モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

Ⅰ-1 近松門左衛門「近松は日本のシェークスピアか?」

2021年02月01日 | 日本的りべらりずむ
近松門左衛門は日本のシェークスピアという噂を聞いたことがあります。
どこからそんな話が出てきたのか、私は文献資料に遭遇したことがないのですが、
数年前にたまたま『曽根崎心中』を読んでいて、創作の仕方の上ではむしろ逆に両者違いの方が鮮明に意識されてきました。

一番大きな違いは、いわゆる主人公の身分設定の仕方です。
すなわち、シェークスピア劇の主人公の大半は、国王だの王子だの領主だの、
上流階級のトップに位置する人だの、若い美貌の男女だの、いわゆるエリートとされる人たちで、
主題となる事柄も、そのエリートに担わされる時代的な課題とか運命的な不条理とか、
大時代的、あるいは思想的な問題意識であったりするわけです。
そしてそのような問題性を担わされた主人公が、葛藤しながらもいかに主体的に生きていこうとするか、
あるいは悲劇へと邁進していくかが,ドラマツルギーを組み立てていく推進力となっていきます。

対して『曽根崎心中』の主人公おはつと徳兵衛は、遊女と商家の手代という、ふつうのアノニマス(無名)な庶民にすぎなく、
特別際立った個性とか、思想とかを有しているわけでもありません。
また彼らの生き方が彼らの主体性によって切り開かれたり破滅に向かっていったりするのではなく、
いわば眼に見えない社会的な取り決めや拘束力のようなものに促されて、悲劇的な結末へと導かれていきます。

両者の違いは、西暦1600年前後のイギリスの社会状況と、1700年前後の日本の社会状況、
および、観客が観劇に求めていたものとの違いに由来するところがもちろんあると思いますが、
そういった条件的な事柄はとりあえず横に置いて、劇の成り立ち方だけを観察しますと、
シェークスピア劇は、特権的に頂点に据えられた個のエネルギーからドラマの推進力を得、
社会や時代の深部へと切っ先をねじ込んで行くようなイメージがあります。
他方、近松劇は、登場人物が生きている時代の“世間”の中で蠢く人間の心模様を、
死へと向かう時間軸に沿って配置していく方法でもってドラマが進行していきます。

シェークスピアが個のレベルでの「生きるか死ぬか」の二者択一の前で、人間の実存を浮がび上がらせていくのに対して、
近松は、ひたすら死のゴールへと追い込まれていく無辜な人間の姿を通して、“この世(仏教的な意味での世間)”の真実を描き出していきます。

シェークスピアの人間観察のまなざしは、個のエリート性を頂点とするヒエラルキカルな枠組みが感じられ、
近松のそれには、世間というフィールド全体をフラットにながめ渡そうとするものが感じられます。
言い換えれば、人間世界の価値判断の枠組みが、シェークスピアは階層的であり、近松は無差別的であるということです。

1600年頃から1700年頃の間の西洋における戯曲の世界は、シェークスピアに限らず、フランスのラシーヌやコルネイユ、
また喜劇作者のモリエールにしても、主人公は上層階級や富裕市民のエリートに設定されたものがほとんどです。
身分制社会の枠組みを越えた無差別なまなざしの中に、人間の生き様を描き出していこうとしているのは、
17世紀の作劇世界の中では、近松門左衛門唯一人ではないかと推測されます。
(北欧やイタリア、そしてイベリア半島などの作劇状況は確認していませんが。)

そのように見ていくと、我々の評価基準からすれば、世界の近世の戯曲世界において最も先端的なのは近松であり、
その意味で、最も偉大なのは近松門左衛門ではないかと、少なくとも私個人としては、そのように考えております。


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