鴨着く島

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天智天皇の死を巡って3⃣(記紀点描㊻)

2022-02-14 10:30:41 | 記紀点描
薩摩藩が幕末に編纂した『三国名勝図会』(天保14年=1843年完成)には天智天皇の事績が多く見られる(以下文中では単に『図会』と書く。準拠したのは青潮社版である)。

鹿児島藩に属した「揖宿郡」「頴娃郡」「諸県郡志布志郷」に主に見られるのだが、すでに述べてきたように頴娃郡の開聞神社(その新宮である揖宿神社にも)では大宮姫と暮らしてそこで崩御し、墓もあるという(天智天皇の死を巡って1⃣、2⃣)。

今回述べる3⃣では志布志郷を取り上げるが、志布志郷の東北に聳える御在所岳(標高530m)には御廟があるといい、安楽村には天智天皇と皇子・皇后・妃・娘そして持統天皇を祭る「山口六社大明神社」が鎮座している。果たして御廟のあるというここ志布志で崩御したのだろうか。

【薩摩藩諸県郡志布志郷に見られる天智伝説】

志布志郷は大隅半島の要津だが、大隅国肝属郡ではなく日向国の諸県郡に属している。宮崎県都城市への海からの入り口という位置付けであった。

ここ志布志にも天智天皇が巡見に来たという伝承が残っている。

志布志郷の〈山水〉という章の「御在所岳」項は次のように記している。

<往古、天智天皇が薩摩国頴娃開聞の地に行幸した時(1)、志布志郷安楽の海岸に着船し、土地の古老に開聞岳の方向を尋ねたところ、御在所岳の山頂からはよく見えるということで登って眺めた。この年の5月5日に頴娃に到り、9月9日まで滞在(2)してタマヨリヒメ(大宮姫)を寵愛した。翌年5月18日(3)にタマヨリヒメ(大宮姫)は乙宮姫を産んだ。

天皇は頴娃から志布志に帰って来たが、頴娃のことが忘れられず、この地に行宮を建て、「私が死んだあと、ここに廟を営むべし」と言い残し、
冬に(4)志布志の港から都に帰った。

天皇崩御ののち、和銅元年(708年)6月18日(5)、御在所岳の絶頂に神廟を建て、山宮大明神と称した。>(『図会』第4巻P.1000)

この中でタマヨリヒメとあるのは大宮姫のことだが、これは「山口六所大明神社」の祭神が大宮姫ではなくタマヨリヒメとしてあることと整合させたものと思われる。このことは逆に志布志の伝承と頴娃開聞の伝承とは互いに独立していたことが分かる。

志布志のこの伝承の大きな特徴は、下線の部分(1)から(4)のように月日が明確に記されていることである。これを時系列で並べると、

(1)天智天皇の頴娃開聞への行幸の年
(2)(1)の年の5月5日から9月9日まで頴娃開聞に滞在
(4)(1)の年の冬、志布志の港を出航し帰京
(3)(1)の年の翌年、5月18日にタマヨリヒメが乙宮姫を産む

となる。結局(1)の年が判明すれば、(2)から(4)までの年が特定できる。(※ただし(5)については神社の由来記などに記された年月日であろう。これは正確かと思われる。)

(1)の頴娃行幸の年は憶測の域を出ないが、「天智天皇の死を巡って2⃣」で述べたように、開聞社の巫女である大宮姫は663年の白村江戦役の「戦勝祈願」に招聘されたが、結果として惨敗を喫してしまったため追い立てられるように頴娃に送還された。

しかし筑前にいる間に天智(当時は即位前の中大兄皇子)の寵愛を受けており、あまつさえ子を身籠っていた(2⃣の「久多島大明神」の伝承)ので、よほど気がかりだったのだろうか、大宮姫に会いに来た。

その時期を考えると、白村江の戦役で敗れた663年8月28日以降であることは間違いない。中大兄皇子は筑前朝倉宮で戦役の指揮を執っていたが敗れたため、本来なら即日に大和へ帰るべきところ、戦役からの帰還兵や百済からの亡命人などの上陸等で繁忙を極めていた。翌年の2月9日には「冠位26階制」を定めたとあり、また防人の制度を始めている(天智3年条)から、663年の秋以降は大和に帰っていた。

しかしその翌々年の665年、2月に百済の亡命人たちを近江に置き、8月には長門と筑紫に城(水城)を築いているから、この時点では天智(中大兄皇子)自身が筑紫に下って来た可能性が考えられる。

そして665年9月、唐からの使者「劉徳高」が筑紫に到着した。上の時系列の(2)のように5月に頴娃に行って大宮姫と再会し、開聞には月まで滞在したわけだが、その9月までと言うのは、9月に唐の使者が筑紫に到来したゆえに、頴娃を引き上げざるを得なかったのではないか。

