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成宗村用水

2017-05-11 06:19:42 | 善福寺川4

 以下は成宗村の用水に関する「新編武蔵風土記稿」の記述です。「遅野井村善福寺池より出、西の方田端村より当村に入、凡八町ばかり流れ和田村界ひにて神田上水へおち入、此流に設たる堰四ヶ所あり、一は西の方字権現下にあり、一は天神下にあり、余二ヶ所は小名尾崎の内にあり、共に自普請所なり」 権現は成宗村小名尾崎の鎮守の現熊野神社、その下の堰は田端、成宗の村境にあって右岸に用水を分岐していました。一方、天神は田端村小名田端の鎮守の現田端神社、その下の堰(広場堰)から成宗田圃を灌漑する様子は、前クールで詳細しました。最後の二つは五日市街道以南にあって、連続して左岸に分岐しているもので、小名白幡を灌漑していました。なお、「自普請」とあるのは、維持、管理費は村持ちだったということです。

 

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    ・ 「成宗村絵図」  「杉並近世絵図」(平成5年 杉並区教育委員会)に収録された「田端、成宗村村絵図」を元に、成宗村を中心にその堰と田用水を強調したもので、→ 「田端村絵図」の右側に連続します。  

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    ・ 権現堰  せきれい橋から下流方向です。権現堰は左カーブ付近に設けられ、右岸に用水を分岐し尾崎田圃を灌漑していました。

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    ・ 熊野神社  権現堰の設けられたあたりを右岸から望む舌状台地の際にあり、小名尾崎の鎮守でした。境内からは縄文時代早期の土器片や前期の住居跡が発掘されています。

 「星野家文書」(昭和58年 杉並区教育委員会)は、明治10年前後の東京府知事宛て「堰設置願い」を収録していますが、成宗村にかかわる堰として「草堰三ヶ処」が数えられています。これは「新編武蔵風土記稿」の四ヶ所と不一致のようですが、設置場所は田端、灌漑場所は成宗の天神下堰(広場堰)をどちらに数えたかによるものなのでしょう。例えば下荻窪村二ヶ所(薪屋堰、田端堰)のように、「堰設置願い」では設置場所ごとにカウントされています。なお、草堰は杭に草や土を充填した簡易の堰で、夏季(5~10月)限定で設置され、旱魃減水の際は撤去されることもありました。