聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問7 「いっさいの事を」エペソ一3~11

2014-06-08 17:00:54 | ウェストミンスター小教理問答講解

2014/06/08 「いっさいの事を」エペソ一章3~11節 ウェストミンスター小教理問答7

 今日は「神の聖定」という言葉を覚えましょう。「聖なる定め」と書きますが、その通り、神様が定められた、聖なる御計画を「聖定」と言うのです。

  問7 神の聖定とは、何ですか。
  答 神の聖定とは、それによって神が、ご自身の栄光のために、起こってくる一切のことを前もって定めておられる、そのような御心の計らいにしたがった、神の永遠の御計画です。

 神様の永遠の御計画と言います。そして、その聖定によって、

 ご自身の栄光のために、起こってくる一切のことを前もって定めておられる

と言うのです。それが、先ほど開いたエペソ書一章でも、

  4…神は私たちを世界の基の置かれる前から、…
 10いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められたのです。
 11…みこころによりご計画のままをみな行う方の目的に従って、私たちはあらかじめこのように定められていたのです。

と、スケールのとてつもなく大きな話をしています。世界の基の置かれる前から、神様はご計画を定めておられて、天にあるもの地にあるもの一切が、キリストにあって集められる。神様は御心によって、ご計画のままを行われるお方です。神様にとって、行き当たりばったりとか、計画変更とか、小さすぎてどうでもいいことや、大きすぎて手に負えないことはありません。すべてのことが、神様によって、永遠の昔から定められていたのです。

 こんな事は私たちの理解を遙かに超えています。宇宙よりも大きなお方の話を、私たちのちっぽけな脳味噌で理解できるはずがありません。人間同士の話でさえ、理解し尽くすことは出来ません。昨日の話でさえ、飲み込むには苦労するのです。そんな私たちに、宇宙の一切や永遠の出来事を理解することは出来る筈がないのです。

 このことを弁えていないために、人間は偉そうに神様を批判します。永遠から全てが決まっていたなら、私たちが何をしても無駄じゃないか、とか。悪いことも神様が計画していたのか、とか。人間の心や自由はないのか。そんな反論をします。でも、例えば、「義務教育」というのを考えて見て下さい。小学校に上がる前の子どもは「勉強できなかったらいつまでも卒業させてもらえないかも」と不安になったり、「全然勉強しなくても卒業できるなら勉強止めとこか」と生意気に考えたりするかも知れません。でも、どちらも間違いでしょう。なぜなら、大事なのは勉強しなくても卒業できるかどうか、ではなくて、大切な勉強が出来る方がいいから小学校に行くんだ、ということです。

 神様も、この世界の全てのことを決めておられます。それは「聖定(聖なる定め)」であり、そこには、神様の大きな目的があります。

  ご自身の栄光のために、

という目的です。それをエペソ書では、

 3天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

 4…御前で聖く、傷のない者にしようとされました。

 7この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。

 11…この方にあって私たちは御国を受け継ぐ者ともなりました。

などと述べています。私たちが霊的に祝福され、聖なる、傷のない者となり、罪の赦しの贖いに与り、御国を受け継ぐ。それが、神様の定めの大筋なのです。全部が決まっているから私たちが何をしても無駄だ、と言う他ないような冷たい定め・運命ではありません。また、何もしなくても神様がやってくれるさ、と責任逃れをしたり、怠惰になったりすることも神様の目的とは正反対です。神様の聖定は、神様の霊的祝福によって、私たちが神様を賛美し、全身全霊をこめて神様にお従いする者となることです。それこそが、神様の目的でありご計画です。世界の歴史の流れを決めておられて、私たちが何をしようと、そのストーリーはビクともしない、というのではありません。神様のストーリーは、私たち一人一人が、神様のお取り扱いによって心を問われ、罪からきよめられ、聖なる生き方をすることです。冷たく、何にも動じない神ではなく、私たちを祝福に溢れさせて下さる神を、心から賛美して生きるようになる物語です。

 勿論、この世界には罪も根深くあります。ひどい悪や暴力も起こります。でも、それも神様のご計画だ、と黙って何もせずに受け入れるのは聖書に教えられている神様の御心とは違います。悪にもめげずに、正しく、チャンと歩むこと、必要ならば犠牲を惜しまずに働くことを、聖書から教えられるのです。諦めたり、無抵抗になったりせず、むしろ、悪に負けない者となることこそ、神様のご計画なのです。

