聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2017クリスマス礼拝 ルカの福音書2章8-20節「歩み寄る神」

2017-12-24 22:39:35 | クリスマス

2017/12/24 ルカの福音書2章8-20節「歩み寄る神」

1.羊飼いへの知らせ

 今日、世界中で祝われるようになったクリスマスは、イエス・キリストのお生まれを祝うお祭りです。イエスを忘れたドンチャン騒ぎやただのロマンチックな季節になっているとしても、こんなに世界に広まったほど、キリストの誕生の喜びは大きな喜びだったのです。その最初は決して華やかではありませんでした。また、その喜びや素晴らしさを賑やかに盛り上げることもありませんでした。それが野原の羊飼いたちに知らされ、羊飼いたちを通して、多くの人がキリストの誕生を知らされたということは、人間の常識や予想を超えた、驚きだったのです。

さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。

すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。

 ベツレヘム周辺のどこかで羊の群れを守っていた羊飼いに主の使いが現れ、主の栄光で照らしたのです。その時、彼らは「ウットリ」や「ビックリ」を超えて「非常に恐れた」のです[1]

10御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。11今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

 救い主がお生まれになった。この神の民全体への大きな喜びを真っ先に告げ知らされるのが、羊飼いだとは誰も、本人たちさえ思いもしませんでした。神はそんな意外な人選をなさいます。

 こういうと、私たちは「きっとそれには訳があるに違いない。羊飼いたちが人一倍熱心だったから、実は信仰深かったから」などと原因を求めたがります。聖書はそういうことはひと言も言っていません。でもそれこそ、私たちにとっての慰めですね。神は、信仰深いか、よいクリスチャンか、資格や価値があるかどうかで人を選ぶのではなく、そういう眼中にない人の所に来て下さるのです。神御自身が、私たちの所に歩み寄ってくださって、予想もしなかった「大きな喜び」を知らせてくださるのです。それも勿体ないほどの大きな喜びです。

 神の知らせが羊飼いたちに選ばれた、というギャップだけではありません。

12あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」

 救い主がお生まれになったこと、その方が貧しい庶民と同じように「布にくるまって飼葉桶に寝ている」こと、それこそあなたがた(貧しい羊飼いたち)のためだというしるしだ、ということ。どれもが不思議で意外です。それともう一つ、しみじみと思うのが13節です。

13すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。

14「いと高き所で、栄光が神にあるように。
地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」

2.天の軍勢が現れて

 羊飼いはたった何人かだったでしょう[2]。せいぜい多目に見ても

「おびただしい天の軍勢」

の前には大差ないでしょう。天使の軍勢の大合唱というまたとない光景の観客としては甚だ物足りなくはありませんか。せっかくの大演奏なら、もっと場所や規模や人数を選んで相応しく、と私たちは考えます。でも、ここでは、数人の貧しい夜勤の労働者、雇われ作業者の前に、御使いの大軍勢が現れて、神を賛美するのです。「フラッシュモブ」というのがあります。公共の場でいきなりダンスや歌や演奏が始まるようなパフォーマンスです。あまり押しつけがましくて迷惑な場合もありますが、よく考えられて準備されたパフォーマンスは素晴らしい。皆が笑顔になり、幸せになります。予想もしなかった、楽しい美しいものに触れるのは、将に恵みの味わいです。私も四国に来て、特にこの一年、三好の祖谷や高知や愛媛を訪ねて、美しい景色を見て心が洗われるような思いに何度もなりました。イエスは

「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。」

と仰いました[3]。「太陽や雨が誰にも同じように注ぐのは当たり前の自然現象ではないか」と思うところですが、イエスは太陽が昇り、雨が降るのは、その一人一人への神の赦し、和解、愛のしるしなのだとサラッと仰るのです。私たちが凹んだり後悔したり孤独な時、美しい音楽や雄大な景色や思いがけない出会いがあって泣けてくるのは、赦しや愛を体験しているから、心の奥の何とも言えない渇いた所に水がしみ通るからではないでしょうか。

 羊飼いたちに天の大軍勢が現れて、神への賛美を聞かせたこと。天の芸術を一握りの羊飼いたちに惜しげなく聞かせたこと。それは羊飼いたちにとって、神の限りない恵みの体験でした。

3.栄光が神に、平和がみこころにかなう人々に

 この賛美は短いながら、クリスマスの讃美歌やミサ曲の「グローリア」、数え切れないバリエーションに歌われて、素晴らしい合唱に再現されてきました。実際これがどれほど美しく力強い歌声だったかは想像の域を出ません[4]。ただその賛美の中身はハッキリしています。

「いと高きところで神に栄光、地の上で平和がみこころにかなう人々に」

 ここで平和は

「御心にかなう人々に」

であって、「すべての人」とは言われません。けれどもこれを聞かされた羊飼いたちにとって他人事であるはずがありません。彼らは自分が御心にかなう人とは思ってもいなかったでしょう。その羊飼いたちをも神が顧みて、神の方から歩み寄ってくださり、平和を下さるのです。私たちも、自分が神に叶うように、神を喜ばせるような生き方に励む以前に、まず神が私たちに歩み寄り、勿体ないという言葉では到底足りないほどの恵みを下さり、私たちを治め、素晴らしい喜びを戴くのです。神の民として救われて、神の御心にかなう者としていただくのです。その御心を拒んだまま、自分勝手な平和や幸せを望むことは出来ません。怖ろしいほどに尊い神の御心を軽んじたまま、安全や自分の願いだけを求めることは何を願っているか分からないだけです。太陽も雨も、自分の命も喜びも、素晴らしいもの、美しいもの全てを下さっている神の御心に触れられて、私たちが神の民とされて、平和が来るのです。

