2013年12月15日 鳴門キリスト教会礼拝説教 アドベント第三主日
マタイ一18-25「民をその罪から救って」
今日は、マタイ一章の後半。イエス様がお生まれになる前、イエス様の育ての父であるヨセフのエピソードを開きました。ここにはヨセフがマリヤの懐妊を知って、婚約を解消しようとした件(くだり)が記されています。
「18イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。
19夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。
20彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。
21マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」」
こう夢で告げられたというのです。それで、24節では、
「ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、」
と続きますので、ヨセフはこの夢の御告げによって、マリヤとの離縁を決めていたのを引っ込めて、妻として迎え入れることにするのですね。
ヨセフがこの夢の御告げで、自分の決心を変えたことを考えると、ヨセフは自分の罪からの救いを、本当に深く求めていたのだろうなぁ、と思わずにはいられません。最後の、
「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方」
この言葉がヨセフの心を後押ししたのだと思うのです。それだけ、ヨセフは自分の罪を深く感じて、救いを願っていたのではないでしょうか。
「いいや、ヨセフはマリヤが身重になったのは分かったけれど、この夢で知らされるまではそれが聖霊によるとは信じられなかったのだ。この夢で、マリヤが不貞や何かではなく、神様の御業によって子を宿していると分かったから、離縁を翻したのだ」と思っている人はたくさんいます。大半がそうかと思います。けれども、18節にはハッキリと、
「聖霊によって身重になったことがわかった」
とあります。また、20節で御使いは、ヨセフにまず、
「恐れないで(=恐れるな)」
と語るのです。ヨセフはマリヤの妊娠が聖霊によると分かったのです。ルカ一章でマリヤが御使いから告げられた「受胎告知」の記事がありますが、その内容を告げたのでしょう。だからヨセフは恐れていたのです。自分如きが、いと高き方を宿したマリヤを妻にすることは相応(ふさわ)しくない。だからといって堂々と離縁しては、マリヤを晒(さら)し者にし、姦通罪で処刑させかねない。密(ひそ)かに離縁するのが一番だ。ではどうするのが一番いいだろうか、と思い巡らしていたけれども、自分がマリヤを娶(めと)るなんて恐れを知らないことだ、と婚約解消だけは堅く心に決めていたのです。だから、御使いは「恐れるな」と語り始めたのです。そして、ヨセフが悩んでいた自分の罪、キリストの父親役だなんてとんでもない原罪というものを、その方こそが解決してくださるのだ、と告げられて、ヨセフは自分に与えられた父親役を果たすことに決めたのではないでしょうか。
今日の記事の前、マタイ一章の前半には長々とした系図が出てきます。新約聖書を読もうとする人を最初から挫(くじ)かせると言われる、悪名高き系図ですが、これも、旧約聖書に親しめば親しむほど味わいが出てくるのですね。そして、今日の記事の次、二章は、
「1イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき」
と、あの東方の博士たちの記事が始まります。今日のヨセフのエピソードは、最初の系図と二章のイエス様誕生とを繋ぐ、橋渡しをしているのですね。どういう意味か、と言いますと、系図では、アブラハムから始まって、神様が契約の民として約束してくださったイスラエルの民が一民族を形成していく歴史が書かれています。しかし、すぐに王も民も堕落していき、やがてはバビロン捕囚に至る、神の怒りと裁きを招きます。ヨセフは、聖書の歴史を紐解(ひもと)けば、今ここにいる自分に王を名乗る資格などない、と思わずにはおれなかった。それも、先祖たちの勝手な振る舞いのせいだと責任をなすりつけることは出来ない。自分もまた、同じ罪、同じ危うさを持っていると苦しんでいたのではないでしょうか 。神の民として、アブラハムに約束された祝福を満喫することも出来たろうに、罪に罪を重ねる。いいえ、恵みさえ乱用し勘違いして愚かな罪を繰り返してきた歴史でした。その末にいたヨセフは、王様どころか、ローマ帝国の苦しい圧政に為(な)す術(すべ)のない者であって、救い主のお生まれにもその父親になど自分は相応しくないと、恐れて辞退するしか思い及ばなかったのです。しかし、そういうところに、キリストがお生まれになるのです。
