聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

ルカ二四章44~49節「高き力が来るまで」

2016-02-21 17:15:17 | ルカ

2016/02/21 ルカ二四章44~49節「高き力が来るまで」

 

 いよいよルカの福音書の締め括りで、イエスがお語りになった最後の言葉として記されている部分をお話しします。主イエスの誕生のクリスマスから、弟子たちを選ばれて、宣教を続け、十字架にかかられて、よみがえられた、その歩みの総括として、イエスはこう仰います。

44さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」

 「モーセの律法と預言者と詩篇」というのは、まだ新約聖書が書かれる前のこの時点で、聖書を指す言い方です。聖書の中に、イエスについて書いてあることは全部成就する。そして、

45そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、

46こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、

47その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。

 こういう復活に至る主イエスのことは、聖書に書いてあるし、その名による知らせがあらゆる国の人々に宣べ伝えられることも、聖書に書かれている。イエスは、この時弟子たちにそう悟らせなさったのです。そして、この宣教の結果、今私たちがここで福音を聞いているのです。

 ここでは、ただ「旧約聖書にはキリストのご生涯の肝心な点が何百年も前から予告されていた、それがそっくり成就した、すごい!」と言っているのではありません。イエスは、神がどのようなお方か、を私たちに最も完全に現してくださいました。イエスのご生涯の苦しみと、その苦しみを経ての復活は、神が人間のためにいつも苦しまれ、痛みを負われ、敗北と見えるほどに謙られることの証しです。そこから回復、再生、新しい勝利の業をなさる真理の、生き生きと体現です[1]。聖書に書いてあるイエスの預言とは、その当時から今に至るまで変わらない、神の謙虚で深いご計画まで視野に入れたものです。決して、今から二千年前のイエスのご生涯の事が予告されて見事に当たっただけではありません。もしそうなら、そんな宣教は、私たちにとって二千年も昔の、遠く掛け離れた話に過ぎません。イエスの苦しみと復活は、神の深い愛と力強い回復の希望とが今の私たちにも届けられている証しです。それが、イエスの名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる、という宣教です。そうです、今も私たちが、自分の罪や、人間の罪がもたらす全ての闇や傷や毒から、「赦される」(救い出され、解放され-復活する)ことを得させるほどの「悔い改め」が私たちに宣べ伝えられていて、また私たちを通して、世界に宣べ伝えられているのです[2]

 「その名によって、罪の赦しを得させる悔い改め」

の「悔い改め」は、後悔や懺悔とは違います。方向転換を指していて、何よりも神に向かって生きる方向転換です。罪からの悔い改め、以上に、神への悔い改め、です[3]。これを誤解して、クリスチャンの中にも、罪をいつも悔いて、自分を責め、貶めてしまう傾向があります。重箱の隅を突くように自分の問題を論い、責め続けることが罪の赦しに必要-裏を返せば、そうしないと罪を赦して戴けない。そういう説教さえよく聞きます。それは「罪の赦しを得させるのは罪からの悔い改め」という理解です。しかし、そうではないのです。悔い改めは、神への悔い改めです。その時に、罪の赦しも頂けると約束されているのです。私たちは生涯、罪の影響を残しています。怒り、妬み、隠したがるのです。もしそれを、私たちが自分で解決しなさい、悪かったと思い続けなきゃダメだと言うなら、それこそそこには「救い」も「希望」もあったもんじゃないでしょう。そういう「神」は何よりも私たちに罪の反省や謝罪を求められる神です。その反省が不十分だと、赦してもくれない神です。皆さんの中で、自分は悔い改めが不十分だから、罪を赦していただけない、言い換えれば「救われて天国に行けないんじゃないか」と思う事はないでしょうか[4]。今日の箇所は罪の赦しを証ししています。イエスが私たちのために苦しみ、よみがえってくださいました。そのイエスの名に基づいて、私たちには神への悔い改めが宣べ伝えられています。私たちに真剣な反省や謝罪が見られたら罪を赦してやろう、という潔癖な方でなく、私たちの立ち帰ってくることを喜び、待ち構えて、走り寄って受け止めてくださる神です。全ての罪を赦すばかりか、罪の方ではなく神に向かった歩みをさせて下さる神です[5]。神の聖さに触れて、罪に鈍感だった心がもっと自分の罪を知り、謙らざるを得なくなるでしょう。けれども、それで自分を責め卑下するよりも、神に愛されている喜びを増します[6]。まだ地上では罪の思いを引き摺り、失敗をするとしても、それだからこそ一層、キリストの苦しみと復活の恵みに感謝しつつ、励まされつつ、歩ませていただくのです。それを、聖書は約束していたのです。

49さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。

 この宣教そのものも、神の御業です。決して、人間の勢いとか熱心とかによらず、いと高き所からの力、神の聖霊の力を待ちなさいと言われます。こんな素晴らしい知らせなのだから、早く出て行って、宣べ伝えなさい、ではなくむしろ、待ち、信じ、導かれることが大切なのです。聖霊がこの後降ってからも[7]、「使徒の働き」は、神が宣教を導かれることを強調します。熱心な努力より、祈りつつ、神に頼りつつ、苦しみや行き止まりのような時にも神の導きに期待しつつ進んでいきます。神への絶大な信頼故に、喜びに溢れていますが、頑張らない。その姿勢もまた、神を知らずに疲れている世界にとって、福音となるのですね。