 その平和をもたらすため世界の主であるキリストがこの世に来られました。野原の羊飼いたちに知らせ、天使の大合唱を聞かせてまで、神に栄光、地に平和、と力強く約束なさいました。飼葉桶に寝ているみどりごは本当に小さな存在です。それをロマンチックに考え、教会でも毎年忙しく祝いながら、どこかで自分の生活や、毎日の仕事、世界の争い、そして自分自身にため息をついてしまうものです。そうしてため息をついている私たちの所に、キリストが来てくださったのです。地の上に争いや差別でなく、平和をもたらし、私たちを御心にかなう人と呼ばれます。そのために、神御自身が限りなく身を低くし、貧しい子のような形で寄り添い、喜びの歌を望外の形で届けてくださいました。天の軍勢が歌い上げる大きな神の恵みを、私たちも聴いています。惜しげもなく、神は私たちにこの平和の知らせを伝えておられます。

 キリストの低い御生涯は、羊飼いを始め全ての人に平和をもたらす始まりです。今も主は人の心の奥深くに、この世界の隅々に働いて、地の上に本当の平和を造っておられます。やがて狼と小羊が、羊飼いと王、人種も敵味方も一緒に主の民とされて、神を心からあがめる平和へと、私たちは進んでいます。その道は平坦ではありません。だからこそ、キリストが約束してくださった平和へと歩んでいる、という信仰は、どんな武器や脅しよりも強いのです。この希望が、どんな悪政や差別や搾取をも覆すのです。平和が今もすべての人に届きますよう、悲しみや争いの中にある人にこそキリストの喜びの歌が届くために、遣わされたいと思います。

「主がこの世界に来られ、羊飼いに平和の歌声を聞かせてくださいました。その喜びが世界に溢れています。あなた御自身が、私たちの所に来られて、平和となってくださいました。どうぞあなたの恵みによって私たちがこの恵みを十分に味わい、感謝し喜び歩めますように。今その平和を目指し、分け隔てなくこの平和を届け生きることで、クリスマスを祝えますように」



[1] 現代の多くのクリスマスの絵では、ぷっくらした可愛らしい天使がニコニコした羊飼いたちと可愛い羊たちの周りで歌っている、というのどかな光景が描かれます。聖書のオリジナル版や数々の名画では天使は可愛いよりも威厳があって圧倒するような輝きがあって、羊飼いたちは驚いて顔をかばって描かれ、そして羊はたいてい無関心です。

[2] やとわれ羊飼いで、当時の群れの規模を考えても、そう大人数ではなかったと想像します。また、後でマリアとヨセフと飼葉桶のみどりごを捜して、羊たちとともに行けるのも、あまりの大人数では難しいでしょう。どんなに多いとしても、御使いの軍勢ほどとは思えません。

[3] マタイ五44、45。

[4] そもそも人が思うような美しさとは全く違うものだったのかもしれません。神の国の文化は、西洋の音楽のイメージだけではなく、世界中の言語や文化の多様性を含めた、バラエティ豊かなものなのですから。

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2017燭火礼拝 マタイの福音書2章1-12節「あなたの王は」

2017-12-24 22:36:58 | クリスマス

2017/12/24 マタイの福音書2章1-12節「あなたの王は」燭火礼拝

 クリスマスはイエス・キリストの誕生をお祝いする祭りから始まりました。イエス・キリストが私たちのためにこの世界にお生まれ下さった、その喜びが本当に喜びや感謝になって、ご馳走や沢山の綺麗な歌や美しい景色を産み出してきました。それぐらい、キリストが来て下さったのは、すべての人にとって喜びに満ちた、大きなプレゼントなのです。

 マタイ二章にはイエスがお生まれになった時の事が書かれています。当時ユダヤの国を治めていたヘロデ王と、東の方からやって来た博士たちの礼拝が並べて書かれています。ヘロデ王はキリストのお生まれの知らせを聞いて動揺しました。「俺の王座が奪われる」と恐れたのでしょうか。民衆の気持ちが自分から離れることを恐れたのでしょうか。この後、ヘロデ王は博士たちを呼び、情報提供をコッソリ求めます。しかし、後で博士たちが秘かに帰ったと知った王は、ベツレヘム近郊の二歳以下の子どもたちを皆殺しにします。大変な残虐な行動をするのです。ヘロデは他にも沢山残虐な事をした人です。政治的手腕のある賢い人でしたが、とても疑い深く、不安で、腹を立てやすい人でした。こういう王の下で生きるのは怖ろしいことです。

