なんでも始まりがあれば、終わりがある。早いもので私のM大学での基礎物理学の授業も今日で終わりとなった。再来週に試験があって終わりとなる。
さすがに今日は最後の授業だったので質問をされても答えることはできませんと断っていたら、質問はなかった。ねぎらいの言葉とよくわかったという人が半分とやはりよくわからなかったという人が半分に分かれた。
そもそも理解を要する講義で講義を聞いていただけでわかるなんてことは私は信じない。自分でわかろうとする努力なくしてわかることなどないと思う。
でもわかったといってくれた人が半分近くいたということは高校時代とか大学入学のための受験勉強で自分がいくらかわかろうとして勉強したことがあったからに違いない。そういう予備知識があれば、理解可能だったということだろう。
一方、難しかったとかわからなかったという人には私の授業をよく聞いてかつ教材のプリントを読んだりして努力をしなかったのなら、わかることは難しかろう。もっともそうしてもわからなかったという人がいるのならば、謝るほかはないが、そういう人にとっては理解のヒントは十分に与えたつもりである。
いつも思うが、なんでもわかろうと思う意思をもっていない人にはものごとをわからすことなどできはしない。これはわかるという行為がとても個人的な行為だということから来ていると思う。
来年この授業をすることができるのかどうかはわからない。講義をするという人生は今年で終わるつもりでいる。
大学教育は技術立国の基礎となるものと思います。技術者として生きていく人には必ず役に立つと思います。
また、技術者とならない人にも講義の内容は必ずその人の中に残り、人生の役に立つのだと思います。特に基礎的な学問はそうだと思います。その人の人生観にも反映し人間形成の土台になっていくのだと思います。