 G・K・チェスタトン[8]という英国のキリスト者が「無人島に行くとしたら何の本を持っていくか」と聞かれた時、こう答えたそうです。彼の答えは(聖書ではなく)船の作り方の本でした。確かに、聖書が語るのは、孤独な無人島でも幸せに生きる秘訣などではありません。無人島から船を造ってでも世界に戻り、そこで人と繋がり、神の慰めと回復、罪の赦しを宣べ伝えたい-それほどに、世界には神のご計画があるのだというダイナミックなメッセージです。神は、私たちの孤独や、恐れや絶望、不安をご存じです。大都会にいても、無人島の方がマシじゃないか、死んじゃった方が楽じゃないか、と思いたくなる現実に、深く心を痛められます。ご自身の愛さえ人間が疑って、「祈りが上手でない、信仰が足りない、自分なんか救われなくても文句は言えない」と思い込むのを、恵みの神に向き直って、喜びを与えようとご自身、苦しみを厭われない神です。その福音が私たちに、失敗や痛みを通して届けられ、罪赦された幸いを持たせてくれます。その聖霊によって慰めと力を受ける私たちの存在そのものが、更に私たちを証人とするのです。自分で頑張るのではなく、聖霊が神のご計画を必ず実現なさると信じるのです[9]。心を開いて頂き、この聖書の福音を悟らせ、遣わされていきましょう。

 

「心を開いてください。主イエスの十字架と復活により、罪の赦しを得させる悔い改めが世界に告げられていることを悟らせてください。そこに自分も与っている不思議に日々驚かせてください。自分を責め、赦しの恵みを疑う者を、私たちを赦し、受け入れて離すまいと待ちたもう神へ悔い改めさせてください。聖霊により、喜びに溢れて生きる証し人とならせてください」



[1] 哲学者が論じ、人間が「神の不可難性」「不可受苦性」「絶対他者」などという神観を、根本から覆すのが、聖書の神であり、イエスの復活でありました。これを、理性によって説明し、抵抗のないものにしようとする努力は、最終的には破綻したのです。参照、アリスター・マクグラス『歴史のイエスと信仰のキリスト』(新教出版社)。

[2] これが、「使徒の働き」においても繰り返されている、「聖書に書かれているとおりに、キリストは苦しみ、よみがられた」というメッセージです。使徒二38、一〇43、二六22、23、など。

[3] 使徒二〇21「神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰」。ここにも、罪からの悔い改め、という以上に、神への悔い改めが明言されています。「罪を犯してゴメンナサイ」ばかりで、神への礼拝、信頼、喜びがなければ失礼でしょう。「罪を犯してしまうから、怒られるんじゃないか」と神の愛を小さく、貧しく、疑っているならば、それこそ神の最も望まないこと、神を悲しませることです。(と言われると、ますます「私は神を悲しませているダメな人間だ」、と思うかも知れません。そこには、神との関係や聖書知識の誤解だけでなく、生まれてからの親子関係や人間関係での傷が大きく影響している可能性があります。であるとすれば、そのような自分の生い立ちに気づき、癒やされていくことを祈り求めることが手がかりとなるでしょう。)

[4] こういう彼岸的な「救い」理解そのものが、問題なのですが、これもまたワンセットの伝道説教でした。

[5] 神が苦しむ神である、というだけでなく、私たちが自己中心で虚栄を求める死の生き方から、自分を与え、神を礼拝し、他者を大切にする生き方、即ち神にならう生き方へと導かれていく。それが福音である。

[6] 「黒崎幸吉氏の「回心」(山本書店刊・昭和四六年)という本があります。高名な聖書学者である黒崎氏が、真の回心をえられたのは、その師内村鑑三からではなく、「同信会に属する一人の年老いたキリスト教の信者と知り合った」ことから始まります(同書35頁)。「彼は教育もろくに受けておらず、読み書きも十分とはいえなかった。しかし彼は日々の糧として聖書を読んでいた。哲学や科学に関して彼は何も知らないが、神の言葉を真理とし、知恵として信じていた。私が自分の救いに確信が持てなかったのに、彼は完全な確信を持って、自分が救われることを堅く信じていた。私にとって、救いに関しては私自身の魂の状態が最も重要なものであったのに対し、彼にとっては、神がおのが独り子を世に与え給うた事実が最も大切なことであった。私はいつも、私の罪の意識に常に心を配ることが有益で、必要なことがらと思っていたが、彼は自分の罪が赦されたことを固く信じ、それに対して感謝の心を持つことが彼の喜びであった。」つまり回心前の黒崎氏が自分のへそを見つめていたのに対し、この老人(注・堀米吉兄-矢内原忠雄夫人の御尊父)は主を見上げて自分を問題としていません。」藤尾正人『胸が熱くなるような』8頁。

[7] 使徒の働き二章。

[8] カトリックの、ジャーナリストであり、小説家。著書に、「ブラウン神父シリーズ」「正統とは何か」など。

[9] この二四章で登場した弟子たちのように、愚かな人、心の鈍い人、信じられない者たちにこそ、主が近づき、その心の目を開き、心をうちに燃やして、聖書を悟らせて遣わされるのです。もっと優秀で、信じやすく、忠実なものではなく、罪の赦しや聖霊の励ましを必要とする者にこそ、聖霊は主の宣教を託してくださいます。ここに希望があります。


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