そう考えると、(1)の行幸の年とは665年が浮上する。そして(2)の665年9月になって頴娃から引き揚げ、その冬に志布志港から帰京したことになる。その時の大和の宮は「岡本宮」だったようだ。〈社寺〉の章にある「正一位山口六所大明神社」の項に見える「旧記」によると、

<天皇は開聞に到り駐留すること5,6か月。しかれども天下の政事、措くべきにあらざれば、彼の地より舟磯に帰らる>

とあり、筑紫に下って亡命百済人の技術者による筑紫の水城など防衛施設の建設を巡見しながら志布志経由で開聞に大宮姫を訪ね、その年の9月には再び志布志に帰って来た。唐の使者との交渉など「天下の政事」が控えていたためではないだろうか。

さらに、
<「朕の亡きあとよろしくここに廟を建てるべし」と古老に言い残し、和州(大和)の岡本宮に還らる>
とある。

ここでも自らの意思で志布志に廟を営むよう言い残している。しかし志布志で崩御してはいないので亡骸は無いわけだから、実際の御廟ではなく「招霊」による墓、要するに「御霊神社」と言うべきだろう。それが「正一位山口六所大明神」として和銅元年(708年)6月18日に建立された神社である。

天皇が志布志から大和へ帰還した時の宮が「岡本宮」と書かれているが、岡本宮は舒明天皇の「前期岡本宮」と母の斉明天皇の「後期岡本宮」とがあり、どちらも同じ飛鳥の雷丘のふもとに営まれた宮である。そこに帰還したというからには、まだ天智自身が造営した近江宮はなかったわけで、したがってこの年は近江宮造営の667年3月19日より前ということになる(天智紀6年3月条)。

要するに、天智天皇が大隅半島の東海岸の志布志から指宿(山川)経由で頴娃開聞に行った(行幸した)のは、時期的には白村江戦役敗北(663年8月)後の663年の秋から近江宮造営の667年3月までの間であり、可能性が高いのは665年のことだろうという結論である。(※ただし、南九州で崩御した可能性は低い。)

【「南九州における天智伝承」考察の結論】

これまで「天智天皇の死を巡って」というタイトルで1⃣から3⃣まで書いてきたが、それは1⃣の前書きにあるように、天智天皇の死が「山科の山中に馬で入ったまま行方知れずとなった。履だけが残されていたので、そこを御陵とした」という『扶桑略記』の記述など、その死には不審を抱かざるを得なかったからである。

そこで薩摩藩の地歴書である『三国名勝図会』に記載の数々の天智天皇の「御廟」にまつわる伝承から見直してみようということで、ここまで考察して来たのだが、以下に若干は解明できたことどもを箇条書きにしておきたい。

(1)661年1月、天智天皇(中大兄皇子)は百済救援軍を組織しようと、母の斉明天皇とともに筑前の朝倉宮を拠点(大本営)とすべく下って来たが、同年7月に斉明天皇は崩御した。天智(中大兄皇子)は663年の8月に白村江の戦いで倭の水軍が完敗を喫するまで、朝倉宮もしくは長津宮(磐瀬行宮=いわせのかりみや=那の津)に滞在していた。

(2)大宮姫は開聞社という古来からの大社に属する巫女で、南九州からの軍士とともに筑前に行き、「戦勝祈願」の祭祀を担った。(※中大兄皇子自らが南九州まで軍士を徴発するために巡回して来た可能性は考えられる。)

(3)その筑前駐留期間中か戦役で敗れた後かの判断は難しいが、天智天皇(中大兄皇子)の寵愛を受けることがあった。

(4)戦役は完敗だったため大宮姫はお役御免となり、追われるようにして故郷の開聞に戻り、一方、天智(中大兄皇子)もその年(663年)のうちには大和へ帰った。

(5)664年には冠位26階制や防人の制度を作ったりしているので大和の王宮(岡本宮)で朝堂を見ていた。

(6)665年になると2月に亡命百済人を近江に置いたのち、彼らの中の技術者を採用して、長門と筑紫に城を築かせた。その年の何月から工事を開始したかは不明だが、8月には完成している。その工事期間中、自ら現地を視察巡見しに筑紫に下って来た。

(7)もし天智(中大兄皇子)が頴娃開聞に行くとしたら、665年のこの工事期間中であろう。(※いわゆる「出張に事寄せて」というやつかもしれない。)

(8)いずれにしても天智天皇が南九州を巡見したのは史実だと思われるが、南九州において崩御した可能性は極めて低く、頴娃開聞はもとより志布志の御廟伝承はあくまでも、御霊の招霊であろう。

(9)『扶桑略紀』の載せる「行方知れず伝説」はこの考察の結論からは否定も肯定もされないが、しかしなお天智天皇の死が自然死ではない可能性は捨てきれない。