「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方」
として光が差し、その上で、二章でイエス様がお生まれになるのです。決して、イスラエルの歴史が敬虔で信仰的だったからではない。罪も犯したけれど、立派なところもあったから、でもない。罪の歴史を重ねて、どうしようもなくなっていた所に、神様の方から近づいてこられ、救い主を与えてくださったのです。
今はアドベントです。待望、待降と訳されます。以前読んでいた文章に、キリスト教の歴史観は、アドベントだ。未来、じゃない、将来だ、と書かれていました。未来というのは未だ来ない、と書きます。不確かです。もしかしたら来ないかもしれない。過去や現在の積み重ねの末に明日がある、という見方です。それまでの失敗とかハプニングによって、取り返しのつかないことになるかもしれないし、如何様(いかよう)にも変わり得るのが未来です。しかし、アドベント、待望とはそうではない。将(まさ)に来たらんとする。過去や現在がどうであろうと、やがて神が用意されている新しい、永遠の神の国は確実にある。その終末が、将に向こうから来て、私たちの世界を新しくする。その確かな将来を、私たちは待ち望む。それが聖書の歴史観だと言われていました 。なるほどなぁ、と思ったものです。旧約聖書の終わりは、主の訪れを待望する預言書が十七巻もありますが、この新約聖書の始まりはまさに待ち望んでいた神の国の訪れから始まります。人間の歴史は、罪の刈り取り、失敗の上塗りです。人間はそこで顔を上げることさえ出来ない。しかし、そこにキリストが永遠からこちらにおいでくださるのです。将来の栄光、永遠の御国からこちらに来てくださって、人間の醜い罪をすっかりぬぐい取って、取り返しのつかないこともちゃんと益に変えてくださって、すべてを新しくしてくださるのです。21節をもう一度見てください。
「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」
でしょう? この方こそ、救ってくださるのです。救いのチャンスを下さるとか、ご自分の民の中でも、ある人たちだけ(救いに値する人たち)を救う、というのではない。ご自分の民を救ってくださる、のです。救ってくださるかもしれない、とか、救うとしたらこの方しかいない、じゃないのです。今、事故や病気、あるいは再臨が来たら、私なんか救われるんだろうかって不安な人はいますか? 自分や自分の信仰を見ると不安になるかもしれません。けれども、イエス様が、と主語を変えて問えば答え方も変わります。イエス様があなたを救ってくださらないと思いますか? それならばこう言えます。「いいえ、イエス様は私をも必ず救ってくださいます」。それを否定して疑う方が、失礼というものですね。イエス様は、ご自分の民の罪がどれほど根深く、私たちがどれだけ鈍感で、自己中心で、懲りないかも、本当によくご存じの上で、ただご自身の恵みによって、御意志によって、私たちを救うことを決めて、必ず救ってくださるのです。
勿論、「だから今、何をしてもいい」ということではありません。そんなことを言う人は、待ち望むこと自体出来ません。しかし、「主を待ち望む者は、新しく力を得る」です 。主は、すでに私たちのところに来られて、永遠の御業を始めておられます。私たちが、待ち望む望みによって生き、新しくされ、主の似姿に少しでも近づきたいと日ごとに願うように働いておられ、変え始めてくださっています。私たちの手の業、日ごとの仕事さえも、見たところは変わらなくても、今では全く新しい意味を持っています。ここでも御使いは、ヨセフに、マリヤを迎えなさいと命じます。自分の責任を果たさせます。主を待ち望むことは責任放棄や何でもありではなく、御言葉にますます従いたいとの願い、私たちの業を裁かれる主への恐れに繋がります。主が来られて、主の御業を始めてくださるというだけでなく、私たち人間が、結婚したり親や子を大事にしたり、仕事や勉強、それぞれの分を果たして、主の御業に加わることが、神の国の建設に繋がっていくのです。
