鴨着く島

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壬申の乱(記紀点描㊼)

2022-02-21 21:22:45 | 記紀点描
壬申の乱(西暦672年6月~7月)は古代では最も大きな内乱と言われる。

しかしその規模(戦闘員の数)と戦死者数については確定した数字はない。

他にも内乱は数多くあった。崇神天皇時代の「武埴安彦の叛乱」、垂仁天皇時代の「狭穂彦・狭穂姫の乱」など相当な数で起きている。だが、皇位の継承を巡る皇族同士の直接対決は実はそれほどない。

壬申の乱が起きた原因を、かつては天智天皇と天武天皇の額田王(ぬかだのおおきみ)を巡る恋の鞘当てに求めることが多かったのだが、これは今日では否定されている。

この叛乱は天智天皇の弟大海人皇子が、天智天皇の皇子で当時太政大臣に任命され、近江の宮に都を置いていた大友皇子の政権に対する大海人皇子(のちの天武天皇)による「王権奪取」の戦いであった。

天智天皇が我が子の大友皇子を太政大臣にしたあと、死の床に大海人皇子を呼んで後継を託すのだが、大海人皇子はなぜ今さら自分を後継者に指名したのか疑わしく思い「皇后のヤマトヒメ様を天皇に立て、大友皇子を皇太子にすべきです。私は出家して功徳を行うつもりです」と頭を丸めて吉野宮に入った。

その疑いはどうやら正鵠を射ていた。もし後継を引き受けたら、太政大臣の大友皇子を差し置いて皇位に就いたことをとがめられ、下手をすれば殺害されてもおかしくなかったのである。

大海人皇子はもともと都を飛鳥から近江に移すのには反対で、同じように反対する多くの豪族の支持を得ていた。

近江軍が飛鳥の古京に到る道々に軍勢を派遣したのを見計らった吉野宮側はついに吉野宮を離れいったん東国を目指すことにした。かくて壬申の乱の幕が開いた(672年6月22日)。

吉野側が真っ先に一報を入れたのが、安八郡(美濃)の「湯沐令」と書いて「ゆのうながし」と読ませる役職(皇太子の養育のための田畑を管理する役)についていた多臣品治(おおのおみ・ほむぢ)であった。(※この人は太安万侶の父らしいが、記紀には明示されていない。)

多臣品治が美濃の軍団を組織したことで、吉野側は大きな勢力となった。尾張国司なども吉野側に就き、近江側の劣勢は明らかになった。

吉野側の将軍は武の名門出身の大伴吹負(おおとものふけい)であったが、近江側は将軍といっても文官系の貴族から成り、遠く筑紫大宰府の栗隈王に出兵を打診して断られる始末で、劣勢は覆うべくもなく、ついに瀬田川の戦いで完敗し、大友皇子は自害するという最悪の結果を迎えた。

近江側の加担者、蘇我赤兄・蘇我果安・中臣連金・巨勢人・紀大人など8名が斬罪となり、戦いは吉野側の勝利で幕を閉じた。ちょうど一月にわたる戦いであった。

この結果近江宮は廃止され、都は大和に戻った。大和の豪族たちはみな安堵したに違いない。

近江の都はその後放置され、荒れるに任せられたようだ。その光景を詠ったのが奈良時代の歌人柿本人麻呂であった。

<(前略)天に満つ 倭をおきて 青丹よし 平山を越え いかさまに 思ほしめせか 天さかる 鄙にはあれど 石走る 淡海国の 「楽浪(ささなみ)」の 大津宮に 天の下 知しめしけむ 天皇の 神のみことの 大宮は 此処と聞けども 大殿は 此処といへども 春草の 茂く生ひたる 霞み立つ 春日の霧れる 百磯城(ももしき)の 大宮処 見れば悲しも>

柿本人麻呂が近江を訪ねて行ったら、もう近江宮の建物は跡形もなくなり、春草の茂るに任せていた。悲しいものだーという歌だが、人麻呂は710年に死んでいるので、この歌を詠んだ年代を700年とすれば近江の宮は30年で面影を留めなくなったことになる。

(※なお、歌の中で「楽浪」と漢字で書いているにもかかわらず訓では「ささなみ」とよませている部分があるが、「淡海」すなわち琵琶湖を暗喩する「さざなみ」に楽浪を宛てたのは、近江地方に百済の亡命者や避難民をたくさん配置したことが反映されている。半島の百済の故地の西の海は「楽浪」と呼ばれていたのである。)

