聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/11/14 ルツ記「ルツとナオミ」こども聖書㉟

2021-11-13 12:59:37 | こども聖書
2021/11/14 ルツ記「ルツとナオミ」こども聖書㉟

 今日は聖書の「ルツ記」のお話しです。聖書の最初の方では、たった四章しかないルツ記は、珍しく、目に留められないような書です。でも、逆に、神である主が、私たちの世界の、本当に小さな出来事に目を留めてくださることを、ルツ記は教えてくれます。

1:1さばきつかさが治めていたころ、この地に飢饉が起こった。そのため、ユダのベツレヘム出身のある人が妻と二人の息子を連れてモアブの野へ行き、そこに滞在することにした。2その人の名はエリメレク、妻の名はナオミ、…

 この妻がナオミ、そして、二人の息子の兄がモアブで出会ったモアブ人の女性が、ルツでした。ですから「国際結婚」ですね。それも、イスラエル人とモアブ人とは、あまり良い仲ではありません。飢饉になったため、仕方なくモアブに移り住んだのでしょう。息子がモアブ人の女性と結婚するのは、嬉しいばかりではなかったのかもしれません。

 その上、夫のエリメレクも死に、二人の息子たちも死んで、残ったのは女性ばかり。飢饉を逃れてきたはずが、ナオミは外国人の嫁と取り残されてしまいました。出て来たベツレヘムは、飢饉が終わったと聞いたのでナオミは帰ることにしました。そして、ルツたちには、ここでお別れしましょうと告げたのです。ところが、

1:16ルツは言った。
「お母様を捨て、別れて帰るように、仕向けないでください。
お母様が行かれるところに私も行き、住まれるところに私も住みます。
あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。
17あなたが死なれるところで私も死に、そこに葬られます。
もし、死によってでも、私があなたから離れるようなことがあったら、
主が幾重にも私を罰してくださいますように。」

 いつのまにか、ルツはナオミや夫の信じる神、主を、自分の神とするような思いになっていたのです。とても不思議なことです。こうして、ナオミとルツ、血の繋がらない異邦人同士の二人は、ベツレヘムに旅をしました。モアブのどこであったか分からないので、100kmぐらいの旅でしょうか。



 ルツにとっては、自分の故郷との別れでした。帰って来たナオミも、嬉しいばかりではありません。ホッとしたからでしょうか、

1:20ナオミは彼女たちに言った。「私をナオミ(快い)と呼ばないで、マラ(苦しみ)と呼んでください。全能者が私を大きな苦しみにあわせたのですから。21私は出て行くときは満ち足りていましたが、主は私を素手で帰されました。どうして私をナオミと呼ぶのですか。主が私を卑しくし、全能者が私を辛い目にあわせられたというのに。」

というのです。当時は、今以上に、女性だけで生きることは大変なことでした。夫に死なれ、子どもも孫もいないナオミは、もう細々と生きるしかないとして思えません。一緒にいるルツも、いないも同然のように、ナオミは期待していません。なにしろ、外国人、モアブ人ですから、ルツと結婚してくれる人なんて現れないでしょう。
 さて、二人が帰ってきたのはちょうど「大麦の刈り入れが始まったころ」でした。



 刈り入れの間に落ちた麦は、貧しい人が拾ってもよい、というのが神からの律法になっていたのです。これを「落ち穂拾い」と言います。そこでルツは、麦畑に行かせてくださいと願います。ナオミはルツを送り出しますが、たいした落ち穂は拾えないだろう、それどころか、ルツが外国人だから虐められるんじゃないか、と心配するばかりでした。

 ところが、ルツが落ち穂拾いにたまたま入った畑はボアズという人の畑でした。ボアズはなんとナオミの夫エリメレクの親戚でした。彼も、ナオミの事もルツのことも知りませんでしたが、畑で落ち穂を拾っている、見慣れないルツに親切にします。ルツは、

