聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問53~4「主イエスの名のすばらしさ」 コロサイ三章16~17節

2015-06-02 13:17:49 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/05/31 ウェストミンスター小教理問答53~4「主イエスの名のすばらしさ」 コロサイ三章16~17節

 

 次の名前は何の名前だと思いますか。

「クルンテープ・プラマハーナコーン・アモーンラッタナコーシン・マヒンタラーユッタヤー・マハーディロックホップ・ノッパラット・ラーチャタニーブリローム・ラドムウーチャンウェートマハーサターン・アモーンピマーン・アワターンサティット・サッカタッティヤウィサヌカムプラシット」。これは、

 

「天使の都 雄大なる都城 帝釈天の不壊の宝玉 帝釈天の戦争なき平和な 偉大にして最高の土地 九種の宝玉の如き 心楽しき都 数々の大王宮に富み 神が権化して住みたもう 帝釈天が建築神ヴィシュカルマをして 造り終えられし都」

  

 

 

 

 

という意味で、タイの国の首都バンコクの正式な名前です。

 

 ではもう一つ。「ドラえもん」と聞くと何が思い浮かびますか。

こんな感じではないでしょうか??
 名前を聞くと、ドラえもんの姿が思い浮かびますね。そして道具やのび太君たちやお話しも思い浮かぶでしょう。名前を聞けばその名前の文字さえ思い出します。名前とは、その人や物の姿形や、性格や性質、お話しやつながり、全部を引き出すことが出来るのですね。

 では、もう一つ、これはどうですか?

これは、聖書の神様の名前です。日本語の聖書では「主」と訳されています。この「主」の御名を聞くと私たちは何を思い浮かべるでしょう。

 イエス様、造り主、神、羊飼い、いやし、聖さ、救い主… いろいろなことが思い浮かびますね。

今日のウェストミンスター小教理問答53はこうです。

問53 第三戒は、どれですか。

答 第三戒は、「あなたは、あなたの神、主の御名をみだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない」です。

問54 第三戒では、何が求められていますか。

答 第三戒は、神の御名、称号、属性、規定、ことば、みわざを、聖とし、敬虔に用いることを求めています。

 「主の御名をみだりに唱えてはならない」。神様のすべてがそこに込められている御名は、ふさわしく恭しく口にするべきです。それなのに、その御名にふさわしい思いもなしに、軽々しく、無意味に、ふざけて、御名を唱えるとしたらそれは、神様ご自身を冒涜することになります。ですから、神様の御名をその御名に相応しく口にしなさい、というのです。自分の名前でも、ふざけて使われたらいやですよね。名前を呼ばれたと思って、「何?」って返事をしたら、「何でもない」と言われたら、失礼だなぁと思いますね。そんな態度で神様の御名を呼ぶことは、神様の偉大さを踏みにじることです。

 けれども、最初から言ったように、名前はその人を表すものであって、名前の意味やその人をよく分かりもしないのに、大事にすることは出来ませんね。実は、この戒めを聞いたときに、ユダヤ人たちは「主の御名をみだりに唱えたら大変だ。ではそうしないために、御名を唱えることは止めよう」と言って、この御名を口にすること自体を禁じるようになりました。聖書を読み上げるときも、ここに来たら、「主(アドナイ)」という言葉で読み替えることにしたのです。そうしたら、少なくとも御名をみだりに唱えたと罰せられることはなくて済む、と考えたのですね。そこで、今では、この文字をどう読むのか、神様の名前は何と発音するのか、グチャグチャになってしまいました。少し前の讃美歌では「エホバ」と呼んでいましたが、どうも「エホバ」ではなくて「ヤハウェ」のほうが正しいらしい、ということで、今では「エホバ」は使わなくなりました。それは、そもそも「主の御名をみだりに唱えてはならない」をものすごく勘違いしたからだと思います。もしも、主の御名を一切唱えないとしたら、それは、みだりに唱えるとの同じぐらい、神様を冒涜してしまうことじゃないでしょうか。

コロサイ三17あなたがたのすることは、ことばによると行いによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。

とありました。私たちのすることは、すべて、主イエスの名によってなし、父なる神様への感謝をして行うのがふさわしいのですよ、とパウロは言っています。私たちがすることは、何一つとして、神様と無関係なことはありません。神様が私たちを愛し、生かしてくださっています。また、私たちが生きていく歩みは、イエス様に従う歩みです。そして、神様の栄光を現すために生きるのが私たちです。ですから、イエス様と無関係なことは一つとしてありません。むしろ私たちは、イエス様を覚えながら、イエス様を具体的に思いながら、イエス様にささげるために生きるのです。それが、

「主の名によってなす」

ということです。主の名を唱えない方がよい、ではないのです。もっと主の名を思い、私たちが生きていくことで主の名を覚えなくてよいような事は何一つない、それぐらい、主は大きなお方、その名前は賛美されるべき御名。そう思いながら歩むのが、本当に御名にふさわしい唱え方なのです。

 御名をみだりに唱えないためには、唱えること自体をやめちゃう、のではなく、御名の尊さを覚えることです。イエス様の偉大さ、素晴らしさを知り、覚えていることです。主の御名、「羊飼い」「王」などの称号、主の聖さ、栄光、愛といった属性、主のみわざ、主の御言葉の偉大さを思い、崇めながら、大切にしながら生きることです。もしも主の御名を唱えることを止めて、蓋をして、しまってしまったら、私たちは主の素晴らしさを見失ってしまいます。イエス様が何をしてくださったか、イエス様がどれほど私たちを愛して、私たちの罪を赦し、神の子として守り、導き、成長させて下さっているかが分からなくなります。そうして、私たちが神様への信頼や喜び、感謝が薄れてしまうとしたら、そんなことは神様が私たちに望んでいらっしゃることであるはずがありません。神は私たちに

「わたしはあなたの神、主」

と言われました。その強い繋がりの中に私たちが、確かな愛をいただいて正しく生きるようにと神様は願われました。

 そして、神様も私たちの名を呼んでくださいます。私たち一人一人の名を呼び、親しく、限りない愛を込めて呼んでくださっています。それは決して「みだりに」呼ばれているのではありません。私たちの神として、私たちの父として、私たちを呼び、守り、育てて、訓練し、神の子どもとして成長させてくださるのです。神が私たちを限りない愛をもって呼んで下さっているように、私たちも神をその御名にふさわしく、限りない信頼と喜びをこめて、お呼びしましょう。いつも、この主の御名を心にもって歩みましょう。

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