《河童》の旅メモ

富雄川流域探索

旧街道2・京街道1「戊辰戦争の慰霊塔が…」

2014年11月18日 | Weblog

法傳寺の山門左側に鳥羽伏見の戦、その後の戦いの戦死者の慰霊塔。戦いで敗れた東軍を供養する石碑「戊辰東軍戦死之碑」が山門北に立つ。東軍が使用した短銃、砲弾、太刀、槍の穂先、東軍戦死者名簿なども法傳寺に所蔵されている。


旧街道2・京街道1「二条城の修復石」

2014年11月17日 | Weblog

江戸時代、1662年、「寛文二年近江・若狭地震」で二条城石垣も被害を受け崩れた。その修復のために各所より石材が運ばれてきたが、何らかの理由により水没したとみられている。公園整備の際に画像左手の竜門堰下流100m川底から引き上げられた。「竜門堰は1938年に完成し、農家約150戸が利用していた。しかし農地の減少により来年度以降に撤去の予定」と京都新聞2014年9月19日にある。


旧街道2・京街道1「文覚の一念」

2014年11月15日 | Weblog

上鳥羽の恋塚寺から約2キロの下鳥羽の恋塚寺。寺云は上鳥羽の「恋(鯉)塚寺」とあまり変わらなく、文覚は恋い焦がれた袈裟御前を誤って殺してしまったことを後悔。その後袈裟御前の首を自分の首にかけ俗界を離れ修業をしたという。境内には袈裟御前の首塚と伝えられる宝篋印塔があり「恋塚」と呼ばれている。


旧街道2・京街道1「迷惑な事」

2014年11月13日 | Weblog

恋塚寺で小休止したのち30分ほどで「鳥羽伏見開戦跡」に到着。将軍の領地返納をきめた朝廷と薩摩藩らの処置を不満とした幕臣、会津軍らは1月1日挙兵。大阪から京都へ攻め入ろうとしたが、薩摩、長州軍はこれを迎えうった。薩摩藩が大砲を備えて、竹田街道を北上してきた小枝橋を渡ろうとする桑名藩を阻止しようと談判したが、薩摩軍から発砲した。この一弾があたかも合図となって、戦端はひらかれ激戦がつづき6日幕府軍は敗退した。この一戦をきっかけに、戊辰戦争が始まった場所。勇ましく開戦するが庶民には大迷惑な話。