平城京遺跡の研究を始めた人で平城遺跡の地図を作っている。伊勢の藤堂藩の藩士で当時藤堂藩の城は伊勢にあった。32万石のうち5万石は大和と南山城に土地を持っていたため古市奉行所の役人として奈良にいた。 藤堂藩は春日大社と縁が深く毎年正月に釣灯篭を寄進していた。蔦の付いた灯篭がそうである。一回転1間の測量車を作ったり、一定の歩幅で歩いたりし、 西大寺の古文書などを参考にして作った地図が「平城宮大内裏坪割之図」である。嘉永5年(1852年)でペルーが浦賀に来る前年のことである。
(今日の歴史=681年天武天皇が「日本書紀」の編纂を命じる)
(今日の歴史=681年天武天皇が「日本書紀」の編纂を命じる)