聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

マタイ二1-12「幼子を拝みに」クリスマス夕拝説教

2016-12-25 17:30:03 | クリスマス

2016/12/25 マタイ二1-12「幼子を拝みに」クリスマス夕拝説教

 クリスマスの最初の礼拝は、イエスがお生まれになった夜に、羊飼いたちを礼拝者として招いて飼葉桶の回りに集まったものでした。今日の博士たちの礼拝は、もっと後です。彼らはユダヤ人の王としてお生まれになった方の星を見たので、拝みに来たと言いました。その星が登場したのが、イエスがお生まれになった晩だとしたら、そこから旅を思い立ち、旅支度をして、ずっと後にここに着いたのです。それでも、彼らを最後に導いたのは再び現れた星でした。この博士たちの礼拝もまた、夜の夕拝であったのです。

 しかし、この

「東方の博士たち」

は一体どこから来たのでしょうか。一般的には、ペルシャ(パルティア)からだと考えられているようです。そうだとしたら、この旅には何ヶ月もかかったはずです。イエスを拝むためだけに、彼らは遠い道のりを何ヶ月にもわたって旅してきました。治安も悪く、身の危険もあったでしょう。家の生活も後にして、仕事も他の人に任せてきたのです。留守の間にどんな変化があるかも知れません。仕事を取られて、帰ってきたらポストを失っていることもあり得ます。勿論、旅の費用も膨大です。時間もお金も、立場も危険に晒せて、彼らはイエスを拝みに来たのです。

 この事は彼らの礼拝の熱心さや信仰心の篤さを物語るだけではありません。まさに、お生まれになったイエスは、そのような礼拝を受けるに相応しい、ユダヤ人の王。大いなる支配者でした。博士たちがキリストを礼拝するためにエルサレムに登場したことは、それ自体が、お生まれになったお方がどれほど素晴らしい、拝むべきお方であるかを物語っていました。また、彼らは旧約聖書に記された神の約束の素晴らしさをも思い出させてくれます。神は、やがて王となるお方が来られるだけでなく、その方が、ユダヤだけでなく、全世界を支配されると予告しておられました。戦いを止めさせ、平和をもたらし、豊かな世界をもたらしてくださることが語られていました。この博士たちは、その事を知っていたのでしょう。ユダヤ人の王としてお生まれになったというのに、ユダヤ人ではない自分たちのことのように喜んで、礼拝にやってきたのです。それは、そのユダヤ人の王が、ユダヤ人だけでなく、全ての民族を治めて下さる、素晴らしい王様だと知っていたからに違いありません。そして、そういう博士たちの姿そのものが、ユダヤ人にとって、神様の素晴らしい約束を思い出させるメッセージであったはずでした。

 しかし、ここで私たちの目に付くのは、その博士たちを見ても、ヘロデ王が恐れ、戸惑い、エルサレム中の人も同じように反応した、という抵抗ですね。博士たちが遠くからやってきて、惜しみない礼拝をした、そこに感じられるストレートな明るい喜びとは対照的です。何とも後ろ暗い…。あれこれ心配し、自分を守ろうとし、心の中で計算をしている…。そんなダークな雰囲気が強く感じられてなりませんね。ヘロデ王は、歴史上、非常に権力欲が強く、また猜疑心の強かった王として知られています。ですから彼は自分の身が危うくなることを恐れます。そして、こっそり博士たちに、居場所を教えてくれるよう頼んで、後から命を奪うつもりでいました。そして、博士たちが黙って帰ったことを知ると、この近郊の二歳以下の男の子を皆殺しにしてしまいます。ひどい話です。しかし、ヘロデだけではありません。民の祭司長や学者たちは、イエスがどこで生まれるのかを答えるだけで、自分では拝みに行こうともしませんし、口をつぐむばかりです。そして、エルサレム中の人々も誰一人、博士たちとともにベツレヘムに行こうとはしなかったようです。この冷たさ、恐ろしいばかりの沈黙が、不気味にエルサレムを支配しています。素晴らしい王がお生まれになったというのに、それを受け入れず、喜べない。恐れたり、あれこれ計算したり、黙って時間が過ぎるのを待っている…。それもまた、このマタイ二章が浮き彫りにする私たちの現実です。