そしてこれが、私たちキリスト者の、人間関係の基礎ですね。過去に何をしたかはいろいろとあるわけです。失敗をしてしまう。取り返しのつかないこともある。しかしそれによって、その人が決まるのではない。大小様々な罪を犯し、とんでもない本性をさらけ出すとしても、やがて将来、神が私たちを新しくして、栄光の姿に変えてくださるというゴールは変わりません。ますます輝きます。それを待ち望むことに、私たちの生き方や価値があるのです。自分も、妻や夫も、親も友人も、過去を見て「あの人はこんな人だから」と決めつけるのではないのです。みことばにより将来の姿を教えられて、「この人はやがて恵みの栄光に輝く人なのだ」と見るのです。どんな過去があっても、それを主の前に、告白と悔い改め、あるいは委ねることが出来るのです。そこから、赦しや癒やしが始まり、和解や希望が与えられます。自分を責めることもないし、逆に開き直って正当化することもなく、謙遜に、素直に、変えられて新しくされることを信じていくことが出来る。この恵みがあるから、私も今、もう一度立ち上がることが出来るのだなぁ、と思うのです。
イエス様は、私たちを罪から救ってくださるお方です。私たちの罪を完全に知った上で、なお私たちを愛し、栄光に与らせてくださる。今も私たちとともにおられて、御国の香りを運ぶ者としてくださっています。やがての将来、この救いが完成するとき、私たちの罪も傷もすべてがイエス様の救いによって覆われる日を待ち望めるのです。この大きな希望に励まされながら、互いにも励まし合い、主から託された業を果たさせていただくのです。
「救い主なるイエス様。あなた様の大きな救いと、その将来の完成を約束された者として、今、すべてを見る目を新しくしてください。新しい心を、待ち望む喜びと深い愛と赦しを、与えてください。過去を振り返り、罪の傷に負けそうになる私共のうちに、どうぞあなた様がご自身への信頼をじっくりと、強く育んでください。主よ、来て下さいと祈れる幸いを感謝します。どんな現実にも、あなた様が来て下さることによって、何かが始まって行きますように。私たちもまた、恵みの器として新しくされ、御業を果たさせてください」
マタイは、ヨセフがナザレの大工だった、という事実は触れていません。世が世なら王だったはずが大工に、という比較はせず、むしろ、王位継承者である事実を強調した上で、王ではないヨセフの現実を浮き上がらせます。
加藤常昭説教集で読んだと記憶していますが、どの説教であったかは不明です。
イザヤ書四〇31「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」
マタイ一18-25「民をその罪から救って」
今日は、マタイ一章の後半。イエス様がお生まれになる前、イエス様の育ての父であるヨセフのエピソードを開きました。ここにはヨセフがマリヤの懐妊を知って、婚約を解消しようとした件(くだり)が記されています。
「18イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。
19夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。
20彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。
21マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」」
こう夢で告げられたというのです。それで、24節では、
「ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、」
と続きますので、ヨセフはこの夢の御告げによって、マリヤとの離縁を決めていたのを引っ込めて、妻として迎え入れることにするのですね。
ヨセフがこの夢の御告げで、自分の決心を変えたことを考えると、ヨセフは自分の罪からの救いを、本当に深く求めていたのだろうなぁ、と思わずにはいられません。最後の、
「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方」
この言葉がヨセフの心を後押ししたのだと思うのです。それだけ、ヨセフは自分の罪を深く感じて、救いを願っていたのではないでしょうか。
「いいや、ヨセフはマリヤが身重になったのは分かったけれど、この夢で知らされるまではそれが聖霊によるとは信じられなかったのだ。この夢で、マリヤが不貞や何かではなく、神様の御業によって子を宿していると分かったから、離縁を翻したのだ」と思っている人はたくさんいます。大半がそうかと思います。けれども、18節にはハッキリと、
「聖霊によって身重になったことがわかった」
とあります。また、20節で御使いは、ヨセフにまず、
「恐れないで(=恐れるな)」