 イエスは、そのヘロデ王の時代に、お膝元で

「ユダヤ人の王」

としてお生まれになりました。私たちを治めておられる本当の王は、ヘロデではなく、お生まれになったキリストだ、というのです。そして、博士たちはその王イエスの所に行って、喜んで、宝の贈り物を献げたのです。古い讃美歌ではこの博士たちを「王」と呼んで歌っているものが多くあります。賢者、学者、高貴な身分の人でした。ヘロデとは対照的に、彼らはキリストのお生まれを聞いて、遠くからの度も厭わずにやって来て、まだ幼子の王の前にひれ伏し礼拝し、贈り物を献げて、それだけで帰って行きました。何とヘロデと対照的な姿でしょうか。

 自分の地位や名誉に固執して、嘘や暴力で自分を守るヘロデの姿はとても醜く、悲しく、怖ろしいものです。しかし、こうした姿は今でも世界に見ることが出来ます。ミサイルや兵器や権力で脅したり、人の命を奪ったり、という一国の支配者の狂ったような行動は、今年、私たちを不安にしました。もっと身近な所でも、暴力や強攻策で人を押しのける人がいます。そういう人は強いのではなく、反対に怖いから、弱くて必死だから、力で守ろうとするのです。自分自身もそういう所があるでしょう。自分の負けや弱さや間違いや無知を認めるのが怖くて、強い言い方をしてしまいます。悲しかった、と言うよりも、相手を非難します。恥ずかしかった、と認めるよりも、相手も同じ思いをすれば良いと意地悪を考えるのです。

 イエスはそういう私たちとは全く違いました。神は、ヘロデを罰したり圧倒したりエルサレム毎吹き飛ばすことも出来たでしょう。こんな不甲斐ない人間なんて地球毎捻り潰そうと思えば出来たでしょう。しかし神が取られた方法は、滅ぼさないどころか、神の子キリスト御自身が赤ん坊の姿で人間のところに来られる、という方法でした。全く無防備で、小さく、危険にも身を守る術のない子どもとして、この世においでになったのです。
 この前の一章で、キリストは

「神が私たちとともにおられる」

ということそのもののだと言われていました。神が私たちとともにおられる。いつもともにおられます。健康の時も病気の時も、豊かな時、貧しい時、喜びの時、悲しみの時も、神は私たちとともにおられます。地位や権力があろうとあるまいと、人がみんなそばから離れてしまっても、心に恐れや不安があり、弱さや失敗を恥じていても、こんな自分ではダメに違いないと思い、自分で自分に愛想を尽かしたとしても、神は私たちのそのままをご存じの上で、愛想を尽かすことなく、私たちとともにいてくださるのです。この世界の本当の王である神は、幼子として民の真ん中においでになりました。

 マーシャル・ローゼンバーグという方が

「あなたがそこにいることは、あなたが他の人に与えることの出来る、最も尊い贈り物です」

という言葉です。誰かのそばにいってそこに一緒にいる。それは何よりも美しい贈り物だ、というのです。まさに神の子イエスは私たちとともにいることを、人となることで示してくださいました。それは最も尊い贈り物です。それは、私たちをその最も美しい贈り物を受ける相手として選んで下さった、ということでもあります。私たちの貧しさや問題や暴力や闇をすべて承知の上で、なお私たちに御自身を贈ってくださったのです。私たちをともにいる相手として選んで下さったのです。

 博士たちはそのイエスを喜んでお祝いしに来ました。その遠い旅行や高価な宝物もすばらしいですが、それが惜しくないぐらい、博士たちはイエスの誕生を喜んだのです。それぐらい彼らもまた、怯えていたのでしょう。悩んで、求めていたのでしょう。だからこそ、イエスの前にやって来て、礼拝して、帰って行ったのです。
 ヘロデもこうしたら良かったのです。キリストという王がおいでになったと怯えて、必死で守ろうとするのではなく、彼もイエスのもとに行けば良かったのです。自分の恐れや孤独や不安をそのまま認めて、そういう自分の所に来られた真の王の前にひれ伏せばよかったのです。

 私たちの王は、このイエスです。軍事力や経済力を振りかざす怯えた人間ではありませんし、ヘロデのように力や嘘や怒りでは本当の平和は来ません。今ある関係の中にキリストが来て下さいました。私たちを受け入れて、ともにいてくださる王としてキリストが来られました。そこで、私たちも互いを受け入れ合い、ともにいて、また相手の差し出してくれるものを喜んで受け取り合う、本当の平和が始まったのです。

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ルカの福音書2章1-7節「全世界と飼葉桶」

2017-12-17 16:25:04 | クリスマス

2017/12/17 ルカの福音書2章1-7節「全世界と飼葉桶」

1.全世界の住民登録を

 イエス・キリストの誕生は、ローマ皇帝の住民登録(国勢調査)が背景にありました。ローマ帝国の人口調査をする、それが

「キリニウスがシリアの総督であったときの、最初の住民登録であった」

とわざわざ書いています。イエス・キリストがお生まれになったのは、本当にこの歴史のただ中でのことでした。私たちが今2017年、日本の政治や世界の様々な情勢の中で生きているように、イエスもこのローマ帝国のアウグストゥスの時代にお生まれになりました。

