5世紀前半の築造。倍塚が6基ある宝来山古墳(ほうらいやまこふん)。奈良市尼ケ辻町字西池にある前方後円墳。宮内庁により「菅原伏見東陵(すがはらふしみのひがしのみささぎ)」として第11代垂仁天皇の陵に治定されている。
明治6(1873)年12月20日政府は各府県ごと「里程元標」を設け陸地の道程(みちのり)の調査を命じた。その後東京日本橋が架けられたとき「東京市道路元標」が設置され、各市町村に一個ずつ道路元標を設置することとされていた。ほとんどは市町村役場の前か市町村を通る主要な道路同士の交叉点に設置されていた。今は道路の附属物とされているだけで、取り壊されたり工事などでなくなってしまった道路元標も少なくない。酷道308号・砂茶屋交差点の片隅にある「富雄村の元標」も地元民に存在を忘れられている。
19世紀初め頃の建物。ここが奈良市と大和郡山との分岐点であるために追分の本陣と呼ばれています。 主屋の屋根は茅葺(かやぶ)きと桟瓦葺(さんがわらぶ)きを組み合わせた大和棟(やまとむね)形式で、この主屋の南東に上段の間、控(ひかえ)の間、玄関などからなる座敷棟が接続します。 村井家住宅は市内では珍しい宿場建築として貴重です。(奈良市HP)
「パン308」でパンを買い、すぐにかぶり付きながら歩く人もあり。三叉路に至る。道標は見る方向によっては難しくなっているものも多い。旅人の「みちしるべ」と言うより道路の拡張や整備により移動させられ、方向に関係なく置かれ、石造物としての「展示」という意味合いが強いようにおもう。「道標」の役割は終わったものが多いようだが、ここは頑張っている。