と語るのです。ヨセフはマリヤの妊娠が聖霊によると分かったのです。ルカ一章でマリヤが御使いから告げられた「受胎告知」の記事がありますが、その内容を告げたのでしょう。だからヨセフは恐れていたのです。自分如きが、いと高き方を宿したマリヤを妻にすることは相応(ふさわ)しくない。だからといって堂々と離縁しては、マリヤを晒(さら)し者にし、姦通罪で処刑させかねない。密(ひそ)かに離縁するのが一番だ。ではどうするのが一番いいだろうか、と思い巡らしていたけれども、自分がマリヤを娶(めと)るなんて恐れを知らないことだ、と婚約解消だけは堅く心に決めていたのです。だから、御使いは「恐れるな」と語り始めたのです。そして、ヨセフが悩んでいた自分の罪、キリストの父親役だなんてとんでもない原罪というものを、その方こそが解決してくださるのだ、と告げられて、ヨセフは自分に与えられた父親役を果たすことに決めたのではないでしょうか。
今日の記事の前、マタイ一章の前半には長々とした系図が出てきます。新約聖書を読もうとする人を最初から挫(くじ)かせると言われる、悪名高き系図ですが、これも、旧約聖書に親しめば親しむほど味わいが出てくるのですね。そして、今日の記事の次、二章は、
「1イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき」
と、あの東方の博士たちの記事が始まります。今日のヨセフのエピソードは、最初の系図と二章のイエス様誕生とを繋ぐ、橋渡しをしているのですね。どういう意味か、と言いますと、系図では、アブラハムから始まって、神様が契約の民として約束してくださったイスラエルの民が一民族を形成していく歴史が書かれています。しかし、すぐに王も民も堕落していき、やがてはバビロン捕囚に至る、神の怒りと裁きを招きます。ヨセフは、聖書の歴史を紐解(ひもと)けば、今ここにいる自分に王を名乗る資格などない、と思わずにはおれなかった。それも、先祖たちの勝手な振る舞いのせいだと責任をなすりつけることは出来ない。自分もまた、同じ罪、同じ危うさを持っていると苦しんでいたのではないでしょうか 。神の民として、アブラハムに約束された祝福を満喫することも出来たろうに、罪に罪を重ねる。いいえ、恵みさえ乱用し勘違いして愚かな罪を繰り返してきた歴史でした。その末にいたヨセフは、王様どころか、ローマ帝国の苦しい圧政に為(な)す術(すべ)のない者であって、救い主のお生まれにもその父親になど自分は相応しくないと、恐れて辞退するしか思い及ばなかったのです。しかし、そういうところに、キリストがお生まれになるのです。
「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方」
として光が差し、その上で、二章でイエス様がお生まれになるのです。決して、イスラエルの歴史が敬虔で信仰的だったからではない。罪も犯したけれど、立派なところもあったから、でもない。罪の歴史を重ねて、どうしようもなくなっていた所に、神様の方から近づいてこられ、救い主を与えてくださったのです。
今はアドベントです。待望、待降と訳されます。以前読んでいた文章に、キリスト教の歴史観は、アドベントだ。未来、じゃない、将来だ、と書かれていました。未来というのは未だ来ない、と書きます。不確かです。もしかしたら来ないかもしれない。過去や現在の積み重ねの末に明日がある、という見方です。それまでの失敗とかハプニングによって、取り返しのつかないことになるかもしれないし、如何様(いかよう)にも変わり得るのが未来です。しかし、アドベント、待望とはそうではない。将(まさ)に来たらんとする。過去や現在がどうであろうと、やがて神が用意されている新しい、永遠の神の国は確実にある。その終末が、将に向こうから来て、私たちの世界を新しくする。その確かな将来を、私たちは待ち望む。それが聖書の歴史観だと言われていました 。なるほどなぁ、と思ったものです。旧約聖書の終わりは、主の訪れを待望する預言書が十七巻もありますが、この新約聖書の始まりはまさに待ち望んでいた神の国の訪れから始まります。人間の歴史は、罪の刈り取り、失敗の上塗りです。人間はそこで顔を上げることさえ出来ない。しかし、そこにキリストが永遠からこちらにおいでくださるのです。将来の栄光、永遠の御国からこちらに来てくださって、人間の醜い罪をすっかりぬぐい取って、取り返しのつかないこともちゃんと益に変えてくださって、すべてを新しくしてくださるのです。21節をもう一度見てください。
「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」
