モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

Ⅲ‐3 山上憶良の詩歌——『貧窮問答歌』の戦略

2021年06月08日 | 日本的りべらりずむ

山上憶良の詩歌の文学的成果は主として晩年に至って一挙に得られます。

貧窮問答歌もその中に含まれますが、憶良にそのモチーフを提供した社会的経験としては、
国司として伯耆国(鳥取県)や筑紫国(福岡県)に赴任(西暦716年以降)して、
当地の民情を視察し朝廷に報告する業務に従事していたことが大きいでしょう。

国司を経験する前、時代は天平年間に入った700年代初頭は大宝律令が発布されたばかりでしたが、
いきなり全国的な凶作や疫病が農村を席巻して、農民の生活は困窮状態に陥っていきました。

憶良の伯耆国司赴任中にも山陰地帯の凶作が続いて、農民たちに飢えが襲いました。

その惨状を憶良はつぶさに目にし、農民に同情しつつも国司として律令政治の成果を挙げるための業務を、
忠実に遂行していったのだろうと、『士の嘆き』の著者は書いています。


現代の私たちは農民の窮状に同情を寄せる憶良の人間性に違和感を持つことは少ないかと思いますが、
当時の貴族階級に属した人々の一般的な意識はどうだったでしょうか。

朝廷は被災農民に食料を支給するなどして救済策をとっていったり、
国司の中には農民の生活向上に尽くした人もいたようです。

しかし古代の身分制の意識の中では、農民を農産物生産者として尊重する考え方は無かったように思われます。
ましてやその惨状を歌に詠むなどということは、貴族の階層の人々には思いつきのかけらも持ち得なかったように思います。

そういう時代性の中で農民の貧窮を詠んでも、貴族や官僚社会の中で果たして共感を得ることができるでしょうか。

現代の私たちは、貧窮問答歌が律令制度の矛盾を告発しているとごく当たり前のように詠むことができますが、
憶良の時代には制度や統治の実情への批判以前に、そもそも共感がえられるかどうかという問題がありはしなかったかと思います。



貧窮問答歌はその題名が示しているように、問答の体裁をとって歌われています。

前半が問いかけ後半が応答で、両者ともに“貧”の状態を具体的に表現しますが、
前者は下級貴族・官僚、後者は貧困の極みにあえいでいる農民と推測されます。

前者は憶良自身かというと、そうではなさそうです。

問者は「雨雑り雪降る夜は、すべもなく寒くしあれば、堅塩をとりつづしろい、糟湯酒うち啜ろいて、云々」と自らの貧の状態を歌い、
家族全員が飢えの状態にある相手に向けて、どんな気持ちで暮らしているのかと問いかけます。

問者には「髭掻き撫でて、我れをおきて人は在らじと誇ろへど」といったような多少の余裕が伺えます。

これは、古代の貴族が有していた中国文化由来の“貧”の感覚を表していると解釈すると、
まずは憶良が所属する下級貴族・官僚社会に向けてのアピールを意図していたかとも推測されます。

つまり、歌への共感を呼び起こすための仕掛けとして、貴族や官僚が受容できる“貧”の状況を歌い、
しかし農民たちはそれよりももっときつい、死と隣り合わせの貧窮状態にあるという、
リアルな現実認識へと誘導していると読めます。


言い換えると、貴族・官僚社会の共有感覚を呼び起こしつつ、
後半はその範囲を逸脱した農民社会の惨状をアピールするというふうに展開していきます。

ここに、『万葉歌の成立』が提唱する、古代歌謡における〈共同性〉と〈個別性〉を柱とする歌の構造を巧みに利用した憶良の戦略がうかがえ、
律令体制下の矛盾にあえぐ人間の姿に目を向けていこうと呼びかける、憶良の絶唱が共感性を獲得していくわけです。

農民の貧困を凝視する憶良のまなざしは当時の貴族・官僚社会にあっては新奇なものであり、
その意味で憶良の〈個別性〉に由来するものと言えるでしょう。

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