに敏感になり、もどかしさを痛感し、涙を流し、悲しむようになります。そしてそれだけ、自分の力でなんとかしよう、もう諦めよう、祈っても無駄だとか囁く強い誘惑にも一層曝されることになります。だからこそ、私たちは絶えず神を、天の父と呼んで祈り、神の善いご計画があることを思い起こすことが必要なのです。
自分の願いよりも神の願いがなされるほうが確かであることを、思い出させて戴くことが私たちを守るのです。また、この父の前では、泣いたり叫んだり、祈る言葉も知らず、眠りこけ、ペテロのように大失敗さえしかねない、なりふり構わぬ弱さをさらけ出す必要があるのです。そういう私を主が担い、御心の中に生かし、この苦しみもまた神のご計画の中にあると信じさせていただける。祈りは、主から私たちへの命綱なのです。
「主が十字架を前に、苦しみ悶えつつ、なお弟子たちを憐れみ、励ましてくださったように、私たちを心にかけ、私たちを今も支えておられることを感謝します。弱い私たちだからこそ、あなたが私たちに祈りを与え、祈りの言葉も、御使いさえも送って、強めてくださいます。あなたの御心がなりますように。悲しみをも包み込んで果たされる、主の御業がなりますように」
[1] マタイもマルコも「少し進んで行って」という言い方をしています。(マタイ十六39、マルコ十四35)。「石を投げて」という言い回しは、ルカだけです。ここまでも見てきたように、ユダの裏切りや逮捕の緊迫感を最も強く伝えているのはルカの特徴ですから、ここもそういうニュアンスを込めたのかもしれません。
[2] 「祈り」は、ここだけでなく、ルカが福音書全体で18回も使う強調行為です。この短い中に四回繰り返されますが、これがルカでは最後でもあります。締め括りの言葉です。(使徒では16回)。またこれは、「求める デオマイ」ではなく、神との交わりの面の「祈り プロスキュネオー」です。
[3] これが、ルカでのテーマです。マタイやマルコでは、弟子たちへの言葉は、三度の祈りの合間に入れていますので、結果的に引き出された警告ですが、ルカは、この主イエスの弟子たちへの勧告を前提・枠組みとして最初に置いています。さらに、「園」やゲッセマネの言及もありませんし、主の祈られたのが三度であったことも記されません。強調点は、主イエスの苦悶の祈りそのものから、それが、祈るべき弟子たちとの繋がりという方向性に発展しているのです。
[4] ヘブル六7「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」
[5] 「みこころなら」ビューロマイは「目的・ご計画」。十22とここ。使徒では14回も。名詞ビューレーは、七30「自分たちに対する神のみこころを拒みました」、二三51「議員たちの計画には賛同しなかった」。使徒では七回。
[6] ギリシャ語の「プレーン」は、moreover, nevertheless, besides, exceptなどのニュアンスです。
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