 本を読んで、映画を見て、途中には大変な出来事やひどい人が出て来たりすることはあります。そこで、「こんな話を考えるなんて、酷い作者だ」と本を閉じたり、席を立ってしまったりしたら、作者が何を言いたかったのかは分かりません。神様は、世界全部のことをすべて考えておいでです。でも、その時その時の出来事がなぜ起きるのかは後にならなければ分かりません。何一つ、信仰を捨てたり、神様を疑ったり、罪の言い訳にしてもいい出来事はありません。その事に対して、私たちは、聖書に教えられながら、精一杯の応答をするだけです。今は分からなくても、神様は全部知っておられる。その確信に立って、希望を持って生きることが出来るのです。

 それもまた、イエス・キリストが、十字架において死なれ、三日目によみがえってくださったことに保証されています。神様がご自身を惜しまずに、私たちのためにささげてくださったこと、イエス様に対して、人間がどれほど身勝手で悪いようにしたか、でも、それも逆手にとって、イエス様はご自身の使命を果たされたこと。この方にあって、私たちは罪の赦しをいただき、救いのご計画に与っています。恐れる事はありません。すべてのことに働いておられる主への信頼をもって、イエス様に従って進ませて戴くのです。

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ルカ十七章1~4節「一日に七度でも」

2014-06-08 16:53:53 | ルカ
2014/06/8 ルカ十七章1~4節「一日に七度でも」

 今日はルカの十七章最初の4節だけに耳を傾けます。たった4節の短い部分ですが、私たちにとっては、いくつもの印象深い言葉が詰め込まれています。

 1つまずきが起こるのは避けられない。だが、つまずきを起こさせる者はわざわいだ。
 2この小さい者たちのひとりに、つまずきを与えるようであったら、そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。…
 4かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。

 どの言葉も、読み、味わえば味わうほど、強いインパクトのある言葉です。けれども、やはりここにも、私たちは主イエス様の深い慰めと励ましを聞くのです。

 「つまずき」という言葉は、新改訳聖書の欄外に「あるいは「罪の誘惑」」と注意書きがありますように、私たちを神から引き離すもの、罠に掛けて滅ぼしてしまうような事を言います 。よく教会では「牧師に躓(つまづ)いた」「躓きにならないように」などと言う人もいて、神様以外のものの問題を理由に、教会に来なくなることがあったりします。けれども、聖書がいう「つまずき」とはそういう障害物とは違うことを指しています。神から引き離すもの、罪の誘惑、という意味ですから、嫌なこと、ガッカリしたという躓きよりも、本人は喜んで罪の誘惑に引っ張られていくような、躓きとは思ってもいないような、そういうことを指しているのです。

 ここでの話の流れを考えてみましょう。躓きが起こることは避けようがないが、あえて躓きを起こさせる者は禍(わざわい)だ、たとえ相手が小さくても、その一人を躓かせるぐらいなら、石臼を首に結わえ付けられて海に放り込まれた方がましだ、と強い口調で言われた上で、

 3気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。

と言われるのですね。イエス様が弟子たちに命じておられるのは、自分自身に気をつけよ、という事です。では自分の何に気をつけるかというと、兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めよ、そして、悔い改めたら赦しなさい。次の4節に強調されるように、一日に七度罪を犯しても七度悔い改めるなら、七度赦し続けよ、と仰るのです。これが、イエス様が仰っている「気をつけていなさい」であり、避けなければならない「つまずき」だと、ルカは言っているのです。

 自分が罪を犯さないように気をつけるのは勿論大事です。でも、ここではそれよりも踏み込んで、自分ではない、「兄弟が」つまり、教会の同じ信徒仲間が罪を犯す、それも「あなたに対して」罪を犯してきたとして、その時に私たちがどのような態度を取るか。そこに私たちの責任を問われるのが、主イエス様なのです。

 人が罪を犯すかどうか、は私たちの責任ではありません。それまで防ぐことは出来ません。でも、もし兄弟姉妹が自分に対して罪を犯したなら、その人を戒めることは私たちの責任なのです。罪だと戒めもせずに勝手に大目に見たり、陰口や文句だけ言って、戒めようとしなかったりするとしたら、それはその人が悔い改める機会を持たせないことです。それが、ここで言われている「つまずき」の第一の面です。それで聞き入れなかったらどうするか、という手続きは、マタイの福音書の十八章で詳しく述べられています 。ルカはもっと端的に、私たちの側が、罪を放っておかずに戒め、かつ、それを聞き入れて悔い改めたら何度でも赦すよう、自分に気をつける、という原則を打ち出しているのです。

