聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

使徒の働き2章37-47節「喜びと真心をもってともに」

2017-07-02 15:31:52 | 使徒の働き

2017/7/2 使徒の働き2章37-47節「喜びと真心をもってともに」

 マザー・テレサは

平和への道などありません。平和こそが道なのです。

と言ったそうです。今日の「使徒の働き」二章最後に出て来る、共に学び、パンを裂き交わりをしている姿も、神の民の「平和」の姿でしょう。自分が救われるために教会に来るではなく、こういう平和の交わりを今重ね始めた。その道こそが聖書の示す救いだと言えます。

1.「どうしたらよいでしょうか」

 ここでペテロの最初の説教を聴いた人々は、

37兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか

と言いました。自分たちが十字架につけたイエスこそ神のキリストであったというペテロの証しは彼らの心に突き刺さって、自分たちは何をしたらいいのか、と聴いたのです。これに対してペテロは

38…「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエスの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。

と答えます。

「悔い改め」

は「方向転換」という意味です。神に立ち戻る、イエスを退けた生き方から、イエスをキリスト、主(神、王)とする生き方に向き直ることです。罪を懺悔するとか悪事を認める、という面もありますが、間違いを認めるばかりで、正しい方向を向かなければ、悔い改めではないのです。教会でいう悔い改めは、キリストの方に向くことです。だからこそ、非を非として認めて捨てることも伴うのです。ですから、悔い改めは

「イエスの名によってバプテスマを受ける」

に直結します。イエスの名によって洗礼(バプテスマ)を受けるとは、イエスに結びつくことです。悔い改めが、イエスの名によって洗礼を受けることになるのです。そして、イエスに結び合わされるなら、罪を赦していただけます。更に、賜物として聖霊を受ける。これは、個人的に聖霊を体験するとか、聖霊の特別な力を持つという事ではありません。聖霊を受けて語っているペテロや弟子達の仲間に加わって、神の民となるということです[1]

 主を死なせた自分たちはどうしたらよいか。その答は、償いや懺悔の要求ではなく、神に立ち返って洗礼を受けよ。そして罪の赦しと聖霊をいただけるという「約束」だったのです[2]

39なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」

 神に悔い改めるなら、罪は赦され、神の民となる。「この約束」こそ聖書を通じて神がイスラエルの民に、先祖代々から子々孫々に至るまで託された福音でした。また

「すべての遠くにいる人々」

も、神である主はこの約束に招いておられます。償いに修行や苦行や大金を納めたり、善行を積んだりする必要はない。ただ、イエス・キリストの十字架を自分への招きとして聴いて、神に帰るだけで良い。それが、イエスの証しをしたペテロの説教の結論だったのです。

2.恐れを抱かせる一致

 41節では、この日、ペテロの証しを受け入れて、洗礼を受けた者は三千人ほどもいました。

42そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。

 彼らは、罪が赦される事だけを考えて洗礼を受けたのではありませんでした。神の民に加えられる、それも、神の豊かな招きに与る大きな約束を認めたからこそ、洗礼を受けただけで終わらず、新しい生き方、弟子達の交わりに加わったのですね。一緒に教えを守り、交わりをし、パンを裂いて(聖餐を守って)、祈りを一緒にしました。そういう生活が始まったのです。

 43節で

「一同の心に恐れが生じ」

とあるのは、弟子達一同ではなく、周囲の人々です。43~47節は、恐れを生じさせた理由を説明して、この弟子達がどんな交わりをしていたかを語ります。信者たちが財産を分かち合い、窮乏している人を助け、宮に一緒に行って礼拝をし、家々に集まってパンを裂き、食事をともにし、神を賛美する毎日を送っていました[3]。思い出してください。その人々は決して社会のエリートばかりとか、庶民ばかり、と似たような人々ではありませんでした。8~11節を見れば、世界から集まってきた人々で、一応コミュニケーションは取れるとはいえ、母国語は違い、文化も異なります。また、資産を売って助けなければならないほどの困窮した貧しい人もおり、売れるだけの資産を持つ豊かな人もいました。また、昨日まではイエスを殺しても平気で、弟子達を嘲っていた人々が、今、一緒に分かち合い、集まり、喜びと真心をもって食事をともにしている。言葉や貧富の差、そして和解しがたい敵対関係にあった人々です。その姿そのものが神の約束の証しでしたし、すべての人々に恐れを抱かせました。

 この集まりそのものが、「麗しい」という言葉では収まりきらない姿でした。それは、聖霊によって大胆に語ったペテロの説教にも等しいインパクトを周囲に与えたのです。そして、47節にあるように、その姿を通して、主は新しく仲間に加わる人を毎日起こしてくださったのです。この種々雑多の、しかし主がお召しになる平和の交わりが始まったのです。

3.喜びと真心をもって

 これは確かに素晴らしい姿です。また、教会にとっての原点であり、理想です[4]。しかし、「使徒の働き」はこの後、現実の中で、この交わりが崩れたり、問題に戸惑ったりする歩みを赤裸々に記します。

