聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問44「最も激しい試みの時にも」詩篇一三九1-12

2016-12-12 16:09:08 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2016/12/11 ハイデルベルグ信仰問答44「最も激しい試みの時にも」詩篇一三九1-12

 

 イエスのお誕生を祝う、嬉しく明るいクリスマスには、暗く悲しい十字架の死をお話しすることは不釣り合いなのでしょうか。いいえ、少し前、夕拝で先にイエスの誕生についてお話ししたように、神である主イエスが人としてお生まれになった事自体、限りない謙りでした。イエスがこの世に降られたのは、十字架の死という恥辱にまで降るためでした。そして「使徒信条」では「死にて葬られ、陰府に降り」と言うのです。

問44 なぜ「陰府にくだり」と続くのですか。

答 それは、わたしが最も激しい試みの時にもこのように確信するためです。すなわち、わたしの主キリストは、十字架上とそこに至るまで御自身の魂に受けてこられた言い難い不安と苦痛と恐れとによって、地獄のような不安と痛みからわたしを救い出してくださったのだ、と。

 この「陰府」とは英語では「hell」という言葉ですが、「ヘル」だと「地獄」という意味もありますね。地獄とは、聖書の原語では

「ゲヘナ」

と言います。それは、神様が世界の歴史の最後にすべてを裁かれた時、神に逆らう人々を追いやる「永遠の滅び」の場所です。いつまでも燃える火で表現されるような、完全に神様から捨てられた、永遠の状態です。けれども、hellにはもう一つの意味があります。それが「よみ」です。こちらは「ゲヘナ」ではなく、ギリシャ語で

「ハデス」

ヘブル語で

「シェオル」

と言います。それは、死んだ後、すぐに人の魂が行って、復活の日までを過ごす、一時的な状態です。それは、永遠の苦しみの地獄(ゲヘナ)とは違います。「死者の国」とも違います。そこは、いわば終わりの日までの待合所です。永遠でもなければ、火や苦しみとも結びつけられていません。まずこの言葉を整理しておきましょう。

 主は

「陰府に降り」

ました。「地獄に行かれた」のではありません。イエスが地獄に行かれたと考えてしまうと大違いになります。死者の国に行ったと考えても、可笑しくなってしまいます。今日のハイデルベルグ信仰問答は、そういう誤解がないように、本当に死に至るまでの苦しみを味わわれたのだ、ということに集中するような解説をしてくれていますね。「陰府に降られたとはどういうことだろう?」とあれこれ想像を逞しくするよりも、本当に死んでくださって、死の後の人間の魂が陰府に行くように、キリストも徹底して人間として死んでくださったのです、ということに絞っています。

 …それは、わたしが最も激しい試みの時にもこのように確信するためです。すなわち、わたしの主キリストは、十字架上とそこに至るまで御自身の魂に受けてこられた言い難い不安と苦痛と恐れとによって、地獄のような不安と痛みからわたしを救い出してくださったのだ、と。

 陰府とはどこか、どんな場所か、という詮索をしなくて良いのです。むしろ、イエスの御生涯で

「言い難い不安と苦痛と恐れと」

を受けて下さったのです。それは

「地獄のような不安と痛みから私を救い出してくださった」

御生涯でした。だから、私たちが

「最も激しい試みの時にも」

確信をもって、慰めを戴いて、歩むことが出来るのです。そして、死においても、イエスが先立って死んでくださったのだからと、私たちは魂をイエスにお委ねすることが出来るのです。そう考えると「陰府にくだり」という言葉がとても親しく、すばらしく、私の心に響いてくるようになります。

 今日の詩篇一三八篇にはこんな言葉がありましたね。

たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。…

11たとい私が「おお、やみよ。私をおおえ。私の回りの光よ。夜となれ」と言っても、

12あなたにとっては、やみも暗くなく夜は昼のように明るいのです。暗やみも光も同じことです。

 私が天に昇っても陰府に降っても、どちらにも神は私とともにおられる、というのです。私たちは、もうすっかり生きていくのが嫌になったりやけくそになったりして「闇よ、私を覆え」と叫ぶ時があるかもしれません。でも、そこでも神は私とともにいてくださいます。

 イエスの御生涯で有名な言葉の一つは、十字架上で

「我が神、我が神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」

と叫ばれた言葉です。あの意味もまた深いのですけれども、今日一つだけ言いたいのは、イエスは神に見捨てられてくださいました。それは、すでに陰府や地獄にも等しい、恐ろしい体験でした。神に見捨てられることがどれほど暗く、所在なく、ゾッとすることか、私たちの想像を遙かに超えています。イエスは私たちのために神に見捨てられました。それゆえ、私たちは自分が神に見捨てられたように思う時にも、その自分の孤独や絶望を、イエスが私たちに先立って味わって下さったことを知らされています。イエスは、神から見捨てられたような時にも私たちとともにいてくださいます。つまり、イエスが私のために神に見捨てられる体験をしてくださったので、私たちは神に見捨てられることは決してないのです。