 悩ましいことにここに書いてある通りの住民登録が世界規模で行われた、という記録は歴史の資料には残っていません。ローマ皇帝がローマ市民の登録を命じたとか、各領土で領民調査をさせたことは確かですが、世界規模での住民登録を命じて、ヨセフも含めたローマの領土の全ての人々が自分の町に帰らなければならなかった、という事実は確認できないのです。しかし何か大きな政治的な状況があって、ヨセフは身重になっていた妻マリアを連れて、わざわざナザレからベツレヘムまで百キロ以上の旅を、何日もかかって果たしたのです。こうして、マリアはイエスをベツレヘムで、ダビデの町で生み、そこで飼葉桶に寝かせたのです。

 そもそも皇帝が(国家が)住民登録をするのは「国勢調査」とも言われるように、国の勢いを図るため、税金による経済政策や軍事的な戦略を立てるためです。ローマ市民や貴族、有力者はともかく、下々の人間は統計上の数に過ぎません。シリアの総督が住民登録をして、属州に過ぎないガリラヤやユダヤの住民が登録をしなければならなかった…そんなことは記録にも残らない小さなことだったのかもしれません。まして、この貧しい結婚し立ての夫婦がトボトボとナザレから旅をすることなどは小さな出来事、新聞があったとしても記事にならない事でした。けれどもそこにイエスはおいでになっていました。人間の皇帝にとっては、人は統計上の数です。いちいち気に留めていることは出来ません。けれども神は、その民の小さな一人にまで目をかけておられます。先にマリアは歌いました。

一46私のたましいは主をあがめ、
47私の霊は私の救い主である神をたたえます。
48この卑しいはしために目を留めてくださったからです。」

 主はマリアに目を留め、この貧しい夫婦の旅にともにおられました。主にとって、マリアもヨセフも、そして私たちも誰一人として数に過ぎない人はいません。神は小さな一人とともにおられます。そして、そこから救いや恵みの御業を始めて下さる主、王であられます。

2.ヨセフとマリアのしたこと

 もう一つヨセフが住民登録のために

マリアとともに自分の町に帰って行った

とあるのも、全住民が夫婦共々出身の町に帰らなければならなかった、ということではないのでしょう。そんなことを私たちがしなければならないとしたら、大変な騒ぎになって、膨大な出費や反感を買うことになるでしょう。ヨセフは元々ナザレの出ではなく、ダビデの町ベツレヘムとの特別な繋がりがあったので、ベツレヘムに行くことを選んだのかもしれません。その場合でさえ、妻まで一緒に行く必要はなかったはずです。それも身重になっていたマリアを連れてだと、旅は大変で、手間もかかる以上に母体の危険も伴います。誰かに預けて、自分だけ登録して帰ってきた方が遙かに現実的です。しかし、ヨセフはそうしませんでした。安心して預けられる人がいないくらい、マリアの妊娠やヨセフ夫婦の揺れ動きは目立って、噂話やいじめなどになっていたのでしょうか。いずれにせよ、ヨセフがマリアとともにベツレヘムに上って行ったのは、外から強制されたのではない、二人が選んだ特別な勇気ある決心だったに違いありません。

 ベツレヘムに着き、マリアは月が満ちて、男子の初子を産みました。

布にくるんで飼葉桶に寝かせた

とありますが、

「布」

は産着とも訳せる言葉です。その辺にあったボロ布では間に合わせたでなく、ちゃんと用意していた産着の布にくるみました。飼葉桶に寝かせたのも、最近の考古学や民俗学が進みまして、今のようなホテルや民宿などを考えるより、もっと古民家での民泊であれば、個室でお産など相応しくないのは当然で、人目を憚り、動物たちのスペースで産んで飼葉桶に寝かせたのは、最善の選択だったとも言われるようになりました。ヨセフが精一杯イエスの父親としての義務を果たそう、マリアを守ろうとしていた事、マリアも長旅の後で初産を果たせるように準備をしていたし、産着を用意して飼葉桶にそっと寝かせた。そのヨセフとマリアの行動に、聖書がちゃんと目を留めていることも忘れてはならないのでしょう。人の歴史やメディアで取りざたされて覚えられるようなことではないけれども、聖書はちゃんとそこでの人間の営みを大切に見ています。マリアとヨセフにとってはまだまだ先のことは分かっていません。生まれる子どもがどんな人生を送り、世界の歴史の中でどんな意味を果たすか、自分たちのこの旅が聖書で記録され、後々世界中のページェントで上演されるなんて思いもしないはずです。そうした無心の精一杯の中で、イエスが生まれたのです。

 だれも迎え入れなかったクリスマス、以上に、小さなことを誠実にしているヨセフとマリアの姿を記しつつ、ルカはキリストの誕生を伝えます。決して「小さな事を忠実にしているヨセフとマリアだからキリストの親に選ばれた」のではありませんよ。キリストが来られたのは、一方的な憐れみ、神の恵みによる選びです。そして、その神の恵みは、小さな者に現され、その小さな者の小さな精一杯の営みが、新しい意味を輝かせるのです。イエスの誕生は、「不本意な歓迎」であるよりも、「ささやかさへのスポットライト」でした。

