2016/12/18 ルカ二1-7「救い主の誕生」アドヴェント
今週と来週は、ハイデルベルク信仰問答から離れて、クリスマスのメッセージをします。やはりクリスマスは嬉しい時、心が躍る時です。ですから、その喜びをもっと喜ばしく、素晴らしいものとしていただくような夕拝、クリスマスの羊飼いたちが夜にイエス様を拝みに行ったあの礼拝と同じような夕拝にしていただけたらと願います。
クリスマスはイエスのお生まれになったことを記念する日です。神の子イエスが、人間を救うために、この世に来られ、マリヤからお生まれになった。それは本当に素晴らしい時です。特にキリスト者にとっては、特別な日として、教会が増え広がるに従って、クリスマスのお祝いも徐々に定着するようになり、世界に広がっていきました。そして、キリスト教信仰が今ではだいぶ衰えて、世俗化した欧米でも、プレゼントをしたりパーティをしたり楽しく過ごす特別な日として、ますます華やかに祝われています。
最初のクリスマスは、そのような華やかなものではありませんでした。今読んだルカの福音書の二章には、イエスがお生まれになった時の事が書かれています。それは、どんな歓迎をされたでしょうか? 救い主や王のお生まれに相応しく、大宴会や横断幕で迎えられたでしょうか。後に世界で祝われるような誕生を少しでも匂わせるものだったでしょうか。いいえ、聖書には、イエスの誕生が短くこう書かれるだけです。
6ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、
7男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
いる場所がなかったため、家畜の餌を入れる飼葉桶がイエスのベビーベッドになりました。讃美歌に
「黄金の揺り籠、錦の産着ぞ、君にふさわしきを」(107番)
というのがあります。イエスをお迎えするなら純金製の揺り籠や、錦織のベビー服こそふさわしいのに、現実は、お迎えする場所さえなく、布にくるまれて飼葉桶に寝かされただけだった。なんという貧しさでしょう、という讃美歌ですね。
クリスマスと言えば、暖かい部屋で、明るいツリーや飾り物をちりばめて、赤や金やLEDの電飾に負けない最高のおめかしをしたロマンチックな雰囲気を憧れるものかもしれません。しかし、一方で、最初のクリスマスは、それとは正反対だったことも衝撃的な事実です。華やかで、最高にお金をかけたクリスマスパーティをするとしたら、そこに最も呼びたくないのが、貧しいヨセフとマリヤであり、冷たく臭く汚い飼葉桶に寝かされた弱々しい赤ん坊のイエスであるとは、なんという皮肉かと思います。しかし、実際にイエスがこの世にお生まれになった時、人々はその家族に
「いる場所」
を与えませんでした。もちろん、それがイエスのお誕生だと知っていたら、喜んで居場所を差し出しましたよ、という人もいるでしょう。「私なら、自分の家にお迎えして、暖かいお部屋と精一杯のご馳走を出しましたよ」と言いたくなる人もいるでしょう。でも、イエスの母のマリヤも、ヨセフもそんなことを振りかざして特別扱いをしてもらおうとはしませんでした。
自分たちは、救い主の家族だぞ、と偉そうにはしませんでした。皇帝アウグストの住民登録の勅令が出された時も、黙って従いますね。そして、マリヤを連れて行く義務はなかったのに、ヨセフは身重のマリヤをわざわざ連れて、ベツレヘムまでの120kmの旅路を何日もかけて旅しました。いる場所を与えられなくても、彼らは文句を言わず、イエスを産みました。生まれてこられたイエスも、こんな冷たい迎え方に腹を立ててお帰りになったりせず、布にくるまれたまま、飼葉桶に寝かされました。暗くひっそりとしたベツレヘムの片隅に、イエスは静かにお生まれになりました。汚く、誰もが目を背け、忘れてしまう所に、イエスは救い主としてお生まれになりました。世界の最も暗く、低く、冷たい所に来られた救い主がイエスでした。誰もが華やかなパーティに憧れるような世界で、実はそこにある、貧しく、惨めで、嫌な暗やみに触れ、傷を癒やし、悲しみを慰め、悩みを受け止め、孤独に伴って下さるお方として、イエスはおいでになりました。クリスマスは、だから素晴らしいのです。
ヨハネ一9すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
10この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
11この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。■
12しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
13この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
救い主が来て下さったのに、それを受け入れなかったのがこの世界の現実でした。そして今も同じです。華やかで楽しいクリスマスは好きで、最初のクリスマスが、貧しく冷たく淋しく、人間がどれほどつれなかったかは考えないでいたいのです。最初のクリスマスもロマンチックだったに違いないと思いたいのです。自分たちに救い主が必要だとは考えたくなくて、救い主も救いたくなるような良い自分だと思いたいのが私たちです。けれども、私たちがこの方こそ、私の救い主だと受け入れるなら、この方は私たちを神の子にしてくださいます。神の子となる特権を与えて下さいます。そのために私たちは何をしなければならないでしょうか。何か自慢出来るものがなければいけないでしょうか。汚い心ではダメでしょうか。冷たい心ではダメなのでしょうか。いいえ、そうでないのは分かりますね。そういう心のためにこそ、イエスはおいでくださったのです。私たちはそのイエスをただ
「受け入れること」
その名を信じることだけが求められます。その時、イエスは私たちの心に来られて、私たちを住まいとしてくださいます。そして、この世界の真っ只中で、闇を光に変えるわざを、私たちから始めてくださいます。イエスは決して、信じようとしない大勢の人を、圧倒するようなことをしてその心を勝ち取ろうとはなさいません。そうではなく、私と出会い、私を慰め、私を満たしてくださいます。ひとりひとりの心に来て、光を灯してくださいます。そうして、一人一人が変わることを通して、世界を少しずつ変えられます。このイエスは、本当に私の所に来て下さいました。私はこの恵みを心から感謝して、皆さんと分かち合いたいと思います。