2:10彼女は顔を伏せ、地面にひれ伏して彼に言った。「どうして私に親切にし、気遣ってくださるのですか。私はよそ者ですのに。」



11ボアズは答えた。「あなたの夫が亡くなってから、あなたが、姑にしたこと、それに自分の父母や生まれ故郷を離れて、これまで知らなかった民のところに来たことについて、私は詳しく話を聞いています。12主があなたのしたことに報いてくださるように。あなたがその翼の下に身を避けようとして来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。」



 こうしてルツは安心して、たくさんの落ち穂を拾いました。やがて、ナオミはルツとボアズが結婚するように考えて、ルツをボアズの所に贈って、こう言わせます。

3:9…「私はあなたのはしためルツです。あなたの覆いを、あなたのはしための上に広げてください。あなたは買い戻しの権利のある親類です。」

 この「買い戻し」は、主がイスラエルの中で、財産を失ったり自分を身売りしたりしなければならない人を、親族が代わりに買い戻してあげることを定めた制度です。それは神ご自身が、私たち人間の罪や失敗を、神様の犠牲によって支払って、買い戻してくださることを表しています。そして、このルツをも、主が翼をもって覆ってくださるし、ボアズも買い戻しの権利を果たして、ルツを妻にして、エリメレクの財産も買い戻してくれるのです。ナオミは、全てを失ったと思いましたが、不思議な事に主は、ルツとボアズを出会わせて、ナオミに家族を与えて、将来を回復してくださったのです。

13ボアズはルツを迎え、彼女は彼の妻となった。ボアズは彼女のところに入り、主はルツを身ごもらせ、彼女は男の子を産んだ。…17近所の女たちは、「ナオミに男の子が生まれた」と言って、その子に名をつけた。彼女たちはその子をオベデと呼んだ。オベデは、ダビデの父であるエッサイの父となった。

 そうです、このルツは将来のダビデ王の曾おばあさんになるのです。そして、ダビデの子孫の末に、イエス・キリストが生まれます。新約聖書の一頁には、ルツの名前が出て来ます。モアブ人の未亡人ルツは、救い主イエスの誕生がどんなものかをよく表しています。飢饉や死別、残念な結婚や貧しさ、そうした事の中でも神は働いておられます。今も私たちを買い戻して、不幸な人も外国人も差別なく、一緒に祝福に与るよう、働いておられるのです。そのご計画を信じるから、私たちも誠実を尽くすことが出来ます。

「主よ、ルツ記を有り難うございます。あなたが隠れて働いておられ、今も私たちに、不思議なご計画をお持ちであることを感謝します。ナオミのような悲しみが今も世界にも私たちの周りにもあります。どうぞ、あなたの慰めを表してください。また、私たちの心から差別や心ない冷たさを取り除いて、イエス様の系譜に私たちも加えてください」
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2021/11/14 マタイ伝26章17~25節「神の定めだとしても」

2021-11-13 12:21:11 | マタイの福音書講解
2021/11/14 マタイ伝26章17~25節「神の定めだとしても」

さて、種なしパンの祭りの最初の日に、弟子たちがイエスのところに来て言った。「過越の食事の用意をなさるのに、どこに用意をしましょうか。」
 キリストの「最後の晩餐」の出来事です。これは「種なしパンの祭りの最初の日」に、「過越の食事」をする時の「晩餐」でした。エジプトで奴隷であった先祖が、神によって救い出された事を覚える、春の大事なお祭りでした。この時、都エルサレムには巡礼者が押し寄せて、普段の五倍もの人口に膨れ上がっていたそうです。それが「最後の晩餐」のあった時でした。

 今日の箇所では、17~19節でその食事の場所をどこにするか、弟子たちが尋ねて、イエスがいつのまにか既に、ある人と話をつけていたと語られます[1]。

18イエスは言われた。「都に入り、これこれの人のところに行って言いなさい。『わたしの時が近づいた。あなたのところで弟子たちと一緒に過越を祝いたい、と先生が言っております。』」19弟子たちはイエスが命じられたとおりにして、、過越の用意をした。