でしょう? この方こそ、救ってくださるのです。救いのチャンスを下さるとか、ご自分の民の中でも、ある人たちだけ(救いに値する人たち)を救う、というのではない。ご自分の民を救ってくださる、のです。救ってくださるかもしれない、とか、救うとしたらこの方しかいない、じゃないのです。今、事故や病気、あるいは再臨が来たら、私なんか救われるんだろうかって不安な人はいますか? 自分や自分の信仰を見ると不安になるかもしれません。けれども、イエス様が、と主語を変えて問えば答え方も変わります。イエス様があなたを救ってくださらないと思いますか? それならばこう言えます。「いいえ、イエス様は私をも必ず救ってくださいます」。それを否定して疑う方が、失礼というものですね。イエス様は、ご自分の民の罪がどれほど根深く、私たちがどれだけ鈍感で、自己中心で、懲りないかも、本当によくご存じの上で、ただご自身の恵みによって、御意志によって、私たちを救うことを決めて、必ず救ってくださるのです。
勿論、「だから今、何をしてもいい」ということではありません。そんなことを言う人は、待ち望むこと自体出来ません。しかし、「主を待ち望む者は、新しく力を得る」です 。主は、すでに私たちのところに来られて、永遠の御業を始めておられます。私たちが、待ち望む望みによって生き、新しくされ、主の似姿に少しでも近づきたいと日ごとに願うように働いておられ、変え始めてくださっています。私たちの手の業、日ごとの仕事さえも、見たところは変わらなくても、今では全く新しい意味を持っています。ここでも御使いは、ヨセフに、マリヤを迎えなさいと命じます。自分の責任を果たさせます。主を待ち望むことは責任放棄や何でもありではなく、御言葉にますます従いたいとの願い、私たちの業を裁かれる主への恐れに繋がります。主が来られて、主の御業を始めてくださるというだけでなく、私たち人間が、結婚したり親や子を大事にしたり、仕事や勉強、それぞれの分を果たして、主の御業に加わることが、神の国の建設に繋がっていくのです。
そしてこれが、私たちキリスト者の、人間関係の基礎ですね。過去に何をしたかはいろいろとあるわけです。失敗をしてしまう。取り返しのつかないこともある。しかしそれによって、その人が決まるのではない。大小様々な罪を犯し、とんでもない本性をさらけ出すとしても、やがて将来、神が私たちを新しくして、栄光の姿に変えてくださるというゴールは変わりません。ますます輝きます。それを待ち望むことに、私たちの生き方や価値があるのです。自分も、妻や夫も、親も友人も、過去を見て「あの人はこんな人だから」と決めつけるのではないのです。みことばにより将来の姿を教えられて、「この人はやがて恵みの栄光に輝く人なのだ」と見るのです。どんな過去があっても、それを主の前に、告白と悔い改め、あるいは委ねることが出来るのです。そこから、赦しや癒やしが始まり、和解や希望が与えられます。自分を責めることもないし、逆に開き直って正当化することもなく、謙遜に、素直に、変えられて新しくされることを信じていくことが出来る。この恵みがあるから、私も今、もう一度立ち上がることが出来るのだなぁ、と思うのです。
イエス様は、私たちを罪から救ってくださるお方です。私たちの罪を完全に知った上で、なお私たちを愛し、栄光に与らせてくださる。今も私たちとともにおられて、御国の香りを運ぶ者としてくださっています。やがての将来、この救いが完成するとき、私たちの罪も傷もすべてがイエス様の救いによって覆われる日を待ち望めるのです。この大きな希望に励まされながら、互いにも励まし合い、主から託された業を果たさせていただくのです。
「救い主なるイエス様。あなた様の大きな救いと、その将来の完成を約束された者として、今、すべてを見る目を新しくしてください。新しい心を、待ち望む喜びと深い愛と赦しを、与えてください。過去を振り返り、罪の傷に負けそうになる私共のうちに、どうぞあなた様がご自身への信頼をじっくりと、強く育んでください。主よ、来て下さいと祈れる幸いを感謝します。どんな現実にも、あなた様が来て下さることによって、何かが始まって行きますように。私たちもまた、恵みの器として新しくされ、御業を果たさせてください」
マタイは、ヨセフがナザレの大工だった、という事実は触れていません。世が世なら王だったはずが大工に、という比較はせず、むしろ、王位継承者である事実を強調した上で、王ではないヨセフの現実を浮き上がらせます。
加藤常昭説教集で読んだと記憶していますが、どの説教であったかは不明です。
イザヤ書四〇31「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」
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