聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

使徒の働き15章1-12節「「べき」が悩みを産む」

2018-01-21 20:56:05 | 使徒の働き

2018/1/21 使徒の働き15章1-12節「「べき」が悩みを産む」

 今日の「使徒の働き」15章は28章ある「使徒の働き」のほぼ中間です。新約聖書そのものでもちょうど真ん中辺りです。いみじくも、新約聖書の教理にとっても要の内容がここに書かれていると言われます。それが、キリストの恵みにより信仰のみで救われるとの告白です。

1.エルサレム会議[1]

 前回まで10章以来、初代教会に異邦人が加わって、急速に中心がユダヤ人から異邦人に移っていきました。この時点でユダヤ人キリスト者の一部から「割礼を受けさせ、律法を守るように命じないと救われない」と言う声が持ち上がりました。聖書を遡りますと、神である主がアブラハムに割礼(男性の包皮を切る儀式)を命じられています。その子孫はみな、神の民であるしるしとして、生まれて八日目に割礼を授けたのです[2]。今でもユダヤ人が習慣としている儀式です[3]。ユダヤ人にとって大事な、体に刻まれた恵みの感覚でした。神がご自分の民として、包み隠しのない親しい関係を結んで下さった契約の、生々しいしるしでした。しかし今、教会は割礼のない異邦人を受け入れるよう導かれていました。もし痛い割礼が義務なら、異邦人には恵みの救いどころではなくなります。でもユダヤ人には、割礼のない異邦人もそのままでいいのか、物凄い抵抗がありました。そこでエルサレム会議が開かれる事になったのです。

 自由討論の後、ペテロが九章から十一章にあった自分の話をしました。神は異邦人が信じるために福音を伝えさせ、聖霊を与えてくださいました[4]。そこには何の差別もなかった。自分たちも異邦人も同じように神から聖霊を与えられ、同じように主イエスの恵みによる救いを信じている。そこに割礼や律法の義務を強いて、異邦人に負いきれない負担を背負わせることは「神を試みる」こと、神の上に立って神を裁こうとすることだ、というのです。12節ではバルナバとパウロが

「神が彼らを通して異邦人の間で行われたしるしと不思議」

を話しています。13節から21節の締めくくりはヤコブです。彼はイエスの弟で、エルサレム教会の指導的な立場にあり、律法を忠実に守る誠実な人だったと伝えられています。その彼が総括して、預言者たちの言葉、旧約聖書の教え・約束も、神の民が建て直されて、異邦人も主を求めるようになると言われていた通りだと確認します。異邦人に割礼を強いない結論が衆議一決されます。これは大きな決断でした。旧約時代から守ってきた割礼を義務とはしないとした。私たちには理解しがたい感覚ですが、ユダヤ人を中心としてきた教会が割礼を異邦人に強いないと決断したのは大決断だったのです。これでも一件落着はしませんでした。この後も何度も割礼の必要を吹聴するユダヤ人によって教会は翻弄させられました。それはコリント書、ガラテヤ書、ピリピ書などに明らかです。それはユダヤ人の異常さ、傲慢さなのでしょうか。もっと人間的な感覚として私たちにも通じる大事なことを言っているのではないかと思うのです。

2.体にしみついている感覚

 割礼は恵みの契約のしるしでした。確かに生々しい証拠として、体にも心にも恵みを刻みつけたのです。それは理屈や論理以上の感覚だったでしょう。でもそれを人にも押しつけると恵みの逆になります。自分の身についた大事な割礼が「異邦人にも受けさせるべきだ」とするなら、それは痛みを強要することになります。異邦人にとっては、全く逆の意味を持つのです。割礼の強要は無理な要求で、悩みや躓きになる相手の感覚を想像しなければなりませんでした。

 1節では

「割礼を受けなければ救われない」

でしたが5節では「救われない」と言わずに

「受けさせ…命じるべき」

と言っています。「救われないとは言わないけれど、でもやっぱり割礼を受けなくちゃぁね」という微妙な言い方にも読めます。そうでないと救われないと断定はしないけど、やっぱりこうすべきだ、とやんわり自分の考えを神の要求のように押しつけて不安にさせて、コントロールしようとするのです。悪意はなくても押しつけです。

 似たような事は現実によくありますし、教会の中でも形を変えてよくあります。私は生まれがバプテスト派ですから、洗礼は滴礼じゃなく、全身水に浸すバプテスマじゃなきゃ、と思っていました。聖め派の人は「聖霊体験、きよめ体験がなければ」と言い、新生体験を強調する教派で育てば「何年何月何日に救われましたか」と質問します。どれもそれ自体は恵みでも、言われた方は不安にします。劇的な救いの証しはそれ自体恵みですが、ドラマがないと救われていないように誤解して悩む人も沢山います。お酒やタバコも「クリスチャンだから止めるべきだ」とか、お化粧や美容整形を禁じ、聖書通読や伝道をどんなに大変でも「すべき」と簡単に言う人もいました。勿論、体によいとか生活がシンプルになることは有り難いことです。聖書や祈りは大事な恵みです。でも自分に良いことが「すべき」になるなら、人を悩ませてしまいます。「キリストを信じるだけで恵みによって救われる」と言いつつ、外面的なことや痛みを伴うことを遠回しにでも押しつけるなら、悩みを負わせます。恵みだけのはずが混乱させ、神に騙された気にさえなります。ここで教会は大事な割礼をも押しつけない決断をしたのです。

