聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

ルカの福音書19章37~48節「神の涙」 四旬節説教

2018-03-18 21:03:06 | ルカ

2018/3/18 ルカの福音書19章37~48節「神の涙」四旬節

 今日から三回、「使徒の働き」から離れます。聖書の春の祭り「過越の祭り」は、キリストが十字架に架かる日となりました。その三日目にキリストはよみがえって、今に至るまで、過越祭を基準として、その週を受難週、次の日曜日を復活祭として教会は祝っています。来週がその受難週ですが、今日はその始まりに当たるキリストのエルサレム入城を見たいと思います。

1.王の凱旋

47祭司長たち、律法学者たち、そして民のおもだった者たちは、イエスを殺そうと狙っていた。

 彼らは木曜の夜中にイエスを逮捕して、金曜に十字架刑を果たします。まだこの時点、日曜日は平和で、イエスがエルサレムに近づき、弟子たちは喜んで、今こそイエスがエルサレムで王となられると期待に溢れていました。そこで彼らは大声で神を賛美して、歌い続けました。

38こう言った。「祝福され、主の御名によって来られる方、王に。天には平和があるように。栄光がいと高き所にあるように。」

 弟子たちはイエスを

「主の御名によって来られる方、王」

とハッキリ言っています。神が遣わしてくださると約束している王、メシヤ、平和を完成させてくださるお方だ、と歌っています。まだこの時点では彼らの理解は不十分でした。勘違いしていることもまだまだありました。けれども精一杯、幼稚なりに精一杯、イエスが王だと信じて、イエスに期待しています。ここに加わった人々は、金曜日にはイエスから逃げていきました。逮捕されて余りに惨めな姿を見て失望して、憎さ百倍に

「十字架につけよ」

と叫び続けた人もいたでしょう。十字架につけられたイエスを見て、嘲った人々もいたようです。教会でもこの時の

「祝福あれ」

と叫んだ人が金曜には

「十字架につけよ」

と罵声を浴びせた事実を取り上げて、自分たちの信仰や賛美はどうかと振り返ることを大事にしてきたように思います。それはそれで大事なことです。同時に、聖書はそうした冷めた見方ではなく、この不十分な歌を受け止め、大切なものとしています。

39パリサイ人のうちの何人かが、群衆の中からイエスに向かって、「先生あなたの弟子たちを叱ってください」と言った。

40イエスは答えられた。「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」

 この弟子たちの言葉を黙らせようという声にはとても強い言い方で撥ね付けるのです。この弟子たちの賛美をイエスは真実なものとして受け入れておられるのです。つまり、イエスは王であり、平和をかなえて、栄光がいと高き方(神)に捧げられるようにしてくださる方です。ただそのやり方は、パリサイ人や祭司長や、弟子たちや私たちにも思いも付かないものでした。

2.イエスは泣いて

 エルサレムに近づいただけでも興奮した弟子たちは、エルサレムを目にして、神殿の輝きも見えて、感極まったでしょう。しかし意外にもイエスは

「泣かれ」

ます。そして言われます。

42もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら―。しかし今、それはおまえの目から隠されている。」

そして、やがてエルサレムに敵が攻めてきて、エルサレムを粉微塵に打ち壊して、その全ての石も、中にいる子どもたちも地に叩き付けられる日が来る。

「一つの石も、ほかの石の上に積まれたまま残してはおかない。」

 そう言われるのです。実際これは紀元70年にローマ軍に包囲されて、エルサレムが陥落して現実になりました[1]。その時、すべての石が崩されて、大きな音がしたでしょう。40節の

「石が叫びます」

はその事なのでしょう。平和の王であるイエスを受け入れず、その声を黙らせようとした結果、エルサレムは戦争に完敗して、石が崩落の叫びを響かせる日が来る。それをイエスは嘆かれて、泣かれたのです。

 イエスはこの将来を見据えて、涙を流されました。決して、彼らの不信仰へのさばきとか、のろいとして冷たく宣告されたのではありません。泣かれたのです。平和に背を向けている人間のために、涙をほとばしらせて、嘆かれる。それがイエスという王です。平和の王イエスは問題をたちまち解決して、敵を打ち倒したり戦争を力尽くで止めさせたりすることも出来るでしょうに、無力な人間のようにさめざめと泣いておられます。イエスは上辺に隠れた人間の思い、願い、頑なさ、プライドや自己中心、平和とは相容れない心を見て泣かれます。神は全知全能で、悲しみや悩みとは無縁の方と思いきや、恐れ多いことにイエスは涙される王です。人の不十分さを受け入れ、人の罪のもたらす悲惨のために慟哭されるのです。