 そういう冷たい現実を、しかし恐れてはいけません。そこに星が光るのです。

彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。

10その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。

 博士たちは意気消沈していたかも知れません。でも、ここでまたあの星が再登場します。明らかに、その星は博士たちを導いて、幼子の所まで連れて行ってくれるために現れたのです。その星を見た時、彼らは「この上もなく喜んだ」。最大級の喜びがわき起こりました。そして、彼らはどうしたのでしょうか。

11そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。

 願いを叶えてもらうため、ではありません。魔法の道具や宝物を戴いた、という冒険ではなかった。彼らは、幼子を見て、ひれ伏して拝んで、自分たちが持ってきた宝物を贈り物として献げて、そして、それだけで帰って行ったのです。この幼子は、彼らに直接何か御利益をくれたわけではありません。彼らが拝んだのはサンタクロースではありませんし、怒らせると怖いヘロデ王でもありません。大きくなってユダヤ人の王となり、世界に平和をもたらすのも、まだまだ先で、その頃彼らが生きているかどうかさえ定かではありません。でも、彼らはそれでもこのお方にお目にかかっただけで十分でした。

 この関係は、私たちが神を礼拝する最も基本的な関係を表しています。神は私たちにも、イエス・キリストを通して、神を礼拝する心を下さっているのです。博士たちがどれほど遠い国から来たのだとしても、この宇宙を作られた神が、この世界に来られた距離は、それとは比べものにならないほどです。その距離を超えて、イエスは私たちのところに来て下さいました。私たちを神の民として治めてくださるためにです。そして、その関係は何よりもまず、御利益とか自分の立場を失ったらどうしようという不安とか、嘘をついてでも自分を守りたいという思いそのものから救い出してくれます。その反対に、いろいろ失うとしても、少人数であるとしても、疲れたような時にも、神が星や人や様々なものを遣わして、喜びを与えてくださる生き方です。この神が、私を不思議にも治め、確かに導いて、やがて完全な平和を世界にもたらしてくださると信じる。

 そのために、まず私たち自身に、平和を愛する心を、この上ない喜びを、自分を献げる思いをイエスが下さる。完璧で、純粋なそんな思いになれというのではなく、この博士たちの姿は、私たちの人生もそのような旅の途中であるのだと、励ましてくれるのです。

 

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ルカ2章8~22節「羊飼いたちの礼拝」燭火礼拝説教

2016-12-25 17:19:10 | クリスマス

2016/12/24 ルカ2章8~22節「羊飼いたちの礼拝」燭火礼拝説教

 クリスマスはイエス・キリストのお誕生をお祝いするお祭りです。世界の教会でも、イエス・キリストを知らない人たちの間でも、楽しく祝われるお祭りです。イエス・キリストを知らない人の間でさえ、とは素晴らしいことです。私はそれが「本当のクリスマスではない」とは思わないようになりました。神が全ての人に喜びを与えてくださること、クリスマスは何となく嬉しく幸せな気分になれると思わせてくださること。そうして、クリスマスが心の中の暖かい思い出になって振り返ることが出来るようにしてくださること。そういう幸せな思い出がある人生にされる事自体が、クリスマスに現された神の愛を物語っているに違いありません。