 マタイはイエスが既に場所を用意しておられた事を強調します[2]。また、「わたしの時が近づいた」と、この時、刻一刻と近づく十字架への意識がありました[3]。1節でも11節でも、イエスが十字架の死、「わたしの時」と言われる死へと近づいている。その意識で、この過越の食事の場所も用意されていました[4]。弟子たちの思惑を越えて、私たち人間の予測や鈍感さを越えて、神がイエスを遣わして果たされるご計画は、着々と進んでいる。そこに私たちも加えられ、もてなされることを覚えます。

20夕方になって、イエスは十二人と一緒に食卓に着かれた。21皆が食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ります。」22弟子たちはたいへん悲しんで、一人ひとりイエスに「主よ、まさか私ではないでしょう」と言い始めた。

 この食事の最初に、イエスがこんなことを仰るので、弟子たちは大変悲しんだのです。私たちはここで直ぐにユダのことを思い浮かべるでしょう。直前の14~16節でイスカリオテのユダがイエスを銀貨三十枚で引き渡そうとしていたことがありましたから。「引き渡す」と「裏切る」は同じ言葉です[5]。「これはユダの事だ」と思います。でもイエスはそういう言い方をしません。ユダを責めるのでも、弟子たちのうちに疑心暗鬼をもたらそうともしていません。

23イエスは答えられた。「わたしと一緒に手を鉢に浸した者がわたしを裏切ります。」
 これは「同じ釜の飯を食う」「一つ屋根の下に住む」という慣用句です[6]。イエスと一緒の鉢で手を洗い、ここまで寝食を共にしてきた弟子たちから、イエスを引き渡す者が出る。それはとてもショックなことです。ユダはその最たるものだとしても、他の弟子たちもイエスを見捨てて、逃げ出して、ペテロは三度もイエスを「知らない」と否定するのです。そのご自分を裏切る弟子たちとともに、イエスは過越の食事を迎えておられるのです[7]。パウロは言います[8]。

私は主から受けたことを、あなたがたに伝えました。すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、24感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」 Ⅰコリント十一23~24

 「渡される夜」は「裏切られる夜」とも訳せるのです。聖餐は、人がイエスを引き渡した事、弟子たちが主を見捨てた事実、私たちも主を裏切りかねない事を思い起こします。「主イエスは渡される夜」という言葉から始まる聖餐は、私たちの罪、「裏切り」とも言い換えられる罪を持つ者たちを、イエスが集めて下さった最後の晩餐であり、この食卓だという前置きです。そう言われたら「まさか私ではないでしょう」と言いたくなりますが、それは悲しいからであり、でも否定しきれない不安もある私たちの、精一杯の言葉です。それでもやっぱり後で弟子たちは逃げてしまいます。そういう弟子たちだとご存じで、イエスは、過越の食事をされました。その事実を、聖餐の最初に、私たちは確認するのです。

24人の子は、自分について書かれているとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るその人はわざわいです。そういう人は、生まれて来なければよかったのです。」

 イエスへの裏切りで「去って行く」ことも、救い主がその死を通して、救いの業を果たされると書かれている聖書の預言の成就です。とはいえ、それが裏切りや悪を正当化はしません。イエスはその人を強く悲しまれます。「生まれて来なければよかった」とは非道すぎます。誰も誰かのことをこんな風には言えません。
 聖書で「生まれて来なければ良かった」と嘆くのは、ヨブやエレミヤが「自分が生まれて来なければよかった」と嘆く場合のみです[9]。ユダも後で裏切りを強く後悔して首を吊ってしまいます[10]。それほど裏切るという事は悲しすぎることです。その苦しみを、イエスは先に汲み取って、ご自分の後悔のように嘆いておられるのでしょう。
 そして、ユダが
「まさか私では…」
と言う時も、イエスは彼に
「いや、そうだ」[11]
と言われるだけで、彼を責めたり追い出したりはしない。イエスがなさったのは、彼らにパンと杯を与え、そのパンと杯に託してご自身を与えて、聖餐式を定めることでした。まさしく
「主イエスは渡される夜」
 パンと杯を裏切る弟子たちに与えられた。その事を覚えるのが主の聖晩餐です。今、パンと杯を分け合うことに慎重になっていますが、だからこそ、主が渡される夜、ご自分を裏切る弟子たちのために、裏切ったユダにも深い深い心を傾けながら、最後の晩餐の席に着かれて、その弟子たちにご自身を与えられた。その聖餐を思い起こし、味わいたいのです。

