モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

日本的りべらりずむⅥ 京極派の和歌(1)『玉葉和歌集』『風雅和歌集』の中核をなした京極派とは?

2021年11月15日 | 日本的りべらりずむ

これから取り上げていく“京極派の歌人たち”は、鎌倉時代後期・南北朝期に編纂された勅撰和歌集『玉葉和歌集』および『風雅和歌集』の中核をなす人々です。

彼らの歌を軸としてそこに開かれていった和歌表現の新地平を紹介しつつ、「観照の文化」史上での意義と日本的りべらりずむの一局面を論じてみたいと思います。

玉葉集・風雅集といえば、私が高校で学んだ古文や日本史では、新古今和歌集以降の沈滞した宮廷文化の中で編まれた、
技巧偏重・形式重視の一連の和歌集のひとつとしてわずか一行の記述で済まされていたイメージがあります。

しかし数年前になにかのきっかけで玉葉集をひもといてみたところ、
私にはある意味とても清新なイメージに満ちた王朝和歌の世界が繰り広げられているように感じられ、
私の鑑賞の仕方が間違っているのかなといぶかしく思ったものです。

それで参考文献などで確認してみると、私の鑑賞の仕方は決して間違っているわけではなく、
一部の研究者――たとえば国文学界では折口信夫、小西甚一、短歌界では藤岡作太郎、与謝野鉄幹、土岐善麿といった人たちが高く評価して、
京極派歌人たちの近代における再発見の機縁となったことを知りました。

今では私個人としては、玉葉・風雅をして王朝和歌の頂点と見なしたいと密かに思っています。

折口信夫も「短歌の本質といふものは、実は玉葉、風雅に、完成して居たのである」と書いています。(「短歌本質成立の時代」より)



京極派の和歌が長い間日本和歌文芸史に埋もれたままであったのは、
京極派を批判した二条派(藤原俊成-定家-為家と続く和歌の家の本流を継いだ二条為氏に始まる和歌の流派)が江戸末期まで日本和歌壇の趨勢を支配してきたためとされています。
明治期になってようやく再評価の気運が芽生えてくるわけですが、
戦後教育においても玉葉・風雅の和歌は不当な評価を受けたままであったことは、私自身が経験したことであります。

京極派の歴史的な位置付けをしておきますと、為氏が二条派の領袖となる一方で、為氏の庶弟為教は京極家に、同じく為相は冷泉家に分家します。

京極為教の子為兼は二条派に対抗して新しい和歌創作論を提唱すると、
為兼が仕えていた皇太子時代の伏見天皇とその取り巻きの若者たちに受け入れられ、京極派和歌の創作が試みられていきます。

だいたい1280年代半ばのことですが、このころ皇統は持明院統と大覚寺統に分かれていて、後の南北朝の前哨をなしていました。
そのような政治的な状況の中で京極派歌人は伏見天皇の境遇とともに有為転変を重ねるのですが、
1352年に起こった室町幕府の内紛に巻き込まれて壊滅するまで、活動期間は60年に及んでいます。

そしてこの間に『玉葉和歌集』(1312年)、『風雅和歌集』(1349年)が編纂されて、京極派和歌の果実を歴史にとどめることができたのでした。



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