室町時代の中頃、この地の領主であった鷹山氏(高山氏)出身で、
高山頼栄の次男で連歌師であった高山宗砌(そうぜい)が
「わび茶」に通じた人であり、村田珠光の依頼を受けて
茶道具の茶筅(茶筌)を考案したのが始まりとされている。
茶筌は、用途、流派によって使う茶筌の先の穂立ちや、
竹の種類、糸の色などが異なる60種類以上もの茶筌が作られ、
それらが展示されている「高山竹林公園」。
毎年2月頃、近くの田圃では竹の乾燥のため、
約1.5mに切りそろえられた数十本の竹が、
円錐状に傘の骨組みのように組まれ、
日光にあて、寒風にさらす「竹の寒干し」作業の最盛期に入り
高山町の風物詩になっている。
寒干しのあと1年ほど倉庫で寝かせてから製品に加工されるという。
また、園内の南側一段下がった所に圓楽寺跡がある。
中世生駒市北部を支配していた鷹山氏の菩提寺、法楽寺の末寺。
鷹山氏は、応仁の乱以後から戦国時代頃の興福寺一乗院衆徒で、
旧境内には一族の墓石が、
明応元年(1492)〜享保9年(1724)銘の五輪塔二十数基が並んでいる。
明治の廃仏毀釈により境内が取り壊され、
石碑が集められているが、
それらしい雰囲気はあるものの寺院跡は見逃してしまいそう。