2019/9/8 マタイ伝1章1~17節「どんな所にも神はいます」
新約聖書の最初に「福音書」が四つあります。イエス・キリストの生涯、活動、十字架の死と復活について、四人の弟子が四つの切り口から書いています。説教では、聖書全体を満遍(まんべん)なく扱うよりも、福音書をお話しする頻度が多いです。それは、教会がイエス・キリストという土台の上に立つからです。イエスを知り、その素晴らしさを味わって、ますます信頼し、イエスだけが神だと告白するのです。3年半前に「ルカ」をお話しし、「使徒の働き」や「聖書の物語の全体像」を経て、今日からまた福音書をご一緒に読めることにワクワクしています。
しかし、マタイのこの系図は、なかなか馴染めないものです。聖書を初めて開く方にとって、1ページ目が外国の名前の羅列だというのは、ある意味、下手な記述です。ここで読み続けるのはなかなかハードルが高いでしょう。それでも何とか聖書を読み続けているうちに、もう一度このマタイの福音書一章を開くなら、この系図が、旧約聖書の粗筋(あらすじ)を辿(たど)っていることに気づきます。よく続き物のお話しで、最初に「これまでのお話し」というダイジェストがありますが、このマタイの系図は旧約聖書をダイジェストにしてくれている贅沢な章なのです。それも、単純に話をまとめるよりも、三つの「十四代」に区切って本文への筋道を示します。
マタイ1:1アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。
の「系図」は「記録の本」という言葉で、この「本biblos」バイブルという言葉が一番最初に来ています。つまり、この1章1節から17節に系図がある、というだけではなく、マタイの福音書そのものが、「アブラハムの子、ダビデの子」であるイエス・キリストの記録の本だ。バイブルとは、アブラハムからダビデに至る家系の継承者として生まれたイエスの本のことだ。そう言っても良いわけです。特に、マタイの福音書は、ユダヤ人を読者として意識して書かれたと言われます。旧約聖書のことをよく知っている相手に宛てて書かれています。そこで、アブラハムとダビデの名前も、よく知っていると思って書いているのです。
アブラハムは、創世記の11章から25章までに、詳しい記録が書かれている人です。その創世記11章までというのは、それまで神が天地を創造されてから、人間が神の約束に背いて飛び出し、自滅していく中で、神が何とか人間に働き続けていることが記されてきた章でした。洪水でも懲りず、バベルの塔を建て、それを壊されても、未来が見えない。そういう中で、神はアブラハムという老人を選んだのです。アブラハムが75歳の時、主はこう言われます。
創世記12:1主はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。2そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。3わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」
また15章では、アブラハムの子孫が数えきれない程に増えることも約束されました[1]。そして、アブラハムが百歳の時にイサクが生まれ、イサクがヤコブを生み、ヤコブがユダとその兄弟たちを生み…という2節以下の出来事も、創世記以下に詳しく記されています。本当に色々な出来事がありつつ、アブラハムの子らは、主の約束通りに増えていき、一つの国を形成するまでになりました。その間に出エジプトやモーセなども登場しますが、マタイはそれを端折って、6節のダビデを強調します[2]。主はダビデにも次の大きな契約を与えました。
Ⅱサムエル7:12あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。13彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。
このダビデへの「永久の王座」の契約を垣間見るのが、6節から11節までの系図です。この系図はダビデの子どもたちが王となって治めた三百年に当たります。その延長に生まれたイエスは究極の「ダビデの子」、約束されていた「永久の王座」の王です。イエス・キリストは、アブラハムの子孫を通して全世界が祝福される、という約束の成就であり、ダビデの子から永遠の王が出て神の国が始まる、という約束の成就でもあるのです。