3.ナザレ人イエス

 「使徒の働き」は、このルカの福音書と同じルカが書いた、福音書に続く教会の記録です。そこで教会はイエスのことを

「ナザレ人イエス」

と呼び、弟子たちも

「ナザレ人の一派」

と呼ばれました。それはイエスの出身地ですが、ナザレという村自体、当時四八〇人ぐらいの人口だったろうとも言われる寒村で、小さな寂れた場所だったのですね。ナザレ出身というだけなら、生まれたのは実はベツレヘムとも言えます。しかしそのベツレヘムに来た経緯自体が、ナザレでさえ安心できないほど、卑しめられていたからでした。臨月だったのに住民登録を命じられ、ヨセフがマリアを連れて大旅行を決心し、旅先の宿屋で布にくるんで飼葉桶に寝かせた、という本当に地味な苦労がありました。名門アウグストゥスのような権力や居心地良さ、強力なリーダーシップ、尊敬や称賛…そうしたこととは一切無縁のあり方をなさいました。全世界の本当の主、本当の神であり王であるお方でありながら、ローマ皇帝の気にも留めない所で、生き営んでいるナザレの夫婦のもとにおいでになった。そして、最後は十字架の死にまで低く、貧しい歩みをしてくださった。その驚くべき謙り、犠牲も卑しめられることも厭わない私たちへの愛、それが

「ナザレ人イエス」

という呼び方に託されていたのです。

 ヨハネの福音書一11で言われますように

「この方は御自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった」

のです。イエスに居場所を与えず、最後は十字架につけて殺した人間の罪は事実です。今も私たちが、イエスを自分の人生と心に相応しくお迎えせず、すぐに追い出したり、ぞんざいな対応しかしていないのも私たちの現実です。ただし、それは私たちを責めるため、恨みがましく非難するために聖書がそういうのではありません。「本当はナザレ人ではなくエルサレム神殿やローマの宮殿にお迎えすべきだった」のでしょうか。いいえ、そんな恨み節を聞かせるのがクリスマスではありません。王であるキリストが、本当に貧しくなってくださいました。神を差し置いて人が人を支配し、末端の人を統計上の数としか見ずに、それで全世界を支配したつもりになっている時、その神御自身が最も小さい人の所に来ておられました。全世界の上にいますお方は、飼葉桶の中に寝かされる赤ん坊として、御自身を委ねられました。こんな失礼はないと責めるためではなく、それは私たちを救うため、私たちが人間的な基準の評価とは全く違う価値を与えられている事実を知るため、神の民として引き上げられたものとして歩むためでした。

 この飼葉桶は、ローマ皇帝のベッドやローマの都よりも広く素晴らしい場所となりました。マリアが用意した産着は、どんな王の衣よりも喜ばれました。キリストが来られた時、人の支配とは全く違う、神の恵みによる御支配が明らかになりました。それは私たちにとっての希望です。この方こそ私たちのためのしるしなのです。

「ベツレヘムの飼葉桶に寝かされた主を静かに受け入れ、十分に思い巡らします。あなたの測り知れない謙りと、私たちへの愛を感謝します。あなたの御支配は上からではなく下から始まりました。私たちも人の評価や競争でなく小さなことを大事にさせてください。普通の営みが何一つ無駄でなく、主が祝福して御国のわざとしてくださることを信じて、励ませてください」

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マタイの福音書1章18-25節「友なる神」

2017-12-10 20:25:11 | クリスマス

2017/12/10 マタイの福音書1章18-25節「友なる神」

1.王の誕生

 アドベントの第二週として、マタイの一章を開きました。お馴染みの箇所ですが、もう一度、この箇所から主イエスのお生まれを覚えましょう。聖書を読み始めようと新約聖書を開くと最初に書かれているのが、聞き慣れないユダヤ人の名前尽くしで読む気を削がれてしまうような系図です。これは旧約聖書の歴史の振り返りです。アブラハムから始まり、ダビデ王を頂点として、やがてバビロン捕囚に至った、旧約聖書の歴史が、ここに凝縮されているのです。神が世界の祝福のために選んでくださったのがアブラハムとその子孫でした。そこから王になるダビデがやがて生まれましたが、その後のイスラエル王国は神に背き続けて、遂にバビロンが責めてきて、イスラエルの王家や主立った人たちは捕囚となってバビロンに連れて行かれました。そうしてバビロンから帰ってきた人々が、イスラエルを細々と再建したけれど、その末裔のヨセフは王位継承者とは名ばかりの、一庶民として生きている、そういう始まりなのです。でもそのヨセフが婚約していたマリアが、聖霊によって身ごもって、王位を継ぐ方が生まれる。それがイエス・キリストの始まりなのだ、というとても深い繋がりになっているのです。

 マタイの福音書はイエス・キリストを王として紹介します。アブラハムの直系で、ダビデ王の王位を継承した方がイエス・キリストです。ただ優しく素晴らしい方ではなく、聖書の歴史を貫いてきた系図を引き継いで完成させなさる王なのです。そしてその誕生は、この系図や旧約聖書が示すとおり、沢山の失敗や罪や問題だらけの歩みをしてきた末にやって来た誕生でした。ヨセフ自身、王位とは無縁の生活をしていた人で、マリアの身ごもったことを聞いて、喜んだり受け入れたりするどころか、ひそかに離縁しようとしたのです。そういうヨセフの所に、イエスの誕生が与えられた。私たちはつい、マリアを中心にクリスマスを考えて、このエピソードも「裏話」のように思います。マリアとイエスがメインでヨセフはサポーターのように聞きがちです。そういう先入観を脇に置いて、旧約からこのマタイ一章へと読み進めていくなら、この出来事が、ヨセフにとってどれほど深い意味や励ましだったかに気づくのです。

