私はまだマシなのかもしれない。
平日には危険ではあるが交通機関を使って通勤している。
仕事に行けるのと行けないのでは一日の生活リズムがずいぶん違ってきます。
さて、今回の投稿は「日常」✕「非日常」です。
今、世界がこのような状態になって、特に社会的弱者は不安な毎日を過ごしています。
ですが、今の状態をヨーロッパでは「感染症との共生」という考え方にシフトチェンジ
しつつあるようです。
私はこの考えについてはまだ思案中で私の中でのとらえ方は答えが出ていませんが
感染症に怯える日々からそれと付き合いながら生きるというのは
「非日常を『常』とする」ことだと思っています。
日本にある言葉として「常在戦場」というのがあります。
この言葉も同義語だと思いますが、日本のように自衛隊を除く多くの国民は
「戦場」といわれてもピンと来ないでしょうが、
先日、母と電話することがあって、そのとき私が言ったのは
「なぜ、世間で自粛せず、パチンコや観光にいってしまうのか?
新型コロナというものは見えないから、おのおのがイメージすることによってでしか
自粛できない。新型コロナという爆弾が空から毎日降ってきていると思えば、
『不要不急の外出』も可能になるはずだけど、緊迫感を想像したくない
人間がいるのでこの結果なんだろう。結局は罹ってからの『臨場感』を
体験してから後悔するしかないのでは?」
私が感じているところだと、緊急非常事態の延長と停止の都道府県を作って
しまったことで「隣県がいいなら」と、引き続き非常事態宣言が出ている人たちの
「勝手な解釈」によってのこの人手の増加なのではないかと思っている。
これも先ほど言ったような、『臨場感』や『イメージ力の欠如』なのでしょう。
今の新型コロナの先端は南米やアフリカになっている。この地域が蔓延していけば
蔓延時期を過ぎた国々に「第二次新型コロナの再上陸」は免れないと思っておいる。
新型コロナのような感染症に限らず、平時であってもすべての事柄に
『臨場感』や『イメージ力』を持って行かなければ「コロナ後の世界」は
「コロナ前の世界」と同じ「不寛容の時代」や「拝金時代」は続いていくと思っている。
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