聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

ルカ十七章5-10節「さあ、さあ、ここに来て」

2014-06-18 14:53:50 | ルカ
2014/06/15 ルカ十七章5-10節「さあ、さあ、ここに来て」

 「私たちの信仰を増してください。」

と使徒たちが主イエスに言ったのは、前回見ました4節までの言葉に怖じ気づいたからでしょう。罪を犯した人がいたら、戒める。それで悔い改めたなら、何度でも赦して、受け入れる。そうしないなら、躓かせることになる。海に沈められたほうがましだ、と言われて、弟子たちは、自分たちにはそんな信仰はない、と思ったのでしょう。でも、

 6しかし主は言われた。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ』と言えば、言いつけどおりになるのです。

 信仰の大小や不十分という問題ではない、とイエス様は言われます 。こう言われてすぐに、7節からは、しもべ(奴隷)の仕事に対する態度の話になって、言い付けられたことをするのが奴隷の仕事だ、と思い出させた上で、こう言われます。
 10あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。」

 実は、5節で、使徒たちが主に向かって、とありますけれども、福音書の時点で、十二弟子たちが使徒と呼ばれることは8回だけですし 、彼らがイエス様を「主」と告白するのは復活後ですから、こういう組み合わせはここだけなのですね。また、「奴隷(しもべ)」という譬えはルカが何度も愛用して使うもので、神様から教会の管理を任された立場を表す、お馴染みの言い回しです 。ですから、この譬えもまた、一般的なことではなくて、主イエス様から教会の育成を任された使徒たち、また後の教職者・リーダーたちが、主のしもべとしてどのような思いで与えられた務めを果たしていくべきか。教会の信徒たちをお世話するとはどういうことなのか。どんな心持ちで職務に当たるべきであるか、を教えているのです。でも、それは、私たちの信仰が足りないからダメだ、という問題ではありません。私たちが、役に立たないしもべだから無理だ、ということでもありません。神を信じさえすれば、神は桑の木だって歩かせて海に植わるようになさることが出来るし、一日に七度、人を赦すことだって出来るようにしてくださる。そう約束されているのです 。

 「私たちの信仰が足りないから」、そう言う時に、実は神様を信じる信仰ではなく、信じている自分の信仰心を頼みにしているのではないでしょうか。主は、桑の木も、山も、人の心も動かすことの出来るお方、いいえ、ご自身が人となっていのちをも惜しまずに十字架に捧げてくださった方です。でも、その方を信じるより、自分の信仰深さで、このくらいまでなら出来る、それ以上は信仰を増してくださらないと出来ません、と自分の「信仰力」を過信しているのです。信仰が足らない、とは謙遜のようでいて、実はそれ自体、全く神を信じていない証しかもしれません。そして、「私がやってる」と思っていると、ご主人に対して一日の終わりに「言い付けられたことはしましたけれど、大変だったんですよ」と言いかねない。奴隷が主人に自慢したり、労いを期待したり、という分不相応な態度を持つようになるのかも知れません 。

 ここで語られていたのは、赦す、ということでした。もっと前、十五章からは、一匹の羊や放蕩息子のことが語られていました。ルカの福音書そのものが、

 「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

と仰るイエス様を伝えています。私たちからすると、失われた羊、赦して受け入れてやる価値もないような放蕩者、ちっぽけな存在を、イエス様は、愛をもって戒め、悔い改めに導き、何度でも何度でも赦してくださいます。そこに、イエス様の教会の原点があります。でも、現実に、教会の中にも私たちの周りにも、問題が起きてしまうと、赦すことの難しさを覚えます。その時に、私たちが自分の信仰や努力で、戒めよう、赦してやろう、とすると、どうしても無理が出て来ます。いいえ、そもそも、自分の信仰を頼りに思っている限り、赦すといいつつも、心の中で赦した回数を数えたりしてしまうでしょう。小さい者を見下し、赦してやる、という思いでいる。それは結局、自分が教会にいること、神の家のしもべであること自体が、力強く、憐れみ深い主にではなく、自分の有能さとか資格とかの御陰だと誇っているのです。本当に自分こそは赦されて、憐れみを受けているのだ、と思っていれば、教会が、悔い改めた人に門戸を閉ざすなどということは出来ません 。

 考えれば考えるほど、教会にとって、悔い改めと赦しということは生命線です。そこにあるのは、イエス様の深い憐れみです。ですから、10節のイエス様の、

 「私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです」と言いなさい。

というお言葉も、「お前たちはどうせ役立たずだ」とばかりに、私たちを貶めて仰っているのではないはずです 。かといって、腹の中では「結構自分もやってきたよなぁ」と思いながら、そんな本音を隠して口先で「私なんか役立たずで」と、ご謙遜を言うのでもない。心から、自分はふつつかなしもべだ、と言う。自分の信仰は、からし種のようなものだと正直に言う。その貧しい信仰を通してさえ、主が力強く働かれます。誇ることなど何もないけれど、ただなすべきことをさせていただければよい。だから、私たちが、「役に立つしもべ」になりたいとか、信仰を増して下さいと願う必要は無いのです。

