現代は「楽な方楽な方」に進む人間と、
堪えず自分を厳しいところに追いやる人間と、
大きく『二極化』しているように思う。
さぁ~てねぇ・・・
私から言うと、『大いなる苦』を抜け出た人間というのは
「屈曲した人間」が生み出されるのではないかと思っている。
ただ、「苦しみから抜け出たい、誰かを犠牲にしてでも抜け出したい」と。
「苦しみから抜け出して立派な方がいるじゃないか!!」というかもしれない。
たとえば、比叡山延暦寺の「千日回峰」というのがあるが、
あれはなにか得られるのだろうか?
苦行に苦行を重ねて、体を酷使し体が「幻覚を感じる状態」になっているだけではないか?
もし私の論が正しければ、「苦行」には意味が無いだろう。
ゴータマ・ブッダ(いわゆる「釈尊」)は、
インドの先達達が行っていた「苦行」をやってみたがなにも得られなかったという。
青年ゴータマは、元々王子様だったから「楽ちんな生活」は、
「人間を堕落させる」ことを既に知っていた、と思われる。
そして、城を抜け出して途中「苦行」という『方法』を用いるわけですが、
前述したとおりダメでした。
じゃぁ、なにが良いのか?
と言うことで『苦楽中道』と言う結論になるのですが、
これはしかし、大いに誤解を招く可能性のある言葉です。
「じゃぁ、なにもしなくて良いんだ!」ではないのです。
精神を常に敏として日常の変化からも悟りを得る
例えば、落ち葉の中を歩んでいて踏みしめる「音の違い」から世の中の原理を悟る-
など、「悟り」の材料は日常にゴロゴロと転がっているのでしょう。
私は感じるに「平静」で且つ「敏」この両輪ではないかと思う。
そして思うのは「『悟り』は、持続しないもの」だと思っている。
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堪えず自分を厳しいところに追いやる人間と、
大きく『二極化』しているように思う。
さぁ~てねぇ・・・
私から言うと、『大いなる苦』を抜け出た人間というのは
「屈曲した人間」が生み出されるのではないかと思っている。
ただ、「苦しみから抜け出たい、誰かを犠牲にしてでも抜け出したい」と。
「苦しみから抜け出して立派な方がいるじゃないか!!」というかもしれない。
たとえば、比叡山延暦寺の「千日回峰」というのがあるが、
あれはなにか得られるのだろうか?
苦行に苦行を重ねて、体を酷使し体が「幻覚を感じる状態」になっているだけではないか?
もし私の論が正しければ、「苦行」には意味が無いだろう。
ゴータマ・ブッダ(いわゆる「釈尊」)は、
インドの先達達が行っていた「苦行」をやってみたがなにも得られなかったという。
青年ゴータマは、元々王子様だったから「楽ちんな生活」は、
「人間を堕落させる」ことを既に知っていた、と思われる。
そして、城を抜け出して途中「苦行」という『方法』を用いるわけですが、
前述したとおりダメでした。
じゃぁ、なにが良いのか?
と言うことで『苦楽中道』と言う結論になるのですが、
これはしかし、大いに誤解を招く可能性のある言葉です。
「じゃぁ、なにもしなくて良いんだ!」ではないのです。
精神を常に敏として日常の変化からも悟りを得る
例えば、落ち葉の中を歩んでいて踏みしめる「音の違い」から世の中の原理を悟る-
など、「悟り」の材料は日常にゴロゴロと転がっているのでしょう。
私は感じるに「平静」で且つ「敏」この両輪ではないかと思う。
そして思うのは「『悟り』は、持続しないもの」だと思っている。
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