2019/2/3 出エジプト記20章1~17節「十のことば」はじめての教理問答76、77
先週まで、キリストとは「油注がれた者」という意味で、預言者・祭司・王の三つの役割を果たすお方だというお話しをしてきました。イエスは私たちの預言者・祭司・王です。今日からは、その私たちの預言者・祭司・王であるイエスが、私たちに与えてくださったたくさんの恵みの中でも「十戒」について教えられていきましょう。
問76 シナイ山において、神さまはいくつの戒めを与えましたか?
答 十の戒め、十戒を与えました。
この「十の戒め…十戒」が、先に見た、出エジプト記の20章にあった言葉です。十戒は、出エジプト記の時代にとっても、今の私たちにとっても、大事な贈り物です。神はこの十戒を二枚の石の板に書いたとあります。
以前は、この二枚の板には、十の戒めが二つに分けて書き記されていたのだろうと考えられていました。それが、20世紀になって考古学の発掘調査が進んで行く内に、この当時の社会では、大事な契約を交わすときに、同じ内容を書いたものを二つ作って、お互いに持つようにしていた、ということが分かりました。ですから、二枚の石の板も、十戒が半分ずつ書かれていたのではなく、同じ内容が書かれた二枚の板、両方とも十戒が刻まれた二枚の板、ということだと考えられるようになりました。つまり、それほど十戒は大事な文書、確実な契約だということです。
詳しくは次回から見ていきますが、十戒の内容はこの通りです。
わたしは、あなたをエジプトの地、
奴隷の家から導き出したあなたの神、主である
あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない
あなたは自分のために偶像を作ってはならない
あなたはあなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない
安息日を覚えてこれを聖なるものとせよ
あなたの父と母を敬え
殺してはならない
姦淫してはならない
盗んではならない
あなたの隣人に対して偽りの証言をしてはならない
あなたの隣人の家を欲しがってはならない。
この「十戒」は序文があります。一番の土台となる言葉です。それは、神が
「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である」
と言われた宣言です。十戒は、神がイスラエルの民をエジプトでの奴隷生活から救い出してくださったドラマの後に書かれています。決して、彼らが十戒を守ったから救ってくださったのではありません。神は今も私たちに、神の戒めを守るなら救ってやろう、と条件として命じるお方ではありません。まず、神の私たちに対する愛、私たちを奴隷のような生き方には留めておけない、解放してやりたい、という熱い思いが先にあるのです。十戒や神の戒めは、神の私たちに対する要求、条件ではなく、神が私たちを愛して、救ってくださった御業が先にあることを覚えましょう。私たちは、神の一方的な、先立つ恵みによって、既に、奴隷や孤独な行き場のないものではなく、神との切り離せないつながりを与えられたのです。私たちは神のもの、神の民、神の子ども。このアイデンティティから、十戒は語り出されているのです。
では、既に神の子どもとされているのだったら、どうして十戒なんて規則に従わなければならないの? 従わなくてもいいんじゃないの? 自由にされたのだから、自由でいてもいいんじゃないの? その通りですね。そして、面白い事に十戒は「自由の律法」とも呼ばれる事があるのです。自由をもたらす完全な律法なんだ。律法がないほうが自由なのではなく、律法は私たちに完全な自由をもたらしてくれるのです。十戒の助言で主は
「わたしはあなたがたを奴隷の家から導き出したあなたがたの神」
と言われていました。それはエジプトだけの話しではなく、どこでもすぐに私たちは
「奴隷の家」
人を不自由にし、差別や競争や支配のピラミッドを作りたがることを言っています。せっかく奴隷の家から救い出されたのに、また同じような、不自由で人を縛るような社会を作りやすい。だから、十戒が与えられました。神以外のものに縛られないようにと、殺したり姦淫したり盗んだり欲しがったりする生き方・考え方から自由にするための十戒なのです。私たちに染みついている不自由なルールから自由にするために、神は、十戒を与えてくれるのです。先の教理問答でも、こう言われていました。
問77 どうしてわたしたちは、十戒に従わなくてはいけないのですか?
答 神さまはわたしたちの造り主であり、救い主であり、王だからです。
十戒は、私たちの造り主、救い主、王なるお方の私たちに対する考えです。それは本来私たちにとって最も自然で、納得できて、幸せになり、喜ばしい指針であるはずです。それなのに、他のルールが染みついていて、「嘘を吐いて何が悪い、虐められなくて不自由だなぁ」などと思っているとしたら、それこそ惨めで囚われている状態です。依存症という病気がありますが、パチンコや麻薬やお酒やゲームが止められないのです。その時には「自由」といえば、生活や家庭を壊してでも自分のしたいことに注ぎ込むのが「自由」だと思い込んでいます。でも、そんなものをしなくてもいい。自分の人生のルールはギャンブルやゲームではないと思えるようになったら、本当に自由を味わえるのでしょう。本当に自由になるために、神は私たちに従うべき十戒を下さったのです。
十戒の
「…てはならない」
と訳される結びは、もっと単純に
「しない」
とも訳すのが素直な言い方です。
わたしは、あなたをエジプトの地、
奴隷の家から導き出したあなたの神、主である
あなたには、わたし以外に、ほかの神はない
あなたは自分のために偶像を作らない
あなたはあなたの神、主の名をみだりに口にしない
安息日を覚えてこれを聖なるものとする
あなたの父と母を敬う
殺さない
姦淫しない
盗まない
あなたの隣人に対して偽りの証言をしない
あなたの隣人の家を欲しがらない
「他の神があっちゃだめだ」「父と母を敬いなさい!」「隣人の家を欲しがるなぁ!」ではなく、「わたしはあなたがたを奴隷の家から導き出したあなたの神、主だ。あなたには他の神はない。偶像を作らない。…父と母を敬う。殺さない。姦淫しない。盗まない。隣人の家を欲しがらない」。もうそういう生き方が始まっている。そういう生き方の中に入れられているのです。素晴らしいと思いませんか。
先に依存症の話しをしました。依存症もいくら「麻薬やギャンブルはしてはダメだ、やめなさい」としつこく言っても治りません。罰したり脅したり、罪悪感や恥意識を持たせても、かえって治癒には逆効果なのです。ますます「自分はダメだなぁ。そんなダメな自分に、一瞬でも安心やワクワクをくれることのほうがいいんだ」と走ってしまうのです。それよりも、その人と関わる。自分を愛してくれる人がいる。決して見捨てず、応援してくれる仲間がいる。そうして、依存症からの回復が始まるのだそうです。
十戒もそうです。神は律法を命じる以前に、先にイスラエルの民を奴隷生活から救い出してくれました。神の民の交わりに入れて下さいました。そして、自由をもたらす律法をくれました。それでも人は律法を蔑ろにしました。律法に生きようとしても、自分の罪を痛感するしかありませんでした。そこで神がして下さったのは、神の子イエス・キリストが人となって来て、十字架に死んで、三日目によみがえる事でした。イエスは私たちを神の子どもとして、神を天の父と親しく呼ぶ関係をくださり、教会の交わりに入れてくださいました。あなたがたに他に神はない。あなたがたは互いに愛し合う。そう言ってくださっています。そのために律法は素晴らしい手がかりになのです。