神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

上井草村境2

2015-04-15 06:23:59 | 千川用水2

 七ヶ村分水口のところで引用した武蔵高等学校報国団民族文化部門編「千川上水」の続きで、竹下稲荷から先の七ヶ村分水(同書では「井草村分水」)の様子です。「百米程行くと祠があり、こゝの前からはたゞ形ばかりの溝で、幅も狭く、昔の面影は見られない(略圖第二)。更に辿れば四百米程行って、杉並区新町の青梅街道が廣く改修された地點で消えてゐる。こゝには江戸末期の地蔵が寂然と立ってゐる。」 文章中に「略圖第二」とありますが、これは当時の青梅街道と「井草村分水」を描いたもので、その代わりに、ほぼ同様の位置関係にある7年後に米軍によって撮影された空中写真をUPします。

 

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  七ヶ村分水口のところと前回UPした「空中写真」を含む、より広範囲のもので、白点線で重ねたのが練馬、杉並の区境です。

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    ・ 青梅街道上井草4交差点  振り返っての撮影で、前回UPの区境のスペースが、右手の信号の奥にチラッと見えています。七ヶ村分水はそこから街道に沿い、左手の荻窪方面に流れていたことになります。

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    ・ 村境の地蔵尊  上掲写真の正面の建物の前に祀られていて、引用した「千川上水」に「江戸末期の地蔵が寂然と立って」とあるものです。

 向かって左隣の「百番観世音供養塔」には、「遅野井村」「竹田新田」両村の奉納者の名前が刻まれています。遅野井は善福寺池のことで、遅野井村は上井草村の別名です。稲荷社からここまでの七ヶ村分水は、その上井草村と竹田新田の境でもありました。それが、丁度地蔵や供養塔の立っている位置で、村境は分水と離れて青梅街道を横断、北に向かっており、村境の目印のような役割も兼ねていたのでしょう。なお、この位置関係は現在も変わらず、「空中写真」に書き込んだように、杉並区と練馬区の区境に引き継がれています。