3.聖書の要の宣言とは

 そう考えても、エルサレム会議が論じたのは決して「救いは信仰だけによるのか、割礼も必要なのか」という理屈だけの議論ではなかったのです。ペテロは主の御業や預言者の言葉を柱に「なぜ異邦人にくびきを負わせるのか」と問い、ヤコブも

「異邦人の間で神に立ち返る者たちを悩ませてはいけません」

が動機なのです[5]。「べき」より人を見ています。逆に、自分にとって大事だから皆も割礼を受けるべきだと押しつけると、それで混乱して動揺している人が見えなくなります。人よりも自分の正義だけを見る、視野の狭いことが繰り返されるのでしょう。

 同じ事は異邦人キリスト者にも向けられます。20節では「ただ偶像に供えて汚れたものと、淫らな行いと、絞め殺したものと、血とを避けるように[6]、彼らに書き送るべきです」としました。主イエスの恵みによって救われるのだから割礼も何も気にしなくて好きにしていい、ではありません。異邦人も、ユダヤ人がモーセの律法を重んじている事を配慮するよう促しています。痛み分けとか形式的な妥協とかでなく、もっと大切な尊重-互いを認め合い、相手の嫌がることを配慮する。そういう具体的な方向は促したのです。つまりここでも、エルサレム会議が目指したのが「割礼も必要か、信仰だけで救われるのか」という議論ではなくて、「すべき」を押しつけ合う関係から「互いを認め合う」関係だったことがうかがえます。「主イエスが恵みによって救ってくださる」が、「だから割礼も義務も要らない」ではなく「だから私たちも互いに受け入れ合い、喜び合おう」に続くのです。割礼というユダヤ人そのものといえる感覚さえ絶対化せず、それを持たない相手を受け入れる。また、異邦人も、割礼も束縛もない自分の自由や権利以上に、ともに古い儀式律法を守るユダヤ人を尊重して、自分の生活を配慮していこう。そういう非常に生き生きとした約束で、エルサレム会議は決着しました。

 この後も律法や割礼を求める人々は絶えません。ガラテヤとローマ書はその最たる例です[7]。そうした問題に対する聖書の対処は、ただ「その考えは間違いだ」「傲慢だ」という、これまた知的な議論や「べからず」論ではありません。「すべき」は尤もらしそうで、でも人の事情や気持ちは後回しです。そんな冷たい正論で人を縛るよりも、主イエスの恵みによってともに救われたことを大事にして、互いの益を図る。自分と大きく異なる歩みをしてきて、水と油ほども別々の感覚を持った相手をも、キリストが受け入れてくださったように受け入れる。違う方法で、しかし同じ恵みを大事にしていることを認め合う。そういう方向性を立ち位置としたのです。自分の常識や経験や感覚をちゃんと意識しながら、もっと大きな恵みの中でともに歩もうとしました。それが使徒の働きの真ん中にあり、新約聖書の真ん中にある教会の原点です。

「恵みによって私たちを救われた主よ。あなたは私たちに様々な恵みのしるしを下さいました。それをもって人を裁きさえする私たちですが、どうぞ私たちの心を主の愛によって開き、悩みや重荷で苦しめることから救い出してください。この原点に立ち返り、お互いに与えられた主の恵みを知り、御言葉に教えられながら、互いに生かし合い、本当の益を図っていけますよう」



[1] エルサレム会議が開かれたのは、紀元49年頃です。

[2] 創世記17章など。そこでは割礼は「代々にわたる」「永遠の契約のしるし」と言われています。

[3] 映画「最高の花婿」にもユダヤ人家庭で子どもに割礼を授ける場面が出て来ます。一見の価値ある映画です。

[4] これは、10章11章のコルネリウス家族の回心事件を指しています。

[5] 次の24節でもあなたがたを混乱させ、動揺させたと異邦人キリスト者の不安や悩みを配慮しています。

[6] 動物を血の付いたまま食べるよう絞め殺した肉は食べない

[7] ガラテヤ書二章と使徒一五章との関係については、諸説あります。ガラテヤ教会がリステラなどの地方だとすれば、ガラテヤ書が書かれた後にエルサレム会議が行われたことになります(南ガラテヤ説)。あるいは、ガラテヤが一六章6節の「フリュギア・ガラテヤ地方」だとすると、エルサレム会議(ガラテヤ二章1-10節)の後にガラテヤ伝道が行われ、その後に偽教師たちが入ってきた、ということになります(北ガラテヤ説)。どちらにも甲乙つけがたい理由と難点がありますが、エルサレム会議が最終決着にならなかったことは、使徒の働きそのものからも十分に理解できます。

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