「三千人」

はエルサレム全体では一パーセントにも満たないごく一部で、むしろ圧倒的な大多数からは反対や迫害が始まるのです。そういう外からの問題も教会を散らしたり、人間関係に影響を与えたりしていきます。そればかりか、三千人の集団とはやっぱり大変で、これだけの大所帯ともなればすぐに問題も生じますし、整理も必要になったのです。財産を売って施しながら大半を着服したご夫妻も出て来ます[5]。言葉の違いが、配給の不公平にもなっていた問題も生じて、使徒たちは新しく役員を選ぶことにして、組織化して対応しようとします[6]。更に後になると、ここにサマリヤ人[7]や全くの異邦人まで加わってきます。異邦人も、悔い改めて洗礼を受けるだけで神の民になるのか[8]、教会も躊躇って、戸惑いながら進んで行くのです。初代教会の始まりは理想でも、実際その理想に生きる難しい現実も使徒の働きをちゃんと記します。それを忘れて、この時点だけを切り取って理想化したら間違いです[9]

 今も教会は、神の約束がなければ到底ともに歩めない、広い交わりです。世界宣教も教会形成も、なかなか大変な祝福です。そういう教会にとって大事な基本は、ここにある通り、使徒たちの教え(聖書の教え)に立ち、交わりをし、パンを裂き、ともに祈る。この基本を続けて行くことでしょう。特に42、46節で言われている

「パンを裂く」(聖餐)。

 この使徒の働き二章で、まだ彼らは毎日神殿にも行き、生贄の儀式に参列していました。「もうイエスが十字架で犠牲となられて、すべての生贄や儀式を全うされたから、神殿儀式は必要ない」という意識はまだなかったのでしょう[10]。それでも教会は早くも、イエスが命じられたあのパン裂きを毎日していました。イエスが十字架で肉を裂かれ血を流してくださった。それは、その命によって私たちを神の民とするためでした。私たちの罪を赦し、遠くにいる者をも神の民としてくださるためでした。ここに根ざした教会であることです。

 教会の土台は私たちの悔い改めにはありません。私たちの優しさや親切、寛容さが教会の交わりの土台でもありません。ただ、神御自身の一方的な恵みのゆえに、私たちは罪を赦され、神の民に加えられました。神との平和に既に入れられ、更に教会という横の集まりの中にもいれられ、ともに生きる歩みに加えられました。その平和はまだまだ不完全です。キリスト者も不完全ですし、自分も不完全です。でもその不完全な私たちが今、パンを裂いて、一緒にキリストの十字架を分かち合っています。パンだけでなく人生を、主の恵みを分かち合う交わりを与えられています。何と不思議で恐れ多いか。そのことを味わう時に、喜びと真心が湧き上がるのです。無理をして平和を作ろうとするのではなく、主のパンを裂きともに分かち合う、そこに生じる喜びと真心を求めたいのです。

「主よ。あなたの家に招かれてともに教えを聴き、交わりをし祈り、神を賛美しています。将に教会は主の家です[11]。他者は勿論、自分の罪も持て余す私が、主イエスの尊い御業によって今ここにあります。感謝します。どうぞ主が喜びと真心をもってともに歩む民として整えてください。また世界で進められる宣教の御業を用い、遠くの者を集める御業を祝福してください」



[1] 聖霊は神であり、それはユダヤ人にも初代教会にも共通認識でした。「精霊」なら個人個人で受けることもあるかもしれませんが、「聖霊」を受けるとはバラバラなことではあり得ません。唯一の神が「天の父」となってくださることが、他の人とも「兄弟姉妹」として繋がること、神の家族に加えられることを当然意味するように、聖霊を受けるとは、聖霊によって神の民に加えられることなのです。

[2] よくある誤解は、この38節を、まず自分の罪や心の汚れを懺悔して、その罪を赦していただくため(だけ)に洗礼を受ける。そうしたら聖霊の特別な力に与れる。でももし聖霊を体験できなかったら、それは自分の悔い改めが不十分だから、というものではないでしょうか。そういう誤解した読み方も大いにあるのだと思うのです。その場合、大事なのは自分の悔い改め、それも、罪の悔い改め、言い換えれば「反省力・謝罪力」と言うことです。けれども、「悔い改め」は罪の悔い改めである以上に、神への方向転換です。そして、イエスの名によって洗礼を受けなさい、と言われます。そうすれば罪の赦しを頂き、そればかりか聖霊という賜物にさえ与って、神の民に加えられる、というのです。

[3] それは「共産主義」ではありません。強制的に財産を没収したのではなく、自主的なものでした。また、裏を返せば、貧者もいたのですし、後々もその分配では問題になったり、援助が必要になったりしていきました。五章4節参照。

[4] しかし、これこそ初代教会の姿だと理想化しすぎたり、自分たちの現状と比較して、批判をしたりする前に、よく冷静にこの姿そのものを考えて起きたいと思います。

[5] 五章1-11節参照。

[6] 六章1-7節参照。

[7] 八章、特に、14節以下を読み取りましょう。

[8] 十章、十一章、また十五章など参照。

[9] 「真心」は欄外中に「心の純真さ」とあります。聖書でここのみの言葉なので、意味は不確かです。他の用法を見ると、天文学者(星ばかり見ている人)、あるいは、粗食(ご馳走ではなく)を意味します。(榊原康夫、『使徒言行録』1) 教会の交わりの「純粋」さというよりも、貧しさ、集中性を思わせます。

[10] これは二一章23、26節でパウロが神殿儀式に参加し、生贄を捧げる費用を出している事からも、ペンテコステから27年ほど経った時点でさえ、まだ共在していた意識でした。

[11] 「教会」の英語チャーチchuchは(教える会ではなく)、「主の」(キュリアコス)を語源としています。学問所ではなく、主の家なのです。

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