 それは、主イエスが渡される夜、裏切られる夜に、その弟子たちを招いて、ご自分を与えてくださった事実を思い起こさせます。信仰深く忠実な弟子たちのためではなく、弱く、臆病で、卑怯な行動さえ取りかねない私たちだとご存じの主が、私たちを招いてくださったのです[12]。また、主はその裏切りの最たるユダのためにさえ、嘆かれました。神の定めで、その役割を担っていたのだ、と割り切りません[13]。人を裏切る、人に裏切られる、それは「生まれて来なかった方がよかった」とか、首を括りたくなるほどの事だとイエスはご存じです。私たちの罪、失敗、簡単に赦しなど出来ない後悔を、イエスは強い言葉で嘆かれます。そして、その私たちを、招いて、一つのパン、ひとつの杯をともに囲ませてくださるのです[14]。教会はこのイエスの招きに与って、赦し合い、最善を図りながら、ともに歩んでいく集まりです。自分もどの人も、この計り知れない主イエスの赦しと招きに与り、ともに主の食卓を囲んでいる。この聖餐の図は私たちを本当に謙虚に、そして希望を持たせてくれます。この恵みに立ち戻り続けるのです。

「主よ、今日もここに招いてくださり有り難うございます。あなたの不思議な定めは、私たち、弱く危うい弟子たちのためでした。どうぞ、その深い主の愛を心に刻ませてください。そして、裏切りや躓き、痛みや後悔で、赦しなど無理に思える中、あなたの血が私たちの罪の赦しのために流された、驚くばかりの恵みに立たせてください。私たちの心をきよめ、壊れた関係をあなたの御手の中で和解させてください。その希望を静かに信じる、この教会でありますように」



[1] この会場提供の人は、どんなに嬉しかったことだろう。この人にも、イエスは単なる連絡役・役割分担だけでなく、愛を与え、関わっていたはず。「あなたのところで過越を行いたいセロー」と言われるとは、なんと嬉しいことだろう。

[2] マルコやルカの福音書は、その人のところに行くのに、謎めいた指示があったと伝えます。マルコ14:12-16(13イエスは、こう言って弟子のうち二人を遣わされた。「都に入りなさい。すると、水がめを運んでいる人に出会います。その人について行きなさい。14そして、彼が入って行く家の主人に、『弟子たちと一緒に過越の食事をする、わたしの客間はどこかと先生が言っております』と言いなさい。15すると、その主人自ら、席が整えられて用意のできた二階の大広間を見せてくれます。そこでわたしたちのために用意をしなさい。」16弟子たちが出かけて行って都に入ると、イエスが彼らに言われたとおりであった。それで、彼らは過越の用意をした。)、ルカ22:7-13。しかし、マタイはそのミステリアスな要素を省き、主の用意の事実と、「わたしの時が近づいた」という、差し迫った十字架への意識が強調されます。

