モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

Ⅰ‐2 近松門左衛門「曽根崎心中」(上)●理が立たねば、死なねばならぬ

2021年02月11日 | 日本的りべらりずむ
『曽根崎心中』を初めて読んだときに筆者が受けた印象は、何よりも出だしの異様さです。

舞台となる大坂市中の西国三十三所の観音巡りが語られるのですが,
この出だしについて諸解説は、近松の精神的バックボーンをなす仏教的なイメージによる魂の救済のテーマを提示するもの、などと書かれています。

しかしどちらかというと、延々と続く語りに抹香臭さが立ち込めてきて異様な感じをぬぐいきれないでいました。


そういう中で、近世芸能文化の研究者である広末保が、『曽根崎心中』は主人公の二人の霊をこの世に呼び戻して、
もう一度生き直す(心中へと至る出来事をもう一度なぞる)という形で構想した、
(実際、冒頭は「げにや安楽世界より、今この娑婆に示現して」と書き出されています。)
そして二人の若者の死の意味、心中の意味を劇的想像力の中で造形することによって魂の成仏をくわだてたのだという解釈に出会って、なるほどなと得心しました。

広末の解釈をさらに煮詰めていきますと、二人の死のシーンをどう描くかというところまで見通した上で、
ということは、心中の意味を近松なりに完璧につかみきった上で書き始めたと筆者は考えたいと思います。

それはつまり人間の死の意味を見出すことであり、同時にそのことを通して作劇の新しい世界が開けてきたということを意味していたに違いありません。

そのような万感の思いの炸裂するような勢いがこの出だしから感じられます。



話の流れは、おはつと徳兵衛が再会するところから心中に至るまで一直線に進んでいきます。

もちろん、死へと追い込まれていく経緯がドラマの進行とともに語られていて、
そこに登場する脇役たちもそれなりの意味が託されていることは言うまでもありませんが、
究極の目的はやはり心中の場面を描くところにあったことには違いありません。

再会から心中までの時間経過がすこぶる早く、徳兵衛が金を貸した相手の九平次から辱めを受け、
その九平次が茶屋で徳兵衛の悪口を言うのを、徳兵衛がおはつにかくまわれた状態で聞きながら、死を決意する、
それがその日のうちのことで、1日と経っていません。

しかも最初に死を決意するのはおはつの方で、徳兵衛の側の「理が立たぬ」と判断して、
縁の下で聞いている徳兵衛に、次のように伝えます、
「徳様も死なねばならぬ、死ぬる覚悟が聞きたい…。」

おはつ自身が「理が立たない」わけではないにもかかわらず、徳兵衛と一緒に死のうと誘いかけ、その覚悟を問うのです。


同じ近松による他の心中ものでも、大抵は覚悟を決めるのがあっという間のことで、
しかも先に女性が決断して、男に同意を求める形が多いようです。

このことは、追いつめられれば死しか選択肢がないということを意味している、
近松が生きた時代(1700年前後)は、特に女性たちはそういう境遇に置かれていたと想像されます。

                                (つづく)

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