 イエス・キリストがお生まれになった時、その知らせを最初に伝えられたのは、羊飼いたちであったと今読んだルカの福音書には記されていました。キリストのお生まれが真っ先に知らされたのは、当時の神殿(今で言う教会)に礼拝に来ていた人々やそこで仕えている祭司(今で言う牧師)ではありませんでした。王さまや政治家、偉い人たちでもありませんでした。金持ちやセレブ、人生の成功者でもありません。暖かい家で、和やかにのんびりと過ごす家庭でもありませんでした。イエスがお生まれになった場所の回りにいた、ラッキーな人たちにでもあません。今年一番頑張った人でも、ベツレヘムで一番よい子だった子どもにでもありません。この夜も、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた、羊飼いたちにでした。

 そして、主の使いは、羊飼いたちに現れて、こう言うのです。

10…「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。

11きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

12あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」

 この民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来た。その代表として真っ先に選ばれたのが、羊飼いたちでした。一番強い人でも、一番頑張った人、最優秀信仰者、そういった相応しそうな人ではなく、最も思いつかなそうな、お仕事中の羊飼いたちであったこと。でも、だからこそ、私たちはイエス・キリストが救い主としてお生まれになったという喜びの知らせが、自分たちのためでもあると信じさせていただけるのですね。

 神は、住民登録にも数えられない貧しい羊飼いたちに、喜びを知らせ、また彼らをその喜びを伝える人材としてお選びになりました。暗い夜、ひっそりと羊の番をしていた彼らに目を留めてくださいました。これは、本当に不思議なこと、本当に恐れ多い、驚くべき神のわざです。それは、クリスマスだけではありません。今に至るまで、常に、神は人間の考えとは逆のことをなさいます。神は、立派な人や成功者、勝ち組のそばにではなく、追いやられ、忘れられている人の所においでになります。暗い夜、報いの少ない、休む事も出来ない仕事を続けている人にこそ、神は喜びの知らせを告げて下さいます。それが神です。この神こそ、世界をお造りになった神です。決して、私たちが考える幸せの基準とは別に、神の下さるもう一つの幸せの世界がある、というのではないのです。この神の憐れみこそが、本当の幸せです。人間がよく思いがちな、成功と失敗、幸せな人と不幸な人、自分は幸せでよかった、あの人のようでなくて良かった、という考え方はいつか完全に間違っていたとバレるに違いありません。

 羊飼いたちは、羊飼いであるままでキリストに会いに行き、喜びに満たされ、そして

「神を賛美しながら帰って行った」

と閉じられます。彼らは帰っていって、それからも羊飼いを続けたのでしょうね。キリストは、羊飼いを大金持ちにしたり王様にしてくれたのではなく、羊飼いのままで喜びに満たしてくださいました。私たちがキリストをお迎えする時も、別人に変わるわけではありません。人は幸せになるために、あれがあればこれが変われば、と環境のせいにします。お金があれば、健康になれたら、もっとやりがいがある環境なら。そうでない今の真っ暗な環境なら、幸せになんかなれない。そう思います。しかし、そういう所にキリストが来て下さったというのがクリスマスです。どんな所にもキリストが来て下さる。キリストが私のために生まれて下さったとは、どんな環境ももたらせない、本当の喜びなのです。

 お生まれは、すべての人に告げられています。病気の人、家族が死にかけている人、大きな間違いを犯した人、取り返しのつかない失敗をした人、孤独な人、裏切り者、死刑囚、親の財産を使い込んでしまった放蕩息子、聖書にはそんな人たちのそばに立たれるキリストのエピソードで満ちています。私は決して「いいお話し」をしたいわけではありません。私は本気で「神はどんな人をも慰め、喜びに満たしてくださる」と信じているのです。それこそ、この神が世界をお造りになった時に、この世界にコッソリと忍ばされた秘密だと信じているのです。それは、私たちの狭い了見や比べたり競争したりする考えはいずれ必ず化けの皮がはがれ、神の慰めと喜びが世界を満たす日がいつか来る。思いもかけない、でも本当に素晴らしい形で、神の喜びを聞かされ、神に栄光あれと心から叫ぶ日が始まると、私は本気で信じています。

 