 イエス様は私たちが「役に立つ者」、申し分のない信仰を持つことを求めておられるのではないのです。足りないままでいい。人を赦すことに困難を覚えて、どこかで裁いたり軽蔑したりする思いがあるのは当然です。そういう私たちの冷たさ、人を赦せず、退けてしまう性格をご存じだからこそ、イエス様がこの冷たい世界に飛び込んでこられて、誰も思いつかなかったような赦しと愛を現して下さいました。主の御真実によって立つ、新しい共同体、教会を始めて下さいました。その御業に、私たちはまだまだ不慣れです。それが事実です。自分の信仰、自分の寛容さを誇ることは出来ませんから、自分は役に立たないしもべですとしか言いようがありません。でも、そこに惨めさはないのです。不完全なままで、ともに赦されてある。自分の不完全さを大きく捕らえすぎて、悔い改める人を阻んではなりません。教会が、キリストの(私たちの、ではなく)赦しと和解を証しするのが、私たちに与えられた「なすべきこと」です。それを身をもって教えて戴きながら、ここにおらせていただいていると、気負いのない思いで言わせて戴くのです。

 後の二二章24-30節でイエス様が仰るのは、やがて御国で主の食卓に着いて食事を共にする、というお約束です 。「さあ、さあ、ここに来て、食事をしなさい」と仰るのです。それは決して、役に立ったから、立派なしもべだったからという報いや労いではない。只管、主の深く惜しみない恵みによることです。その惜しみない赦しと祝福を現して、教会が、福音の種を蒔き続け、主の羊を恵みによって養っていけますように、と願います 。

「私たちの信仰は芥子粒のようでも、不束(ふつつか)なしもべに過ぎなくても、主よ、あなた様に与えられた務めを光栄として果たさせて下さい。力強いあなた様が、私たちを通してさえ十分に働いて下さる。弱さを通してこそ豊かに働いて下さる、と心から信じさせてください」


文末脚注

1. からし種は「もっとも小さいもの」を指す慣用句です。13:19でも、天の御国の譬えとして使われます。日本語なら、「芥子粒(けしつぶ)」というような言い方がありますが、それと似ています。ですから、「からし種ほどの信仰さえない」などという言い方は、的外れです。
2. マタイ十2、マルコ六30、ルカ六13、九10、十一49、十七5、二二14、二四10。ルカだけは六回、マタイとマルコは一回ずつ。ヨハネはゼロです。
3. ルカ27回(2:29(シメオンの一人称)、7:2、3、8、10(百人隊長のしもべ)、12:37、38、43、45、46、47(主人の帰りを待つしもべ)、14:17、21、22、23(盛大な宴会のたとえ)、15:22(放蕩息子の父が迎え入れるためにしもべを呼ぶ)、17:7、9、10(本節)、19:13、15、17、22(ミナの譬え)、20:10、11(ぶどう園の譬え)、22:50(耳を切られた大祭司のしもべ)
4. 「桑の木」という言葉は聖書でここだけです。19:4の「無花果桑の木」と似た語ですが、これもそこだけに使われる語です。また、「海」も、17:2、6、21:25のみで使われる語ですが、ルカは「湖」とも訳せるこの名詞をガリラヤ湖には使わず、limnehを使います。この使い分けを考えると、今日の17章6節は、直前の2節の「海に投げ込まれる」を茶化しているのだとも読めます。
5. ルカでの「信仰」は、7:50、8:48、17:19、18:42(以上四回は「あなたの信仰があなたを救った」です!)、8:25「あなたがたの信仰はどこにあるのです」、22:32「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。」の6回です。イエス様は意外な人の信仰が救いに至る信仰だったと評価されますが、「私たちの信仰」という言い方はここだけ。誰も「自分の信仰が私を救った」と言うことは出来ません。とりわけルカは、弟子たちの信仰については、極めて悲観的だと言えます。しかし、それだからダメなのではなく、からし種ほどの信仰で良いのです。
6. ルカ十九10。
7. この事は、ルカが7章35-50節の「罪深い女の香油注ぎ」の出来事を通して強調していたことです。これもまた、ルカの福音書全般に通底しているテーマです。
8. 「役に立たない」は、マタイ25:30とここだけで使われる言葉です。Unprofitable、unworthyというニュアンスで、「役立たず」「無用の長物」「穀潰し」という否定的なイメージではありません。新共同訳「取るに足りない僕」、榊原「ふつつかな」などの他訳とも引き比べてください。
9. ルカ22章30節「あなたがたは、わたしの国でわたしの食卓に着いて食事をし、王座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです」。その前からの部分を参照に。
10. 赦しの具体化は、まさに教会のあずかった、大事な仕事である。ここで躓かせることを現住に警告されるほどのこと。この福音の種を耕し蒔いて育てるのであり、この福音によって羊たちを養う。野良仕事をして、更に主に仕えるのである。それはしもべが自慢し、報いを求めることではなく、そのためにしもべはいるのであって、大変であってもそれを言い訳にするのではなく、「至らなくてゴメンナサイ」と言うだけのことである。それぐらい、赦しは教会の与った大事な基準。

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