聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/11/7 マタイ伝26章1~16節「無駄だと思いますか」

2021-11-06 12:54:30 | マタイの福音書講解
2021/11/7 マタイ伝26章1~16節「無駄だと思いますか」

 マタイの福音書26章に入ります。いよいよ、十字架に至る最後の数日が描かれます[1]。

2「あなたがたも知っているとおり、二日たつと過越の祭りになります。そして、人の子は十字架につけられるために引き渡されます。」

 「過越の祭」は、二週間前にも聞きましたように、かつてイスラエルの民がエジプトで奴隷だった時に、主が彼らを救い出してくださったことを記念する祭りです。エジプトを出る前、イスラエルの家々で小羊を屠り、その血を家の門に塗りました。その小羊の血が塗られた家は、滅びを免れて、奴隷生活から自由の地への旅に出発しました。その過越の祭が二日後に迫っています。
 その過越祭において、イエスはご自分が十字架につけられると仰います。イエスが小羊となって、その血を流されて、私たちに罪の赦しと新しいいのちを下さる。その事がここで告げられ、17節から過越の祭が始まり、26節からの最後の晩餐の席では、特に28節で、多くの人の罪の赦しのために血が流されると言われる。そういう26章に入りました。

 ところが、3節では、祭司長や民の長老、当時のユダヤの権力者たちが集まっています。

4イエスをだまして捕らえ、殺そうと相談した。5彼らは、「祭りの間はやめておこう。民の間に騒ぎが起こるといけない」と話していた。

 彼らはイエスを脅したり、議論でやり込めたりして、引き下ろそうとしてきたのですが、それが悉く失敗で逆にやり込められたので、欺して捕らえて殺すしかないと考えた。でも、祭りの間は止めようと考えました[2]。イエスの予告とは違う考えを大祭司たちは決めていたのです。

 そんな時に起きた出来事が、ここに記されます。ひとりの女性の香油注ぎです。
6さて、イエスがベタニアで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられると、[3]
7ある女の人が、非常に高価な香油の入った小さな壺を持って、みもとにやって来た。そして、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。8弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「何のために、こんな無駄なことをするのか。この香油なら高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」[4]

 高価な香油を大切な人の頭に注ぐのは、当時の最大の歓迎や祝福の行為だったのでしょう[5]。それを見て「なんて無駄、勿体ない」と言う弟子たちに、この女性は困ってしまいます。[6]

10イエスはこれを知って彼らに言われた。
「なぜこの人を困らせるのですか。わたしに良いことをしてくれました。11貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいます。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではありません。
12この人はこの香油をわたしのからだに注いで、わたしを埋葬する備えをしてくれたのです。

 そうです、イエスは、後二日で十字架につけられるため、引き渡されると予告していました。既にあと一日ぐらいでしょう。まもなく一緒にいられなくなるのに、弟子たちはその深刻なイエスの言葉を受け止めた様子がありません。この一分一秒も貴重な時に、弟子たちはいつまでも一緒にいられるように吞気でいます。貧しい人の援助はそれはそれで本当に大事な事ですが、弟子たちはの貴重さが見えていません[7]。
 そんな時に、この女性がイエスの頭に香油を注ぎました。それをイエスは、「わたしのからだに香油を注いでくれた、それはわたしの埋葬のためにしてくれた」と受け止めました。なぜなら、本当にこの時、イエスは、あと二日足らずで十字架に引き渡されようとしている、過越の小羊になろうとしていたからです。[8]

13まことに、あなたがたに言います。世界中どこででも、この福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」

 彼女が「したこと」、このタイミングでの油注ぎが、引き渡され、十字架にかけられ、埋葬されるイエスの福音を裏付ける行為として、世界中で語り伝えられるのです[9]。そして、その根底にあるのは、神も神の子イエスも私たちを愛し、私たちを計算抜きに愛された、という計り知れない御心です。
 この香油を無駄とは思われなかったイエスは、私たちの罪を赦すための十字架の死も無駄とは思われませんでした[10]。人間を救うことに「得」はありません[11]。しかし、イエスは私たちのために人となり、私たちの罪の赦しのために十字架に死なれようとしていました。香油を注がれたその頭に「茨の冠」を被されて、香油よりも尊いご自身の血を私たちのために注がれ、香油の壺ではなく、ご自身を割ってくださいました。それは、イエスが惜しみない恵みの方だからです[12]。