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マタイ二章1~12節「幼子を拝んだ」

2016-12-25 17:12:51 | クリスマス

2016/12/25 マタイ二章1~12節「幼子を拝んだ」

 クリスマス、おめでとうございます。私たちのために救い主がお生まれになりました。その素晴らしい出来事を伝えるために、当時のエルサレムに現れたのが、遠く東の国からやって来ました博士たちでした。神は常に意外なこと、人間の常識や私たちの予想を超えたことをなさるお方ですが、このクリスマスの出来事も、それを知らせた役者たちも全く意外なものでした。

1.東方の博士たち

 ここに出てくる

「東方の博士たち」

がどこから来た誰なのか、詳しいことは分かりません。古くは「賢者」とか「王」と表現され、新共同訳聖書では「占星術師」と訳されるように「星占い」「魔術師」という意味もある言葉です。身分の高い人で、学識も豊かな人でしょう。東方が、パルティア国[1]のことを指すとも考えられますが、パルティアは広すぎて、そのどこから来たのかも分かりません。そもそも、「博士たち」と言えば三人と思い込んでいますが、聖書のどこにも三人とは書かれていません。もっと大人数だったという言い伝えもありますし、身分の高い人には大勢の従者が付き従っていたはずだ、と言う人もおられます。

 いずれにしても、この謎だらけの博士たちがエルサレムに現れたのは衝撃的な出来事だったことは想像できます。どこから来たにせよ、東方の遠くから、何ヶ月も旅をしてきたのでしょう。色々な犠牲もあったでしょうに、それでも彼らはここまでやって来て、言うのです。

マタイ二2「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」

 博士たちはどんな星を見たのでしょうか。また、それが「ユダヤ人の王」の星だとか、その方がお生まれになったしるしだとはどうして確信できたのでしょう[2]。様々な不可解は尚更、彼らがその「ユダヤ人の王」を拝むためだけに、東方からの長い旅をしてきた不思議を引き立てます。それだけでも、エルサレムに住む人々には強烈なインパクトだったでしょう。しかし、

 3それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。

 当時「王」と呼ばれていたヘロデ大王は

「ユダヤ人の王」

という言葉に敏感に反応しました。自分の立場が危ないと思ったのです。また東方の博士たちの期待や礼拝に、妬みや劣等感も覚えたのかもしれません。そしてヘロデ王は早速、博士たちに協力する形を取りながら、その王の抹殺を画策します。ユダヤ人の王の生まれる場所を学者たちに尋ね、秘かに星を見た時間を聞き出します。そうして、博士たちを送り出しつつ、自分にその場所を教えてくれるよう頼みます。それは、後に明らかになるように、見つけたら拝むためどころか殺すためでした。しかし、こんな狂った王ヘロデの支配下にいたエルサレム中の人々も、王と同様に

「恐れ惑った」

というのですね。ユダヤ人の王、素晴らしい王様の到来に喜んだのではなかったのです。

2.一番小さく

 エルサレムの人々の思いを、マタイは

「王と同様であった」

と記します。生まれる町がベツレヘムだと回答することが出来た宗教家たちも「では自分たちも行きましょう」とは言わず仕舞いでした[3]。なぜでしょうか。その答は、彼ら自身の答の中に感じ取れるかも知れません。

 6『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」

 ベツレヘムの町は、わざわざ

「決して一番小さくはない」

と言われるように、小さな、取るに足りない村でした。そのような小さな村が、キリストの出身地となる、というのです。これはこの時だけではありません[4]。この先にも、イエスがいつも低くなり、小さい者を大切になさり、

「最も小さい者のひとり」

を大事にされることが、マタイの福音書には繰り返して書かれているのですね。五章から七章の、有名な「山上の説教」の始まりも、

「心の貧しい者は幸いです。天の御国は彼らのものだから。」

という言葉です。心の貧しい者、小さい者、田舎者、余所者…そういう者の所に、ユダヤ人の王であるキリストはおいでになります。エルサレムや王の宮殿、豊かで綺麗で華やかな場所ではありません。低い者、顧みられない所、貧しく、悲しみや痛みの覆っている場所に、キリストはおいでになって、そこに天の御国を始めてくださるのです。