 しかし、そこにこそ平和の鍵があります。神がこの世界のために心を裂かれている。私たち人間の問題のために悲しみ、嘆いておられる。だからこそ、イエスはこの世界に人となって来ることも厭われませんでした。そして人間の痛みの最も深い所にまで降りて来て、十字架の苦しみや恥や孤独、恐ろしさを味わい尽くされました。それは、イエスが私たちを本当に愛しておられるからです。私たちが平和の道でなく、滅びや争いに生きることを真剣に嘆き、本気で嘆いて下さっているのです。その憐れみこそ私たちの希望です。神の涙には力があります。

3.「わたしの家は祈りの家」

 イエスはこの後、宮に入って、神殿で商売をしていた人々を追い出し始めます。神殿では、献金のコインや生贄の動物が、高い値段で売られていました。それ以外のものは受け入れられなかったので、ボロ儲けでした。そしてその両替商や家畜商人たちの店が広く場所を取って、外国人や遠くからの巡礼者たちを塞いでいたのです。それに対してイエスは激しく怒られて、

46「わたしの家は祈りの家でなければならない」と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを「強盗の巣」にした。

と非難されるのです。

「祈りの家」

 これは旧約聖書イザヤ書56章7節の言葉ですが[2]、そこでは外国人も宦官も、どんな人も主がその礼拝を受け入れ、ご自分の所に喜んで迎え入れて祝福してくださると言われています。

「わたしの家はあらゆる民の祈りの家と呼ばれる」。

 ここでの「祈りの家」は、そこで親しく神様と語らい、そこが自分の居場所、「我が家」としていつまでも住まう、という意味でしょう。誰からも邪魔者扱いされず、誰をも余所者扱いしないで、神が受け入れてくださった家族として過ごす。「ここは永遠にあなたの祈りの家であり、私の祈りの家。一緒にお祝いしましょう」そういうあり方です。それこそ

「平和」

の姿です。

 実際のエルサレム神殿でなされていたのはその逆で、商売であり搾取でした。祭司長やエリート、権力階級と結託した金儲けの構造でした。神が約束された平和は表向きだけになって、その町が歩んでいたのは、平和への道ではなく、自分たちの繁栄、権力構造の安定への危なっかしい道だったのですね。でもそれは最後には破滅になるだけです。それをイエスは知っておられたからこそ、遠慮なく商売人たちを追い出されたのです。そして、宮の中で人々に神の平和を教えられました。権力者には耳障りな話でしたが、民衆は熱心に耳を傾けました。それは人に「私の祈りの家」を与えて、私たちが互いに受け入れ合い、生かし合う、本当の平和を下さりたい方の言葉でした。

 イエスという王は、人のために嘆き、聖書の御言葉を与え、平和へと導いてくださる王です。私たちはイエスを王として告白します。理解は不十分で、まだ間違った期待もあるでしょう。今でも平和よりも繁栄を、苦しみより楽や自分の安全を求めるものです。神のなさることに戸惑い、反発するでしょうし、この世界の戦いで翻弄されることもあるかもしれません。その度に私たちは、キリストが御自身の命を捧げてくださった意味を再確認するのです。主が来て下さった。王として来られ、涙を流され、十字架の死をも引き受けて下さった。その方がよみがえって、今も生きておられ、私たちを治めておられます。私たちとともにおられ、平和の道へ導いてくださる。その約束を確認する受難週としたいのです。

「平和の王、私たちの主、力あり私たちのために涙も命も惜しまれない主よ。あなたが私たちの人生に来られた意味も、最初はよく分かりませんでしたが、あなたが平和の道を示し、ともに歩んでくださることを感謝します。どうぞ私たちの生活も心も整えて、永遠の家への道を、ともに生かし合い、ともに泣き、ともに喜びながら、平和の器とされて歩ませてください」



[1] その時にイスラエルの国家は終わって、ユダヤ民族は二千年近く放浪を続けたのです。その放浪の始まりとなったのがエルサレムの崩壊でした。

[2] イザヤ書五七章4~8節「4なぜなら、主がこう言われるからだ。「わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶことを選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、わたしの家、わたしの城壁の内で、息子、娘にもまさる記念の名を与え、絶えることのない永遠の名を与える。また、主に連なって主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった異国の民が、みな安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら、わたしの聖なる山に来させて、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のささげ物やいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。なぜならわたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれるからだ。──イスラエルの散らされた者たちを集める方、神である主のことば──すでに集められた者たちに、わたしはさらに集めて加える。」

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