結局のところ、大和を捨てて近江に都を遷した天智天皇とその子の大友皇子は、本来の大和王権の地である飛鳥を離れたことと、亡命百済人を重用しすぎたこと、これらが大和の豪族たちの反感を買い、ついに反旗を翻させた真因だろう。

 【追 記】

・吉野宮の大海人皇子側が、吉野を立って東国に進軍する際、5日目の672年6月26日に朝明郡(あさけのこおり)の迹太川のほとりに到った時に、はるかに「天照大神」を遥拝したとある(天武元年6月条)。これは垂仁天皇の時に皇女ヤマトヒメが大神を祭るにふさわしい場所として現在の伊勢神宮の地に宮を建てたのは史実であったことの証左となる。

・また、672年7月に、吉野側の将軍大伴吹負(ふけゐ)が劣勢になった頃に、三輪君と置始連との合流軍が近江軍に大勝したのが「箸墓の下」であった(同元年7月条)。この描写によって通称の「箸墓」が7世紀にもそう呼ばれていたことになり、ヤマトトトビモモソヒメが箸で「ほと」(陰部と書くが、私見では「のど」のこと)を突いて自死し、亡骸を葬ったがゆえに墓を「箸墓」と呼んだという伝説は史実であったことの証拠になる。

・また、この「箸墓下の戦い」以前のこととして、高市郡大領・高市県主許梅(こめ)に神がかりがあり、託宣の中で「神日本磐余彦天皇の陵に、馬及び種々の兵器を奉れ」という神示があったという(同元年7月条)。この描写によって「神武天皇陵」の存在が確認され、したがって「神武天皇」(私見では南九州の投馬国王タギシミミ)の存在も創作(おとぎ話)ではなかったことの証明になる。

・因みに、箸墓こそが卑弥呼の墓とする畿内邪馬台国論者が多いが、箸墓は学説上定型的な最も前方後円墳らしい前方後円墳であるとしてある以上、その築造が4世紀半ばを遡ることはない。卑弥呼の死は247年とはっきりしている。約百年のタイムラグがある。先年の環濠調査で木製馬具の一部が出ており、この点からも4世紀半ば以降の築造であることは間違いない。

・もっとも、邪馬台国が大和に無かったことは(1)帯方郡から邪馬台国までの道のりは1万2千里であり、そのうち九州北岸の末盧国(唐津)までですでに1万里だから残りはわずか2千里。しかもその2千里は陸行(徒歩)の道のりであるから、畿内に求められるはずはない。九州島の中にあったのである。

また、(2)方角につても畿内説では「南」とあるのを「東」に改変しており、この点も承認のしようがない。この方角改変の元凶は「伊都国=糸島」説なのだが、伊都国が糸島なら壱岐島から直接船をつければよく、なぜ唐津で船を降り、わざわざ海岸段丘の発達した狭隘な海辺の道を糸島へ歩かなければならないのか説明が付かない。この不可解な解釈により、末盧国(唐津)から「東南陸行500里」にあるはずの「伊都国」は「東北陸行500里」の誤認とされ、以降の道のりにおける「南」はすべて「東」に読み替えられてしまった。

この改変やおそるべし、で、明治以降今日まで150年(江戸時代を入れれば約300年)経っているのに、いまだに邪馬台国の比定地に決着がつかない原因なのである。

素直に唐津から松浦川沿いに「東南陸行500里」していけば、戸数千戸の伊都国(いつこく)は「厳木(きゆらぎ)町」(厳はイツと読める。イツキは伊都城だろう)と比定でき、そこからは方角も距離表記もほぼ無理なく佐賀平野を抜けて、鳥栖から筑後川を渡り、久留米を過ぎた八女が邪馬女王台国と比定できるのだ。

(※江戸時代の儒者新井白石は最初畿内説だったのだが、のちに九州説でも八女の南方の「山門郡」に比定し直している。そこに至るまでの道のりについての解釈は寡聞にして知らないのだが、おそらく「山門」の「やまと」からの類推だろう。しかし私は「邪馬台国」の語源を「天津日(あまつひ)」としており(amatuhi →yamatuhi→yamatahi)、単純な「山門→大和」説は採らない。また「山跡」説も採らない。)




