「うつせみ和尚」のお説教

『うつせみ和尚の日記』二件の事故が元で『(複雑性)PTSD/鬱』になって
闘病、障害当事者として活動している者です。

精神世界への誘い 「『障がいとは私のオプション』-寛解が全ての答えではない」

2022年08月06日 01時49分41秒 | うつせみの精神世界への誘い
最近、私がフォローしているTwitter界隈では「私が寛解した方法を教えます!」というようなあたかも『私と同じ方法をとれば全員寛解して幸せになれますよ』(ちょっと拡大解釈)。そんな書き込みが頻繁にあります。しかしそんな話しは無いわけで、これが寛解に至った人だけではなくてDr.や心理師さえも「100%請け合います」と解釈されても仕方のないような謳い文句を掲げていて、正直「詐欺師」と思ってしまいます。いま現在苦しんでいる方に対して失礼なように思います。だって、「安請け合い」の何物でもないのですから。
私自身「寛解に近いかな?」とは思うのですが、まだまだ生活に困りますし、正直「誰か助けを・・・」と思うことも少なくありません。おおかたの人は助けを呼べずに苦しんでいるのです。それは「申し訳ない」「迷惑になる」「自分なんて…」という自分を卑下する位置から動くことの出来ない方が多いからです。私はというと前職を離れてから社会資源と遠ざかってしまった感はあります。何年も「支援者」の立場であった者が、いざ自分が困ると社会資源に繋がれない。なんという皮肉…。同じ当事者の方に「ヘルパーさん入れないの?」といわれて方法がわからない私です。まぁ、サービスを受ける受けないは別にして、この「困っている日常」を謳歌している自分がいるのです。この「困っている日常」を抱えていながら当事者として支援も出来るし、コメントも出来る。これは「困っている私」だからできるのではないかと思います。今回右膝の手術をして思ったのは「あぁ、前に左足の甲を骨折した痛みも、いっぱい皮膚移植した苦しみもすっかり忘れている」とつくづく思い起こして、入院も後半に差し掛かって、不自由さ・痛みをやり過ごす方法・入院生活のコツなんかを思い出して「いまさら思い出したよ」と悔しがっていました。『達観』ではなくて「痛みや苦しみの中でもがいている自分」と「一歩下がって冷静に自分を見つめる自分」を両方持たなければいけなかったのですが「喉元過ぎれば熱さを忘れる」の故事に違わずすっかりと抜け落ちていたのです。ただただ苦しむ自分のみだったのです。ですから、克服した事に対して、過去の自分といま同じ痛み/苦しみの中にあるであろう隣人に対して「安易な助言」は禁物なのです。だって、いま助言しようとしている自分は過去の痛み/苦しみはもはや「Live(現在)」ではないのだから。助言・共感は慎重にしなければいけないが、この「無責任なSNS無責任発言時代」においては助言を受ける側が取捨選択しなければドンドン発言をやたらと受けるばかりです。ずーっと『デッドボール状態』です。この無責任に投げ込まれる発言を全て打ち返す必要は無くて「時にはスルー」というか「ずっとスルー」でも良いくらいです。なんならこのブログさえも「スルーしてもいいくらいです。すべては「自分の都合が最優先」です。
さまざまな先輩障害当事者でもその方と判で押したように同じ障害を抱えている人は皆無です。その立場に立って当事者としての、または障害を経験した人の立場として分をわきまえて支援/助言することが肝要でそうでなくては「無責任発言」この上ないのです。
決して「いまの障害・困難を克服してはならない」と言っているのではなくて、克服は大いに結構!しかし、克服した自分の軌跡は自分だけのものなので共用を強要しないこと。克服する努力はしつつ、もし克服出来ない自分がいたなら自分を否定しない、卑下しない「障害や困難は自分の人生のオプションという気持ちでいたいものです。ちょっとオプションを付けすぎたきらいはありますが…。少しの喜びと多くの困難、苦しみだと思いますが全てを平らげて生きて行きたい。
あくまでも理想、希望ですが





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