2.「正しい人」ヨセフ

19夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。

 この「正しい」の理解には幾つかの可能性があります。聖書の律法では姦淫は死刑でした。婚約とは結婚と同じ重みがあり、婚約者の子ならぬ子を宿すことは処刑に当たりました。ヨセフはそういう律法の基準を知って、重んじる正しい人でしたが、マリアをさらし者にはしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った、とも読めます。

 或いはそういう杓子定規な冷たい人ではなく、ヨセフは本当に正しい人だったからこそ、マリアをさらし者にせずに秘かに離縁して去らせることにした、とも説明できます。自分が「婚約者に逃げられた」とか「何故か破談になった」とか噂されようと、汚名をかぶってでもマリアを守ろうとした。ヨセフが本当の意味で正しい人だった、という理解です。

 もう一つは、マリアが聖霊によって身ごもったと分かったからこそ、「正しい」ヨセフは身を引こうとし、ただマリアをさらし者にしないよう、秘かに離縁を図ったのではとも思うのです。

 しかし、ヨセフが思い悩んでいた夜、

20…見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。

 御使いはヨセフの心の

「恐れ」

を指摘します。ヨセフの

「正しさ」

が何であれ、その奥には恐れがありました。それは「律法を守らなければ」という恐れだったかも知れません。マリアと離縁するにしても「さらし者にする」ことへの恐れだったかも知れません。あるいは自分なんかが聖霊によって身ごもって特別な子を産む特別なマリアと結婚することへの恐れだったかも知れません。自分と血の繋がっていない子を愛せるだろうか、自分の子でない子を宿したマリアを愛せるだろうか、という不安だったかも知れません。いずれにせよヨセフは、マリアを秘かに離縁しようと決心しながら逡巡しました。正しい彼の願いは、どうすることが本当に正しいのかという迷い、恐れがつきまとっていました。婚約者が自分の子でない子を身ごもる、という展開は想定外だったでしょう。

 想定外のこと、自分の物差しや基準や経験では対処できない事態に直面した時、私たちは恐れます。自分の経験や基準だけでバッサリ切り捨てることも出来るけれど、それでいいのか。或いはその状況を庇(かば)い、黙認して、なかったことにする、そういう処理の仕方も出来るけれど、それもそれでいいのか、迷うのかも知れません。人間が自分でもっと正しくなり、間違いを糺し、厳格に罪を処罰しようともします。あるいは罪を庇い、問題に蓋をし、遠ざければ解決しようとします。正しい方である神に対して、どうすることが正しいのか、人間は迷い、恐れながら、ますます戦いや断絶を造ってしまうのです。

 主の使いが告げたのはそうした方法よりも、もっと深い

「恐れ」

を取り扱います。恐れることはない、マリアを迎えよ。その子は聖霊によって宿った子だ、この方こそご自分の民をその罪から救ってくださる方だ。その方は恐れや人の正しさよりも大きなお方だ、というようです。

3.神は「とも」に

 生まれる子どもに名付けよと命じられる

「イエス」

とは「主は救い」という意味です。この方こそご自分の民をその罪から救ってくださる方だ、と言います。人間の罪というのは抽象的な問題ではありません。それは旧約聖書においてとてもリアルに描かれます。アブラハム、ダビデ、ヨセフに至る系図で明らかですし、人間が神を裏切ったり、戦争をしたり家族で傷つけ合ったり、関係を壊したり、恐れや疑いで行動してしまうことにも現れています。そういう歴史の末ともいえるここで、神が示してくださったのは、神が罪からの救い主を送って下さるという道です。神ご自身が、マリアの胎に宿って、罪から民を救って下さるという希望です。正しくない人間、正しくあろうと願いながらも、どうすればいいのか分からずにいる人間のために、神ご自身が来て下さった。この方が私たちの王になり、恐れや心配を取り除いてくださる。

 23節は、旧約聖書のイザヤ書七章に出て来る言葉です。これもまた、イスラエルの歴史でも最悪の王の一人アハズ王が神に背いた生き方を晒している時の出来事です。神を信じない、恐れや問題に向き合えない、そういう人間に対して、神が強くこの言葉を仰ったのです。しかしそれはアハズから何百年も先のイエスの誕生を預言しただけではありません。この時、主はイザヤに自分の幼い子どもを連れて行け、と言われています。その子どもを脇に立たせながら、イザヤはアハズ王に

「男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」

と告げるのです。イザヤの脇に子どもがいるように、神は私たちとともにおられる。いや、その「ともにいる神」をそのまま現すような赤ちゃんが生まれる、と仰いました[1]。そして、そのイエスこそ全世界の王であり、今も私たちとともにおられ、私たちにどんな罪や問題や恐れがあろうとも、それでもともにいてくださる、というのです。神は、私たちとともにおられる王です。私たちの恐れや罪や過去や限界も全部承知の上で、私たちから決して離れず、ともにいてくださる。文字通りの「友」、心の理解者です。私たちが正しく生きれば罪を赦してやろう、というお方であれば、私たちの心の底の恐れや不安は決して拭えません。イエスは、私たちのちっぽけな正義や経験よりももっと大きくて、私たちがどんなに不安や恐れに囚われているかもちゃんと見抜いておられます。そういう友の存在こそが、私たちを恐れから自由にして、愛や友情に裏付けられた正しい生き方へと進ませてくれます。それは本当に素晴らしい「救い」です。