北京冬季オリンピックが終わる

2022-02-21 13:58:34 | 日記
2月4日から昨日20日まで17日間の北京冬季オリンピックが幕を閉じた。

新型コロナ対策のため、観客は全く入れずに行われたが、地元はいざ知らず、遠く離れた他国からの観戦にとって全く問題はなかった。

ただ、会場内に響き渡るであろう観客の歓声がないのは異様と言えば異様だが、すでに去年8月の東京オリンピックでも経験済みだ。

また選手たちや役員たちも去年と同じように「バブル」の中で過ごさざるを得ず、その待遇には悲鳴が上がる場面もあったが、致し方あるまい。

それよりやはりというか、中国の感染対策の徹底には驚かされる。選手も関係者も報道陣もすべて毎日、PCR検査を受けなければならなかったのだ。

しかしそのレベルの「強制」は、感染者が出た中国の町では当たり前のようで、いわゆる「ロックダウン」だが、この2年間でいったいどのくらいのロックダウンが行われたのだろうか。共産党一党独裁の国家主義国の「面目躍如」に違いない。

欧米でこんな厳しい措置が行われたら、たちまちブーイングの嵐となり、デモさえ行われ、時に暴動と化すだろう。ヨーロッパの某国ではマスクさえ嫌われている。心身を束縛されるのを極度に嫌う風潮があるのだ。

国家による強制・規制は最小限に、というのが欧米流の自由主義であり民主主義なのは承知だが、それは歴史の教訓から得たものなのか、それとも国民性(民族性)なのか。

歴史好きの自分から見れば、やはり長い歴史の反映であろうと思うのだが、しかし自由に多数の人々と交流する際に、感染が全く収まらない中、エチケットとしてのマスク着用は必要だろう。

それを厭うとすれば、その理由は何だろうか?

欧米の人たちは見知らぬ人とでもハグをしたり、時にはほっぺにキスしたりするが、そういった身体接触を何とも思わない(というか好んでする)伝統がある。その際にマスクをしたままでは都合が悪いのは当然と言えば当然である。

それにマスクはその人の顔の全貌を半分以上隠してしまうから、それも嫌われる要因だろう。どこの国でも銀行強盗は必ずマスクかそれよりもっと顔を隠せる目出し帽をかぶっている。

その一方で日本ではもうマスクのない「素顔」の生活は考えられないという人も出ているくらい、マスク大国だ。2月半ばからスギ花粉が飛び始めているからマスクへの執着は一層強まっている。(※私もだ。花粉症歴、もう30年になる。)

花粉症に罹っている時期に、自分の周りの人たちのほとんどがマスクをしていない中、自分だけがマスクをして銀行やコンビニに入った際、何となく長居しづらいことが多かったが、このコロナ禍の2年は皆がマスクをしているので気が楽である。

今度の北京オリンピックでは会場に一般市民の姿が見られないので判断しづらいが、少なくとも会場で同じ国の選手を応援している選手・関係者でマスクをしていない人は見当たらなかった。

報道の画面でフィギュアスケートの羽生弓弦選手の追っかけの若い女性たちが映ることもあったが、彼女たちもちゃんとマスクをしていたから、おおむね中国人もマスクへの違和感がないと見えた。

それにしても羽生選手の人気は絶大だという。容姿もだが、真摯に競技に向き合う姿が好ましく映るのだろう。それは日本でも同じことだ。惜しくもクワッドアクセル(4回転半)は転倒してしまい、メダルには届かなかったが、そのことは人気に全く影響しないようだ。

男子フィギュアでは銀が鍵山優真選手、銅が宇野昌磨選手だったが、鍵山選手はまだ高校3年生、宇野選手は24歳。特に鍵山選手はまだまだ伸びしろが大きく、クワッドアクセルを難なく飛びこなせるようになるのではと期待している。

金メダル3,銀メダル6,銅メダル9、合計18個のメダルは平昌オリンピックを上回り最多だそうだが、金メダルを獲得したのが女子スケートの高木美帆選手、スキージャンプの小林陵侑選手、スノーボードの平野歩夢選手、と競技種目が三人三様であり、日本選手団の層の広さが際立つ。

どの競技も金メダルを取ったからといって収入が激増するというわけではなく、それぞれ自分の納得がいくまで競技に取り組む姿勢は清々しい。

どこかの国ではオリンピックを興行化して金まみれにしたが、その国の選手はオリンピックには出たがらないそうだ。稼ぎにならないからだという。

その点、中国のような国家主義の一党独裁国家は、「国威発揚」こそがオリンピックの狙いになるから、金メダルを取れば英雄視される。北朝鮮ほどの「将軍様のためによくやってくれた、よしよし、褒美を取らそう」とはならないだろうが、オリンピックでの好成績には国家によるかなりの褒賞が与えられるはずだ。

日本はそのどちらでもなく、成績は成績、人気は人気、そして選手個人は選手個人で、べらぼーな賞金や賞品は出ない。それこそがアマチュアスポーツの祭典にふさわしいやり方だ。世界もそれを見習うべきだろう。