 …私たちは最も激しい試みの時にもこのように確信する…私の主キリストは、十字架上とそこに至るまで御自身の魂に受けてこられた言い難い不安と苦痛と恐れとによって、地獄のような不安と痛みからわたしを救い出してくださったのだ、と。

「不安と痛みから…救い出してくださった」

とは言っても、不安や痛みを全く体験しないで済む、という事ではありません。また、不安や痛みが直ぐになくなる、ということでもありません。

「最も激しい試み」

が私たちを襲う時はあるのです。しかし、そのような時に地獄のような不安と痛みを味わいつつも、その中で、イエスが私のために陰府にまで降るほどの低い思いを既に味わってくださったのだから、私は決して独りではない。神に見捨てられたのではない。神は、私とともにおられ、不安と痛みをともにしていてくださる。だから必ず希望はあるという確信を持つことが出来るのです。

 クリスマスのイエスのお誕生は、既にその事の証しでした。私とともにいるためにイエスは貧しく低く生まれてくださいました。そして、人生の全ての不安や恐れや痛みも、死後の魂の状態までも全て私たちのために、味わい知っておられるのです。イエスは私たちとともにおられます。たとえ、神に見捨てられたり、地獄のような苦しみや、死んだほうがましのような虚しさに襲われたとしても、そこにも主イエスはともにおられます。それゆえ、私たちはもう陰府や地獄の恐れから救い出されているのです。

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マタイ1章18~25節「私たちとともにおられる神」

2016-12-12 15:59:53 | クリスマス

2016/12/11 マタイ1章18~25節「私たちとともにおられる神」

 今週もクリスマスの聖書記事の、何度も何度も聴いているエピソードをもう一度開きました。特に今朝は、イエス・キリストの父親役を果たしたヨセフに目を向けましょう。

1.正しい人であったヨセフ

 ヨセフは父親役だと言いましたが、今日の18節にもあるように、ヨセフとマリヤが一緒になる前に、マリヤはイエスを聖霊によって身籠もりました。ヨセフとイエスとは血は繋がっていないのです。生物学的には父親ではなく、最初はマリヤとの婚約を解消しようとしたのです。

19夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。

 マリヤの妊娠を知った時、ヨセフは彼女を去らせよう、離縁をしようと決めました。一つには、もう妻と決まっていた、厳粛な婚約関係にありながら夫ならぬ者の子どもを宿すことは姦淫の罪に相当し、姦淫罪は石打の刑という厳罰に処するのが律法だったことが考えられます。ヨセフはマリヤを晒し者にして、公然と彼女を極刑に引き渡すことも出来ました。しかし、ヨセフはそうすることを望まず、内密に去らせようとした、というのです。

 もう一つの読み方は、ヨセフはマリヤの胎内の子が自分の子ではないけれども、誰か他の男性の子でもなく、マリヤが姦通を働いたのでもなく、聖霊によって身重になったと分かった、という考えです。ヨセフはマリヤの妊娠が、聖霊による奇蹟以外にないと信じました。でも、だからこそヨセフは、マリヤを去らせよう、婚約を解消しよう、しかし、さらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた、という読み方です。20節でも、夢で主の使いはヨセフに言います。

20…「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。…」

 御使いが言うには、ヨセフがマリヤを妻に迎えなかった理由は

「恐れ」

です。裁きや怒り、正義感や潔癖意識ではなく、恐れでした。正しい人ヨセフは正しさ故に恐れました。聖書が示す

「正しさ」

は、四角四面の真面目さや冷たい几帳面さ、間違いを許せない杓子定規な

「正しさ」

ではありません。それは、真の正義の神との関係が正しくある、という意味での「正しさ」です。ヨセフも罪がなかったのではなく、神との関係を大事にしていたから正しい人と言われるのです。そして逆説的ですが、彼が自分の罪を十分に自覚していたことであるでしょう。

 今日の箇所に先立つマタイ一章の前半には、系図がずっと書かれています。ここで躓いてしまうような、読む気がそがれる一ページ目ですが、これは言わば旧約聖書のダイジェストなのですね。この系図に、新約聖書に至る、創世記からの歴史が凝縮されているのです。それは、アブラハムから始まる神の民の歴史です。約束を与えられて来た歴史であるとともに、神に背き続けてきた罪の歴史です。ダビデの王位から転落して、バビロン捕囚の裁きに遭い、その末裔に当たるのがヨセフです。ヨセフはそのことを正しく受け止めていました。だからこそ、婚約者が聖霊によって身重になった時、恐れて、秘かに離縁しようとしたのです。

2.恐れないで迎えなさい

 神の民の罪を、身にしみて理解していたヨセフは、神の奇蹟に選ばれたマリヤから身を引こうとしました。しかし、御使いは夢でヨセフに妻としてマリヤを迎えるように言います。ヨセフは生まれる子に名前を付ける責任が、つまり父親となってマリヤとその子を養う使命が与えられます。その名は「イエス」です。御使いがこう言います。