 もしキリストが、軍馬か天馬にでも跨がってヘロデを打ちのめす、そういう颯爽としたヒーローのような現れ方をする、というなら、人々はもっと単純な反応をしたかもしれません。でも、そうではありませんでした。キリストは、小さく卑しくなられました。その礼拝をしに来たのも、神の民の正統な代表者ではなく、異邦人の怪しい博士たちです。だから彼らは戸惑ったのでしょう。キリストの誕生は、喜びより恐れや戸惑いを引き起こしました。既成の人間社会の根底を揺るがせるような出来事でした。私たちが思い描く幸せとか豊かさをひっくり返す革命的な登場でした。この予想外の神の低さ、革命的な無力な登場に人は戸惑い抵抗します。しかし、その抵抗や目論見の後に、神はひょっと希望を輝かせて待ち構えて下さるのですね。

 9彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。

3.幼子を見、ひれ伏して拝んだ

 エルサレムから出て来た博士たちを、再び現れた東方で見た星が、幼子の所まで導いてくれました[5]。思いもかけない導きがありました。神の御支配が、意外な形で確かにありました。

10その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。

11そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。

 ひれ伏し拝んで、尊い宝物を献げて、翌日には帰って行きました。神がすべてを導かれて、私たちを祝福してくださるとは、私たちの願いや憧れが何でも不思議に叶えられる、という意味ではありません。博士たちは、願いごとをしたり、魔法の道具を戴いたりするために来たのではないのです。将来の王がお生まれになった。やがて全て低い者、悲しむ者、罪人を治めてくださる。なんと有り難いことか。しかも、都エルサレムではなく、最も小さいと言いたくなるようなベツレヘムの片隅でおられた。そのお姿にますます有り難がって、衣が汚れるのも厭わずにひれ伏して、拝んだ。その一途な姿に、礼拝の原点というものを見る気がするのです[6]

 イエス・キリストは王としてお生まれになりました。でも、まだヘロデや人間的な歪んだ力のほうが強いように見える現実があります。私たち自身、豊かさや安全に憧れます。悲しみや障害、面倒や失敗は避けたり隠したり、遠ざけたがります。そうした予定外のものがあると、神なんか何だ、クリスマスなんて気分じゃないとふて腐れるのです。クリスマスが示すのは、そのような問題がある世界にこそ、イエスは来られ、働かれ、恵みで治めたもう、という約束です。私が自分で自分の心を治めきれず、愛やあわれみから離れた思いに囚われていようとも、本当の王であるキリストは弱い姿をとってそこにおられます。小さな星を輝かせたり、この上ない喜びに踊る心を下さいます。今はまだ、恵みの神ならぬものに囚われている私たちも、このイエスこそ王であることに希望を持てます。なぜならイエスこそ、王であって、私たちを恵みによって治めてくださる方だからです。この方以外の何者も、世界や私たちを支配してはいません。この幼子イエスが今私たちを治め、この方の恵みがすべての人間の営みを新しくするのです。クリスマスはそのような約束です。そのような不思議を本気で信じるのが私たちです。なぜなら、博士たちが持ってきたのは、まさにそんな信じがたい話だったのですから。[7]

「小さな町にお生まれになった主よ。あなたのなさることは本当に意外です。私たちの人生もあなた様は意外な形で導かれ、人の浅はかな思いを覆し、更に力強い喜びへと招き入れてくださいます。御降誕を祝いつつ、恐れ惑わず、あなた様の御支配を心から受け入れさせてください。イエスの深い憐れみが全てを新しくする日を待ち望み、あなた様の証しをさせてください」