 この「惜しみなさ」の出来事が、この後14節でイスカリオテのユダが祭司長たちに「私に何をくれますか」と取引して、イエスを銀貨三〇枚で売り渡すきっかけとなります[13]。でもこの出来事を「無駄」と言ったのはユダだけでなく、弟子たち全員です[14]。私たちにもある思いです[15]。イエスの愛にも救いの恵みにも鈍感なのです。しかし、そのユダの裏切りが却って議会の計画を前倒しさせて、イエスの言葉通り、過越の祭においてイエスが十字架にかかる。本当に過越の小羊となる、という展開になるのです[16]。本当に、神様のなさることは不思議です。

 そして今、世界中でこの出来事が語られています。それは、まさしくイエスが私たちのために過越の小羊となり、私たちのために血を流され、埋葬されたことを思い起こさせてくれます。それはイエスが私たちのための死を、無駄とは思われず、刻一刻と十字架に歩んでくださった証です。これは人の計算には受け入れがたいことですが、その神の惜しみなさに反発する人の悪意や裏切りさえ、神は不思議に益に変えてくださる方なのです。こういう福音です。そして、この惜しみない主は、私たちの献げる精一杯の献げ物をも、無駄や愚かとは思わず、喜ばれ、良いこととしてくださる、という証です。この福音が、全世界に告げられているのです。[17]



「主イエス様。あなたが十字架へと向かわれた最後の時間をともに読み始めました。弟子やユダの考えの及ばないあなたの深いご計画が、人々のため私たちのため、進んでいました。私たちの救いを無駄とは思わず、心から喜び、ご自身を献げてくださり、感謝します。今も、二度とは戻らぬこの時、あなたは私たちの贖いの御業を進めておられます。その事を信じて、私たちにその時その時の最善を献げさせてください。私たちの心も、愛によって満たしてください」

[1] 1節の「語り終えるテーレオー」は「目標を達成する」のニュアンスがあります。マタイの福音書のパターンでもある、長い説教の後に繰り返されるフレーズですが(7:28、11:1、13:53、等)、ここでは23~25章という最後の長い説教を果たされて、最後の十字架へと向かう、大事な言い回しです。

[2] エルサレムの人口は、過越の祭の時には、普段の五倍、二百万人にもなったと言います。

[3] ツァラアトは、聖書の中に度々登場する独特な皮膚病で、レビ記13章などに詳しく記される通り、民の汚れを象徴する病気でした。衛生的理由以上に、宗教的な意味を持ち、この病気になると、郊外に隔離されます。しかし、イエスは彼らを積極的に癒やされ、触れられて、その汚れをきよめて、神との和解と、人間社会の回復を始められました。まだ、そのような理解の浅い中で、イエスが「ツァラアトに冒された人シモンの家」に入られていた事自体が、驚くべき行動です。これは、先の25章31~46節の「羊とやぎの譬え」で、「病気をしたときに見舞い」と言われていた実践を、イエスご自身がなさっていたこととも言えましょう。

[4] マルコ14章3~9節、ヨハネ12章1~8節、参照。そこからは、これが「ナルドの香油」というインド産の香油で、「一リトラ」(約328グラム)の量があり、「売れば三百デナリにもなった」(約一年分の労賃)だということが分かります。また、この女性が「マルタとマリア」の姉妹のマリアであり、油を塗ったのが頭ではなくイエスの足にで、マリアの髪を使ったとも書かれています。

[5] 彼女がここでなぜこのような香油注ぎをしたのか、理由は書かれていません。弟子たちの批判に「困った」とあるのですから、確信をもって行動したのではないでしょう。弟子も、他のだれ一人も、イエスがキリストだとの確信などまだありません。「埋葬する備え」は、結果的にであり、イエスがそう仰ってくださったことであって、彼女の意図とは言われていません。ヨハネ12章では、香油注ぎをしたのは「マリア」だとあり、ルカ11章38-42節の「主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた」マリアと結びつけ、マリアはイエスの言葉に聞いていたので、十字架と埋葬を信じて、この行動を取ったのだ、と結論するのは憶測です。少なくとも、そのような事に言及していないマタイの記述では、行き過ぎた解釈となります。

[6] 「無駄アポーレイア」は「滅び」(7:13他)と訳されることが圧倒的に多い言葉です。単なる無駄以上に「台無し」とみたのです。

[7] 「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいます。」は、申命記15:11(貧しい人たちが国のうちから絶えることはないであろう。それゆえ私はあなたに命じる。「あなたの地にいるあなたの同胞で、困窮している人と貧しい人には、必ずあなたの手を開かなければならない。」)を踏まえています。しかし、弟子たちの言葉には「高くポリュス(=大きい)」があります。「大きい・偉い」は、弟子たちが陥りがちで、イエスが気づかせようとしてこられた、人間が陥りがちな過ちです。貧者・困窮者の救済を「慈善事業」「社会活動」と捕らえるなら、効率・統計・数量に囚われかねません。イエスがおっしゃるのは「最も小さいひとり」であり、その一人を「自分と同じように愛する」という、考えの根本的な刷新です。