21…この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。

 「イエス」には「主は救い」という意味が込められています。旧約聖書に「ヨシュア記」がありますが、ヨシュアとイエスとは同じ名前をヘブル語とギリシャ語で言い換えただけです[1]。ヨシュアはイスラエルの指揮官であり、軍事的な役割を果たしましたが、御使いは、生まれる子イエス(ヨシュア)がご自分の民を、その罪から救って下さる、というのです。ヨセフはその正しさ故に、自分が聖霊によって身籠もったマリヤを娶ることを恐れました。自分の罪を自覚していたからです。自分には罪があるから、聖霊によって身籠もったマリヤの夫には相応しくないとヨセフは考えたのに、御使いの告げたのは、その罪から救ってくださる方が生まれようとしているのだ、という知らせでした。御使いはヨセフに、相応しくないからこそ、マリヤを妻に娶り、生まれて来る子を救って下さる方として呼び、その救いを受け入れるよう命じたのです。自分をその方が救ってくださる民の筆頭に考えて、聞いたのではないでしょうか。自分の心にあった恐れを汲み取り、その恐れの根っこにある罪から救ってくださる方が来られると告げられたのです。それは、ヨセフにとって、どれほど慰めに満ちた言葉だったでしょうか。これはただの命令ではなく、ヨセフにとって思いもしなかった希望でした。力強く、素晴らしく厳かな知らせでした。そしてこれこそ、私たちにも告げられているクリスマスの言葉です。

3.神は私たちとともにおられる

22このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。

23「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である)。

 イエスの誕生は神が私たちとともにおられる、という事の体現でした。神は私たちとともにおられます。イエスはやがて十字架に死なれ、復活して後、天に昇られましたが、そのメッセージは今も変わりません。神は私たちとともにおられます。でも、神が私たちとともにおられると聞いても、遠慮したくなり恐れる思いも人間の中には当然出て来ますね。その人が本当の意味で正しく、良い心であればあるほど、恐縮して居心地の悪い思いがするでしょう。クリスマスにイエスのお誕生をお祝いしながら、おつきあいで明るい顔や楽しくしていても、頭の片隅には何か重いもの、暗いものが引っかかって、心から楽しめない思いがしたりします。

 しかし、この御使いの言葉で言えば、そういう暗く重い罪、疎外感を抱えた人間のためにこそ、イエスは来て下さったのです[2]。ヨセフは、イエスの父親となるほど身近に救い主を迎えました。そのヨセフの体験に託して、こういうクリスマスのメッセージが私たちに語られているのです。

 神は私たちとともにおられることが、イエスの誕生を通して、私たちに告げられています。それは本当に驚くべき事です。でも、同時にここでヨセフが体験したことは、驚くような奇蹟のドラマではありませんでした。勿論、マリヤが身籠もったことは衝撃だったでしょうが、それさえ奇蹟の光や聖霊のわざを、映画のワンシーンのように見たわけではありませんね。御使いが現れたのも夢であり、目が覚めた時には儚く思えたかもしれません。その後も、ヨセフの生涯はマリヤとイエスを守るために翻弄され、エジプトまでの逃避行をし、田舎のナザレで生活をしてと苦労続きだったと思います。そして、ヨセフはどうやらイエスが公生涯に出る前に死んだようで、いつの間にか舞台から姿を消します。神がともにおられるからといって、ヨセフの人生は華やかでもドラマチックでもありませんでした。苦労や困難がありました。恐れや迷いや躊躇いがありました[3]。でも、そのような事を通して、人は自分の心の闇を知ります。痛みを通して、私たちは化けの皮や表面的なものがはぎ取られた後に見える、本当のもの、ありのままの世界、正直な自分に気づくのです。そして、そのような上辺がはがされた素の自分と、神はともにおられる。揺れ動くものが全部揺れ動いて、崩れ去った後にも、神だけは揺れ動く事なく、変わる事なく、私たちとともにいてくださることを私たちは知らせて戴くのです。

 ヨセフの人生が深く変えられ、導かれたこの出来事のように、私たちも「恐れるな」と言われ、罪から救い、ともにおられる方との出会いを通して、深く変えられ、導かれています。

「主がご自分の民を罪から救うために自らこの世に来られ、私たちとともにおられることを感謝します。私たち一人一人の生涯を通して、この恵みを明らかにしてください。私たちの願いも、自己中心を重ねる表面的な願いから、私たちの心と人生に主を迎え入れ、主に明け渡す心にしてください。そうして主がともにいる恵みを生涯味わい、喜び、感謝させてください」



[1] 「救う」には宗教的な意味合い以上に、王権、支配、服従の意味がある。禍から救い出すだけでなく、良き支配の中に移す。それは、まさしく王のわざである。まさしく「罪」からであるとすれば、禍や苦しみや自己を基準とした悪理解ではないのだから、正しい支配、生き方への回復であり、神を王としない生き方からの救出に他ならない。

[2] それは、神が私たちとともにおられるお方であることの成就であると言われる。神が私たちとともにおられることが、私たちを罪の支配から救われた生き方へと回復するのである。

[3] 25節の「子どもが生まれるまで妻を知る(夫婦として身体を交わらせる)ことをしなかった」も慎み深さだけでなく、恐れや遠慮のようにも思えるのです。

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