ブリューゲル「東方の博士たち」
 

[1] 広辞苑より「パルティア【Parthia】 (1)古代西アジアの王国。イラン系遊牧民の族長アルサケスが、前3世紀中葉セレウコス朝の衰微に乗じて、カスピ海の南東岸地方に拠って独立。226年(一説に224年)ササン朝に滅ぼされた。中国の史書では、安息国と記す。アルサケス朝。パルチア。(前238頃~後226) (2)前1世紀~後1世紀頃、現在のアフガニスタン南部・東部、パキスタンを支配していた王朝。」

[2] ここには、旧約時代の最後に「バビロン捕囚」によりイスラエルの民がバビロンに連れて行かれ、逆にユダヤ人としてのアイデンティティを確立し、聖書(旧約聖書)正典の編纂と教育を行うようになった歴史が絡んでいるのでしょう。バビロニア帝国が、ペルシャ帝国に駆逐されて、捕囚の民の一部が帰還した後も、大半は東方に住み続けました。聖書のタルムードも「バビロニヤ・タルムード」が成立するぐらい、ユダヤ教の中核的研究が続くのです。こうした影響で、東方の博士たちが、<ユダヤ人の王であり世界の平和の主がやがておいでになる>との預言に触れていたことは十分考えられますし、最も筋の通った説明として想定できます。

[3] 明らかにこの態度は、次に彼らが登場する三7、五20(「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。」)、九3、そしてそれ以降、裁判や十字架へと至っていく伏線を予感させています。

[4] 例えば、この二章の最後に出てくるのも、キリストがガリラヤのナザレという田舎で過ごされたことであり、23節では彼が「ナザレ人」と呼ばれることも聖書の預言の成就だと言われています。ナザレ人という言葉が出てくる、というよりも、田舎者として馬鹿にされ蔑まれるという事でしょう。

[5] この記述からすると、東方で見た星は、この時点で再び現れて、彼らを照らしたというつながりです。旅の間中ずっと彼らを導いてエルサレムにまで来たわけではありません。同時に、その星は、東方で見た星と同じ星だと同定できる特徴がありましたし、最後のこの9節では彼らを導いてくれたのです。これが、ベツレヘムの方向で、彼らが教えられたベツレヘムまで旅をする間、ずっと先にあったのか、あるいは、ベツレヘムへの情報がなくとも星が彼らを不思議にも先導したのか、は定かではありません。しかし、マタイはここで、星が先導した、という表現をしています。

[6] 新共同訳聖書は「占星術の学者たち」と訳しています。「占い師」という意味にはキリスト教信仰からすると抵抗も感じますが、占い師や異教徒よりも自分たちの方が正しいと思い上がっている神の民が、意外な人から本当に大切な信仰の姿を教えられて、ガツンとやられる、というのも聖書には頻出するモチーフです。

[7] ボンヘファー「これらのことはすべて、ひとつの「言い回し」の問題なのであろうか。美しい、敬虔な言い伝えの牧歌的な誇張なのであろうか。-そうではない。これを単なる言い回しとしてしか理解しようとしない人は、わざとそうしているのであって、その人は、ほんとうは、アドベントを今までと同じように、異教的に、自分は決してアドベントの出来事に参与せずに、祝いたいだけなのである。われわれにとって、これは、決して言い回しの問題ではありえない。なぜなら、すべてのものの主であり、創造主である神御自身が、ここで、小さな者となったのであり、この世のみすぼらしさの中に歩んで来たのであり、われわれのうちで無力な幼子となったのだからである。そしてさらに、これらすべてのことが、われわれを美しい物語で感動させるために起こったのではなく、<神が人間的な高みにあるすべてのものを撃ち砕き、その価値を無にし、低いところに神の新しい世界を造ろうとしている>ということをわれわれに気づかせ、そのことにわれわれが驚き、われわれが喜ぶようになるために起こったのだからである。」(『主のよき力に守られて』、625ページ)

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