[3] 「わたしの時が近づいたホ・カイロス・ムー・エンギュス・エスティン」ヨハネ7:6、8、13:1、17:1 ヨハネ的な言い方。

[4] 直前の16節で「そのときから、ユダはイエスを引き渡す機会を狙っていた。」とあることが、20節以降の記事ともつながるように、ユダがイエスを引き渡す場所として、過越の食事をする場所は、「機会」となりえました。ですから、イエスはユダにも他の弟子にも直前まで知らせずに、この時まで隠しておられたのかもしれません。しかし、19節の「弟子たちはイエスが命じられたとおりにして、過越の食事の用意をした。」間に、ユダがその場所を当局に伝えることも出来なかったとは言い切れませんから、これは一つの想像力たくましい仮説に過ぎません。

[5] 21節欄外注参照。

[6] この時ユダがイエスと同じ水鉢で手を浸していた、という事ではありません。ヨハネの福音書では、詩篇四一9(私が信頼した親しい友が 私のパンを食べている者までが 私に向かって かかとを上げます。)を引用して、ユダの名指しを強調していますが、マタイ、マルコ、ルカはそれとは違う視点を持っています。

[7] ユダの裏切りは、イエスの最後の十二弟子の裏切りだ。イエスの監督責任、イエスの指導者としての限界をも表していよう。人として、私たちは他者を変えることは出来ない。イエスもそうではなかった。それでも、イエスはユダを愛し、ユダのつらさを嘆いてくださる。

[8] Ⅰコリント11章23~26節「私は主から受けたことを、あなたがたに伝えました。すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、24感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」25 食事の後、同じように杯を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」26ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。

[9]  ヨブ記3章(3節「私が生まれた日は滅び失せよ。「男の子が胎に宿った」と告げられたその夜も。(以下略))、エレミヤ書20章14~18節(「私の生まれた日は、のろわれよ。母が私を産んだその日は、祝福されるな。15のろわれよ。私の父に、『男の子が生まれた』と知らせて、大いに喜ばせた人は。16その人は、主があわれみもなく打ち倒す町々のようになれ。朝には彼に悲鳴を聞かせ、真昼には、ときの声を聞かせよ。17彼は、私が胎内にいるときにも私を殺さず、母を私の墓とせず、その胎を、永久に身ごもったままにしなかったからだ。18なぜ、私は労苦と悲しみにあうために胎を出たのか。私の一生は恥のうちに終わるのか。」)

[10] 27章3~5節、参照。

[11] 「いや、そうだ」の直訳は「あなたが言う」です。64節で「イエスは彼[大祭司]に言われた。「あなたが言ったとおりです。…」と同じです。聖書協会共同訳「イエスを裏切ろうとしていたユダが、「先生、まさか私のことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」」

[12] 端的な話、「ユダが裏切らなければ良かった」という事ではない。これは、神の定めなのだから。裏切るユダ、見捨てる弟子たち、後悔しても、罰して責めたりしても、過去を癒やすことは勿論、今後同じ過ちを繰り返さない保証はなく、別の形で裏切り、神の御心を損なうような人間。その私たちのために、イエスは来られた。その私たちだからこそ、神が恵みをもって贖ってくださる。

[13] ユダは自殺しました。しかし、自殺の罪を非難して、赦されると思えば良かった、と言えるでしょうか。私たちは、ここでユダを責めすぎると、自分自身が抜け出てくることが出来ないロジックに陥る。自殺も罪、告白する資格もない、赦されると思うのも調子が良すぎる…などとしたら、どうしたらいいのか。イエスは、このユダをも、弟子をも憐れんでくださっている。そこに、私たちは、常識や良心をこえた、神の希望を受け入れるしかない。それが出来るのが、キリストにある共同体、弟子たちの交わり。

[14] これは、マタイの福音書全体に繋がるテーマです。先の話になりますが、31~32節では「そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜わたしにつまずきます。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散らされる』と書いてあるからです。32しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」と、弟子たちのつまずきがはっきりと言及された上で、その先の再会が備えられていることが予告されます。マタイの福音書の結び、28章16~20節では、まさにその復活のイエスと、裏切った弟子たちがガリラヤで再会する場面です。イエスの下さる再会、回復、そして派遣です。

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