しかし、そんな明るい面だけではありません。この系図のもう一つの区切りは11節の「バビロン捕囚」です。アブラハムとその子たちも、ダビデとその子の王たちも、欲望や妬みに駆られて、沢山の罪で家庭を傷つけ、他者を踏みにじってきました。神も、忍耐に忍耐を重ねた末に、最後はバビロン帝国によって王国を占領させ、エコンヤ王たちは捕囚となって連れ去られました。それが11節です。12節のゼルバベルはバビロンからエルサレムに帰ってくるリーダーとなりますが[3]、それ以降の歴史はほとんど分かりません。13節から15節までの人物は聖書のここにしか出て来ず、どんな人物だったのか分かりません。かつてのダビデ、ソロモンの栄光の時代から、最後のこの部分は全く無名で、気がつけばエルサレムから北の村で大工をしていたヨセフという、淋しいなれの果てでした。この系図は、約束とその成就というだけでなく、人間の罪や虚しさを思い起こさせる系図でもあります。
もう一つ、ここに女性が四名登場します。3節の「タマル」、5節の「ラハブ」と「ルツ」、6節の「ウリヤの妻」です。ユダヤ人は大事な系図を残す際、女性の名前を入れることはなく、男性だけの系図を造りました。だからマタイが女性の名前を入れたこと自体が常識外れです。その上この四名は曰く付きの女性ばかり。タマルはユダの嫁であった未亡人でした[4]。ラハブは外国人で売春婦[5]。ルツはユダと敵対関係にあったモアブ人[6]。6節は「ウリヤの妻」とある通り、ダビデが部下ウリヤの妻を横取りした上、彼を殺した事件があったのです。四人の悪女とは思わないでください。タマルも舅(しゅうと)のユダの狡さが非難されています。売春も男性の女性蔑視が生み出すものです。どれも男性社会のひずみであり、男性優位の歴史では記憶されない出来事です。マタイはそうした女性たちの存在を通して、アブラハムからダビデを経た聖書の歴史の闇を明らかにしています。自分たちの世界を美化せずに「黒歴史」として思い起こしています。その上で、そこにイエス・キリストが来られたこと、神が約束を果たしてくださったこと、アブラハムとダビデに約束された祝福が確かになったことを語るのです。
因みに17節でマタイは三つの
「十四代」
と綺麗に纏めています。十四は完全数七の二倍で、三は三位一体に通じる神の数です。実際は数字の操作があって、省略されている人もいれば[7]2回数えられている人もいます[8]。それはマタイがコッソリ行った操作ではなく、読者であるユダヤ人も読めばすぐ分かる、承知の上での省略です。人から見れば傷だらけで、失敗だらけ、自虐的だと思うかも知れません。でもその歴史も、神の目から見れば、十分だった、完全だったと言いたくて「十四」にこじつけるのでしょうか。女性たちの叫びも、ここに記されていない痛みも、勿論そこで生きる小さな幸せや、子どもが生まれた喜びや、育てる上での悩みや、そうしたもの全てを神はご存じで、その末にイエスが来られました。そして、次の23節でイエスは
「インマヌエル…(神は私たちとともにおられる)と呼ばれる」
と言われるのです。この罪と恥のような歴史にも、神は来て、ともにいてくださいました。いいえ、すでに神は働いておられました。人間には失敗と罰のどん底だとしか思えなくても、そこにイエスはおいでになって、本当に深いキリストの国を始めました。神を忘れた歴史にも神は私たちとともにおられます。私たちには現実を見ても、神などいない、神からも忘れられている、と結論したいとしても、そこにもイエスは来られ、私たちの心にまで来て下さって、神の国を始めてくださいます。この系図を人は見て、「人間の罪と罰だ、不幸で呪われた時代だ」と単純に思いたがります。しかし、それは「イエスを迎える歴史」でした。失敗したからイエスが来たのではなく、失敗も承知で、まずイエスの約束がアブラハムやダビデにありました。それに人が応えなくても、神はそこに約束を果たしてくださったのです。
《旧約は罰で、新約は福音だ》と単純化するのは止めましょう。新約の今も、この私たちの中にイエスは完全に働いておられるのです。人が失敗や痛みを持つ中、イエスはともにいて働き続けておられるのです。だから私たちは、苦しみや行き詰まり、こどもが生まれる喜びや思うままにならないこどもの成長に悩み迷う中にも、それを「神の罰」「罪への呪い」としてではなく、「ここにもイエスがともにおられる。弱く、心の奥に罪を抱えた私たちのうわべを取り繕うのではなく、その私たちとも主がともにいて、深い慰めを表してくださる」と信じるのです。御言葉を聴き、教えられ、慰められながら、、与えられた人生を祝い、小さな幸せを喜び、痛みを正直に嘆きつつ、感謝と祈りをもって生きていくことが出来るのです。それが出来なくても、主は私たちとともにいてくださいます。
「主イエスが神の約束の通りこの世界に来て下さったことを感謝します。聖書の歴史を振り返って、人の罪と叫びを聞き、そこに来られた主のあわれみを思います。今も社会にはたくさんの過ちや暴力があります。それを隠そう、誰かのせいにしよう、という誘惑も変わりません。主よ、来て下さい。私たちの中にも働いて、御業を始めることを求めさせてください。そして、あなたが私たちとともにおられる幸いから、ここに御国が始まる一環を担わせてください」
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