「主が私たちを罪から救い、私たちとともにおられます。それゆえ、私たちもお互いに、恐れたり小さな物差しで裁いたりせず、大きな主の御手の中に、あなたの民としてともに歩んで行くことが出来ます。罪や限界さえもあなたが取り扱って、恵みにしてくださいます。そのあなたの良き御支配を心から告白し、あなたが王として完全においでになる日を待ち望みます」



[1] 赤ん坊の形で。七14、3、八8、10も。九章、一一章と、小さな子どものイメージ。実際のイザヤの子ども同伴も。

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ルカの福音書1章26-38節「幸いなマリア」

2017-12-03 17:08:07 | クリスマス

2017/12/3 ルカの福音書1章26-38節「幸いなマリア」

1.この世界の片隅に

 アドベントに入り、キリストのお生まれからお話しします。今週はイエスの母となるマリアに御使いガブリエルが現れ、キリストを宿すことを告げた「受胎告知」の箇所です。何十回と聞いて来た箇所だからこそ、このマリアの選びは驚くべき展開だった事実を思い出しましょう。

 「さて、その六か月目に」

とある25節までの話には、エルサレムの神殿で御使いガブリエルが現れた出来事が書かれています。彼は民の代表として務めていた祭司ザカリヤに現れたのですが、ザカリヤはせっかくの約束を疑ってしまいます。そのため、彼は口がきけなくなって、神殿から出て来て身振り手振りで合図するしか出来なかった。御使いの約束通り、ザカリヤの妻エリサベツは身ごもりますが、それを信じられなかったザカリヤが口をきけない事実が影を落としていました。

 それから「六か月」。エリサベツの体調が安定して、あの不思議な御使いの出来事も忘れられようとしていた頃、あの御使いがもう一度現れたのです。それは、エルサレムではなく、ダビデ王の生まれたベツレヘムでもなく、北の辺境の片田舎、ナザレにでした。またその町の優れた教師や熱心な人にではありませんでした。一人の結婚前の少女の所にでした。当時の考えでは、女性は教育の対象とは見なされず、子どもは人間として扱われませんでした。しかし神は、誰も気づかない時この世界の片隅、ナザレの町にいた少女マリアに現れたのです。

 マリアは御使いの挨拶を聞いても、落ち着いたり恭しく受け取ったりせず、

29この言葉にひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。

 まったく予期しない御使いの登場とその挨拶に彼女は戦きます。御使いはマリアに

「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。31見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。32その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。33彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」

 マリアは既にヨセフの許嫁でしたから、こうも思えたでしょう。「そうか、私がこれからヨセフと結婚して生まれる子はやがて王になるのね。楽しみだわ」。でも彼女はそうでなく、

「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」

と答えるのです。御使いの登場は人生の計画やマリアの世界を引っ繰り返しました。結果的にはマリアはヨセフと一緒になりますが、マタイが伝える通り婚約は一旦解消しかけたぐらいの出来事でした。それ自体、生まれて来る王の支配の不思議さ、常識外れを物語ることでした。

2.神の支配の真逆さ

 交読文ではこの時マリアが歌った46節以下の「マリアの賛歌」を読みました。マリアは、

ルカ一46私のたましいは主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます。この卑しいはしために目を留めてくださったからです。ご覧ください。今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう。力ある方が私に大きなことをしてくださったから…

と言います。マリアは自分を

「卑しいはしため」

と呼びます。ご謙遜や社交辞令ではなく、マリアは本当に自分の事をそう思っていたのでしょう。私たちは「イエスの母になるほどのマリアはきっと素晴らしい女性だったに違いない。他の人とは土台が違う信仰深い少女だったはずだ」と思いたがります。「ナザレの村に埋もれていた素晴らしい少女を主はちゃんとご存じで、敬虔なマリアを用いてくださった」とか何とか。マリアが歌っているのはその反対です。主が私にも目を留めて下さった。だから後々の人も

「私を幸いな者と呼ぶでしょう」

と歌います。でもそれは、自分がそれに相応しいからではなく、主が目を留めてくださったからです。

 50節、54節に

「主のあわれみ」

という言葉が出て来ます。新改訳2017では欄外で「真実の愛」と説明されています。この「真実の愛」は新改訳2017の目立つ工夫の一つでヘブル語の「ヘセド」―「真実・愛・恵み」と訳されてきた、神の特別な深く真実な愛です。その神の慈悲を戴いて、私も幸いな者となった。そして自分だけではない、主を恐れる全ての人に主が幸いを与えてくださる。マリアへの受胎告知は、マリアが特別なのではなく、神が「真実な愛」で卑しいものを引き上げて幸いにしてくださる証しです。マリアだけでなく、私たちも神が「幸いな者」とされる、主のあわれみに生かされているのです。その「真実の愛(あわれみ)」こそ神の御支配であって、それは人間の力の支配や心の思いよりも遙かに強い御支配です。

