《河童》の旅メモ

富雄川流域探索

幸村探索・大坂「坂道を登ったり降りたり」

2017年02月19日 | Weblog

天王寺区下寺町2丁目から地下鉄夕陽丘駅にかけて東西に延びている坂で、
東側(夕陽丘駅)の標高が約15㍍高くなっており、途中は石畳の階段になっている。
坂の下から眺めると道の起伏が「くちなわ(蛇)」に似ているところから、この名がつけられたという。
また、大阪城築城の時、縄打ちを始めた地であるからとも言われる。


幸村探索・大坂「勝って兜の緒を締めよ」

2017年02月17日 | Weblog

萬福寺から東へ登ること約20mの標高差。
増福寺には夏の陣でのヒーロー薄田隼人正(隼人)の墓碑(供養塔)がある。
彼は豊臣秀頼に仕え、大坂の陣では侍大将に任じられた武将だ。
無類の酒好きと伝えられ、冬の陣では、博労ヶ渕の砦(現大阪市西区立売堀6丁目あたり)に立てこもり、
木津川を上る徳川の軍勢を散々に打ち破り名を挙げた。
大勝利に酔い側近を引き連れ新町の色里に入り浸っているすきに、
砦は奪われ『橙(だいだい)武者』と評された(橙は大きい割には中身はまずい。見掛け倒し)。
夏の陣では東西両軍が相まみえた5月6日の道明寺の戦いで後藤又兵衛、塙団右衛門など共々奮戦し討死した。
豪傑『岩見重太郎』のモデルと言われる。
なお山門は創建当時(慶長7・1602年)から残っている歴史ある門。


幸村探索・大坂「幕末の血の匂いが…」

2017年02月15日 | Weblog

この辺りには歴史ある寺社が多く、寺町と呼ばれている。
文禄3年(1594)、前田利家の弟の前田次郎兵衛利信と僧開導によって開創された「萬福寺」。
しかし将軍家茂が文久3年(1863)~慶応3年(1867)大阪滞在時には新撰組の大坂駐屯地となり、
大坂相撲力士との乱闘町奉行与力内山彦次郎暗殺などの事件はその間に起こった。
幕末(新選組)の血の匂いがここにもあった。


幸村探索・大坂「お寺の多い下寺町」

2017年02月14日 | Weblog

齢延寺から谷町筋へ降りる石段「源聖寺坂」。坂の上、北側に源聖寺があることに由来する。
上り口から途中までは石畳となっているが、途中から階段状になり、少し東南東に向きになる。
かつて石段を上りきった場所に昭和末期まで「源九郎稲荷」があった。
コンニャク好きの狸が祀られ、天王寺区史に「こんにやくの八兵衛」という祠があったことが記されているという。
この辺りには秀吉の大坂城築城のおり、石山本願寺周辺のお寺をこの地に移したとされている「下寺町」。


幸村探索・大坂「かつては桜の名所とか…」

2017年02月12日 | Weblog

生國神社の南側にある真新しい鍾楼門(平成20年立替)がある齢延寺(れいえんじ)。
寛永9(1632)年に、真田丸近くの真田山(現・真田公園)からここに移転。
鐘楼門の扉には「見ざる、言わざる、聞かざる」の透かし彫りの立派な彫刻が施されている。
江戸時代は「齢延寺の彼岸桜」と呼ばれた桜の名所で、いまも桜の木が多く、大樹、古墓の多い寺として知られる。
境内には、幕末に私塾・泊園書院を興して活躍した儒者の藤澤東咳・南岳父子や、
画家の鍋井克之、名刀鍛冶師の左行秀の墓がある。
また、御方洪庵、斉藤方策と並ぶなにわの3名医のひとり・原老柳ゆかりの老柳観音には、
病気平癒を願って訪れる参拝者が多いとか。