[8] 「よい行い(施し)とイエスがおられる(弟子と、およびマタイの教会において「生けるキリスト」としての臨在)に為されることとの区別は、完全に的外れである。イエスは、貧しい人々への施しと、ご自身への惜しみない浪費とを、イエスがいつもそれを受けるためにそこにはいない事実に基づいて区別されたのである。教会におけるイエスの霊的臨在への言及とは無関係に、マタイはイエスの地上的な臨在と、昇天後の霊的な臨在を区別する(28:20)。その弟子たちは常に、助けを求める貧しい人々を見出す(民数記15:11)。彼らは、いつもともにいる受肉したイエスを見出すわけではない。」D. A. Carson, The Expositor’s Bible Commentary, Revised Edition, Matthew, Zondervan, 2010, 18181/20462

[9] この行為をした「女性」が覚えられるより、この人が「したこと」が、覚えられるのです。だからこそ、無名でもよいのです。私たちもここから、自分もイエスに(貧しい人たちによりも)すべてを献げましょう、という適用を引き出すよりも、イエスが私たちのために、引き渡され、十字架にかけられ、葬られたことを思いましょう。そのことが、私たちの生き方をも変えていくのです。

[10] 「よいことカロス」は「美しいこと」とも訳せます。

[11] これを、損得・理由で問いかけたのが、ヨブ記のサタンでした。ヨブ記1章、参照。

[12] だから、彼女の行為も無駄と思われず、イエスの最期の歩みに相応しい贈り物として受け取られたのです。それはこの女性のイエスへの愛から出たことです。この時点で、イエスの十字架やその意味がどれだけ分かっていたかは不明です。それでも自分に出来る事として献げたのは、彼女の愛です。「信仰とは、なりふりを構ってはいられないものであります。この婦人のように、はたの人の思惑などは、全然、問題にしないものである、と思います。信仰は、余り、熱狂的にならない方がいい、と分別くさいことを言う人があります。しかし、信仰は、ただ、神のことだけを考える生活です。それならば、時としては、人間の目には、愚かしいと思われることもあるにちがいありません。」竹森満佐一。加藤『マタイによる福音書4』、ヨルダン社、502頁。

[13] 銀貨三〇枚 1シェケルは四ドラクマ(四デナリ)。120日分の労賃。高価な香油と、銀貨三〇枚とが重なります。ユダから金の話を持ち出したと記すのは、マタイのみです。マルコ14:10「さて、十二人の一人であるイスカリオテのユダは、祭司長たちのところへ行った。イエスを引き渡すためであった。11彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすればイエスをうまく引き渡せるかと、その機をうかがっていた。」、ルカ22:3「ところで、十二人の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンが入った。4ユダは行って、祭司長たちや宮の守衛長たちと、どのようにしてイエスを彼らに引き渡すか相談した。5彼らは喜んで、ユダに金を与える約束をした。6ユダは承知し、群衆がいないときにイエスを彼らに引き渡そうと機会を狙っていた。」

[14] The disciples弟子たち全員が、この女に憤慨したのです。

[15] ここからタイトルをとられた、エリザベス・シュスラー・フィオレンツァ『彼女を記念して』(1983年、邦訳、山口里子訳、日本キリスト教団出版局、2003年)は、フェミニスト神学の代表作です。この意味でも、私たちは男性中心的な見方を覆されるテクストとしての本エピソードの解釈を忘れてはいけません。

[16] ユダの受け取った、年収三分の一の金額が、もっと多かったら良かった、というわけではないのと同様に、三〇〇デナリの香油がイエスに十分相応しかったわけでもない。イエスのいのちは、全世界をもっても釣り合わない、永遠の値があります。しかし、イエスは、私たちを、ご自分の死によって愛する価値があると見てくださいました。ですから大事なのは、私たちがイエスにふさわしい高価な犠牲を払うことにはありません。彼女のした行為が、イエスの埋葬を証しし、過越の引き渡しと結びついている、ということです。

[17] イエスこそ、私たちのために、血を流すことを「無駄」とは思わず、献げてくださった。それこそが「この福音」として世界が今聞いていること。

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