 51節以下、主が高ぶる者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろし、低い者を高く引き上げられたとあります。裏を返せば、世界はまさにその逆です。声の大きい者が勝ち、力や知恵ある者が権力の座に着くのです。小さな者、貧しい者、賢くない人は馬鹿を見て、それは要領が悪いから、自己責任だから、本人の問題だ、と言われます。そういう世界の中で、御使いは誰も思わない世界の片隅に現れました。そこで生きるまだ少女のマリアに現れたのです。

3.神の国は子どもたちの国

 マリアは戦いて疑問も口にしましたが、38節で

「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」

と受け入れます。何故でしょう。最大の要因はマリアがまだ少女だったからでしょう。老齢になっていたザカリヤは経験や常識が邪魔をして信じることが出来ませんでした。マリアはザカリヤほど人生経験がなかった少女だったから、

「子どものように信じる」

ことが出来た面を見落としてはなりません[1]

 10月より礼拝の「招詞」に、イエスが弟子たちを招かれた時、子どもを真ん中に立たせて、子どもを受け入れる者こそ神を受け入れる、と言われた言葉を入れました[2]。神の招きを受け入れる、礼拝に相応しい態度、ということを考える際、陥りやすいのは子どもには「邪魔をしてはいけない」と窘めるような考えです。子どもにとっての教育は必要ですが、しかし、大人のためや神が喜ばれる礼拝を考えてなら、イエスは全く逆を仰いました。子どもを受け入れないなら主をも神をも受け入れてはいない、と言われるのです。

 勿論、よい意味で成長し、成熟して、洞察を持つことは必要です。幼稚で単純で考えずに信じるのが良いのではありません。騙されないよう注意深くする必要はあります。しかしクリスマスにハッキリ示されているのは、神が憐れみ深く、この世の闇に来られること、人間の思い上がった力を覆されることです。私たちのために主が人となって来られ、すべてを新しくなさったこと、そしてやがて完全にその真実な恵みが地を覆う時が来ること[3]。まだ見えないその約束を、子どものように受け入れて、歩み続ける幼子の信仰を、マリアという少女の姿が私たちに語りかけています。クリスマスを祝い、主の御降誕を信じつつ、憐れみなんて綺麗事に過ぎない、とどこかでシッカリ思っているのではなく、憐れみの主が今この世界を治めておられる、と信じるよう迫られるのです。

 マリアがもし御使いの言葉を信じなかったらどうなったでしょう。それは前のザカリヤの話や45節に示される通りです。マリアが信じなかったとしても、主によって語られた通りイエスは宿ったのです。それほどの主の憐れみだからこそ、マリアは受け入れたのです。私たちが信じられず抵抗しても、主は低い者を引き上げられます。高ぶる者を追い散らし、やがて世界を主の恵みによって治められます。そのために、イエスは卑しい生涯を歩まれ、十字架に架かられました。主の憐れみなど見えない道を通られました。でもその最後は、復活でした。主の恵みこそ、死よりも強い力があったのです。そのイエスのお生まれです。主の約束など信じられない、悪い方に悪い方に考え、諦め、期待もしない。そういう心を砕かれて、救い主がお生まれになったという疑いない事実に、幼子のように立ち戻るためのクリスマスです。

「失われた者を捜して救うために来られた王よ。マリアに宿られたあなたが、私たちにも来て下さり、卑しいものを引き上げて、幸いを与えてくださいます。恵みを諦めている心を新しくしてください。冷たく刺々しい心を捨てさせてください。憐れみに満ちたあなたこそ王であることを、綺麗事や夢物語ではなく、私たちの力強い希望として一歩一歩を進ませてください」



[1] 更に言えば、「マリアが信じたから、イエスの母になった」という考え方も誤解でしょう。先のザカリヤの例が示すとおり、信じない場合のデメリットは伴うにせよ、神が言われたことは必ず成就するのであって、マリアが信じる事が条件ではないのです。その力強いあわれみの支配を前にしたからこそ、マリアは信じて受け入れることに踏み出すことが出来ました。信仰は「条件」ではありません。神の恵みは無条件です。その無条件の恵みが私たちの心に、恵みへの応答としての信仰をもたらすのです。

[2] マタイ九36-37。

[3] クリスマスはイエスが私たちの所にお生まれになった、というメッセージだと言われます。その「私たち」は「自分たち」だけでなく、私たちが見下したり煩わしく思ったり眼中にさえ置いていない人も含めての「私たち」です。いいえ、私たちが人を軽んじたり、人間的な常識で諦めたり、聖書の言葉よりも人間の支配や力の方が所詮は強いのだ、と諦めたりしている、その私たちの不信仰を暴露して、引っ繰り返してしまうのがクリスマスです。そして、そのような私たちの中にキリストはおいでになった。このイエスが永久に世界を治め、その支配に終わりはないのです。そのお方が、奇蹟や眩い出来事ではなく、世界の片隅に現れること、しかもご自身が、小さな子どもとなって、その前に胎児となってマリアに宿られた。そうして、世界の王が「捨て身」で恵みを示されたのがキリストの誕生でした。

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