 罪を赦すということは、大目に見るとか「たいしたことじゃない」と寛容になることとは違います。戒めて、悔い改めなければならないことをキチッと伝えなければなりません。それで相手が「冷たい。躓いた!」と反発することもあるでしょうが、それを恐れて腫れ物に触るようにしたり、自分さえ我慢していれば良いとか、見て見ぬ振りをしたりすることの方が、イエス様に言わせれば「つまずき」、その人を救いから遠ざけることなのです。

 ここで大事なのは、その相手を見下したり軽んじたりしない態度です。

 2この小さい者たちのひとりに、

と言われているのは誰の事でしょうか。前後を探してもなかなか見当がつきませんが、ルカはあちこちでこの言葉を使います。

 「小さな群れよ。恐れることはありません」

と言ったのも唐突でした 。言い換えれば、私たちはいつもどこかで、自分をも人をも、つい小さな者と見做しがちです。自分たちは小さい群れだ、あの人ひとりぐらい躓いても気にすることはない、一日に七度も罪を犯してくるなんて、そんな人のことは堪忍袋の緒が切れるのも当然だ-そんなふうに考えられてしまう人はみんな「小さい者」でしょう。その小さい者のひとりに、つまずきを与えるのなら、とイエス様は言われます。

そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。

 躓いて罪を犯したままでいい、たいしたことのない人などいない。悔い改めてもなお罪を重ねてしまうならもう赦されなくても仕方ないような、そんな小さな人もいない 。そこに立っているかどうか、を問われています。そうです。主イエスご自身、私たちが罪の誘惑の中で滅びて行くには忍びないと思われて、ご自身のいのちという犠牲を払ってくださったのです。私たちを戒め、罪を悔い改めるよう、丹念に戒め続けて下さっているお方です。それで悔い改めても、なお何度も主に罪を繰り返し、悔い改めても懲りずに、また主の御心を踏みにじり、一日に七度でも七十度でも、それが三六五日、何十年と続いたとしても、なお見捨てることなく、赦し、戒めてくださいます。それは決して罪を黙認するとか許容するとかではありません。他者に対する罪もまた、石臼を首に結わえられて海に投げ込まれるほうがいいような重罪なのです。それを気付かせ、諭し、戒めて、心から悔い改めるようにとイエス様は、優しくも断固として言われます 。

 でも、何よりイエス様は、私たちがその滅び、他者をも見下し滅ぼすような生き方から、悔い改めと赦しに生きるために、ご自身のいのちを十字架に捧げてくださいました。海に沈められた方がいいような「小さい者(私たち)」のために、ご自身が十字架につけられ陰府に降ってくださったのです。その尊い主の御心によって、私たちは新しくされたのです。これは、道徳ではなく、キリストの教会が生かされている土台です。福音の原理です。人を見下し切り捨て、躓かせるのが人間の厳しい現実です。そのただ中で、主の民である私たちは、悔い改めと赦しに生かされているのだと肝に銘じ、気をつけたいと願うのです。

「小さい者を尊ばれる主よ。今日も、赦されない重荷を抱えてでは断じてなく、完全に赦された恵みをいただいて帰って行ける幸いを感謝します。私たちの信仰を増してください。小さき者を憐れんでくださる主を、私たちが阻んでしまいませんように。憐れみを忘れたこの時代に、悔い改めと赦しに生かされて続ける喜びを、全存在で証しさせてください」


文末脚注

1. 原語では「スカンダロン」といい、英語のスキャンダルの語源ですが、醜聞・不祥事というニュアンスよりも、元々は「罠」「つまずかせるもの」という意味でした。
2. マタイ十八6-20「しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。つまずきを与えるこの世はわざわいだ。つまずきが起こるのは避けられないが、つまずきをもたらす者はわざわいだ。もし、あなたの手か足の一つがあなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちに入るほうが、両手両足そろっていて永遠の火に投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。また、もし、あなたの一方の目が、あなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちに入るほうが、両目そろっていて燃えるゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。また、もし、あなたの兄弟が{あなたに対して}罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」
3. 7:28、9:48「あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです」、12:32「小さな群れよ。恐れることはない」、17:2、19:3「背が低かった」(ザアカイのこと)
4. 七度も謝りに来る人は、赦されなかったからと言って、「赦せないなんてひどい、躓いた」とは言わないだろう。自分には赦される資格などやはり到底ないのだ、と自分を責めて帰るだろう。それ自体が、「躓き」なのである。神から離れて行くことは、喜んでであれ、絶望してであれ、躓きであり、避けなければならないことなのだ。
5. この赦しは、パリサイ人たちに対して語られた、「放蕩息子」の十五章のメッセージとも重なってくるモチーフです。


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