<私を返して>旧優生保護法国賠訴訟(上)葬られた生/幸せも夢も無駄に
<私を返して>旧優生保護法国賠訴訟(中)偽りの台帳/本人同意なく手術
<私を返して>旧優生保護法国賠訴訟(下)消えぬ差別/子ども 欲しかった
「旧・優生保護法(母体保護法)」というのは戦前からある「国民優性法」を後に戦後、
形を変えて立法化したものである。
ナチスでも「アーリア人」の優位性を掲げ、ユダヤ人大量虐殺の切っ掛けとなったのも
日本の「国民優性法」という「障害者虐待法」とも言うべき考えと発想は同じである。
これは今でも残る様々な差別を「日本国として認める」ことになり今でも法律は無くなったが
考えは日本国民のこころの底に流れている。
このニュースで宮城県の事が取り上げられているが、そこだけの話しではない。
私の住む京都府は長らく都だったため、その差別も激しく、その考えは今でも残っていて
行政でさえ差別を見込んで日常の業務をこなしている現実がある。
私が京都市内のある区の窓口に行ったとき、
「被差別」というゴム印が窓口に忘れて置いてあった。
国会議員でさえ、「日本は単一民族の国である。」と言っていた方もおり、
この発言は視野がすっかり狭くなってしまった「無学の国民」を代表した発言であると言って良い。
これと同様に「日本に差別は無い。」と言ってのけたりするのも
「めでたい国民性」を反映したものだろう。
「考えの範疇が自分の体を超えていない」ことは『差別意識』の温床であろう。
「無学=差別」という一見飛躍したような考えの移行に見えるかもしれないが
「無学」と「差別」は『=』で結べるような直結した考えなのである。
今、国会では「日本国の貧富の差」をどう埋めるかもひとつの論点として
代表質問に上げられているが、そこからさらに「なぜ、貧しくなったのか?」
「それは最近なのか?代々家が継いでいるものなのか?」という違いもある。
貧しい家のでの人はその家の子も貧しいというパーセンテージが非常に高い。
「これは学びが得られない」ということもあるが、「被差別」に育てば、
世の中の偏見から、就職で不利を強いられたりすることはそんなに珍しいことでは無い。
「珍しいことでは無い」といったが、これが常であることが
「本当に豊かといえない日本」を生み出していることは間違いない。
まずは隣人に興味を持ち理不尽な「差」を是正する気持ちが無くては
広範な価値観というものは一生涯持てないだろう。