鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

2月最後の日(2022.02.28)

2022-02-28 22:17:10 | おおすみの風景
2月も最後の日というのに今朝も寒かった。ウメとの散歩道の周囲の畑という畑には霜が降りていた。車のフロントガラスも完全に凍っていた。

この2月はこれまで経験した2月の中でおそらく最も寒い2月だったと思う。

無風だったので日中は20℃くらいまで上がり、4月初旬並みの陽気になったのだが、それでも「春一番」はまだ吹かない。

今日は所用があって垂水からフェリーに乗って鹿児島まで行った。

久しぶりにフェリーに乗ったのだが、出航の時間まで少し余裕があったので、フェリー桟橋に隣接する船溜まりまで行き、桜島を眺めた。



我が家から車で10分ほど行った所にある霧島ヶ丘公園の外れからも桜島の全容は望めるのだが、海から立ち上がる桜島の雄姿はまた格別である。

「花は霧島 煙草は国分 燃えて上がるは オハラハ― 桜島」と歌うおはら節はよく知られているが、この冬は桜島が噴煙を上げることが少なく、かねての桜島らしくない。

もっとも噴煙つまり火山灰が噴き出すと必ずどこかに舞い落ちる。その落ちる先は風向きによって決まる。

北風なら指宿方面、南風なら姶良市方面、東風なら鹿児島市、そして西風だと大隅半島。

特に冬は北西風が卓越するので大隅半島でも鹿屋市方面に飛んでくるのだが、この冬は桜島の爆発・噴火がごく少なかったので、その点楽というか気が抜けるほど車に積もる火山灰は微量だった。

しかし鹿児島大学の火山学の先生によれば、桜島はあの大正大噴火を起こしたマグマ量の90%くらいまで「回復している」そうだから、桜島が大人しいといって油断は禁物だそうだ。

つね日頃、カッカカッカしている父ちゃんが急に大人しくなると、逆に心配になるのと一緒である。

鹿児島での用件が早く済み、垂水に戻ってもまだ午後1時前だったのでその足で国分(霧島市)の「縄文の森」に行って見た。しかし今日は月曜日だったので展示館は休館。しまったと思ったが、隣接する「埋蔵文化財センター」に行くと、ここは開いていた。

中に入って受付で「錦江町の田代で発見され、縄文時代早期の土器がまとまって発掘されたホケノ頭遺跡の出土品を見たいのだが」と言うと、専門員の人が出て来て、話を聞いてくれた。

専門員の解説では、錦江町田代のホケノ頭遺跡から見つかった「バケツ型」の土器は「前平式でも古いタイプ」だそうで、11000年前頃のものだそうだ。その発掘物は埋蔵文化財センターには保管されておらず、「旧田代町教育委員会がまとめた報告書があることから、現地で保管してあるのではないか」とのことだった。

なぜ11000年前の土器であることが分かるかというと、桜島由来の「薩摩火山灰」が積もっている層の下から発見されたからで、薩摩火山灰の年代は10500年前なので推定できるという。

鹿児島から宮崎にかけてはこの薩摩火山灰と鬼界カルデラ由来の「アカホヤ火山灰」(7400年前)が厚く積もっているので、縄文時代早期(7500年~11000年前)の遺構・遺物が特定しやすいのだそうだ。

極め付けは早期最終期7500年前の「縄文の壺」の発見だろう。壺は一般的には弥生時代の物との認識があり、古く見てもせいぜい3000年前のものと思われていた壺(つぼ型土器)が、定説をはるかに覆す7500年前にすでに作られていたのには、驚きを通り越して何と表現していいか分からないほどだ。

さらに離島の種子島では何と13000年前の「サラダボール型」の土器が出土しているうえ、当時の生活の跡である住居跡を示す柱穴も出土しており、住居跡が一緒に確認されたという点では全国で最も古い遺跡のようである。

改めて鹿児島の縄文早期の出土物の多様性には驚かされる。

隣の宮崎県でも都城市山之口町の農道で縄文早期の土器がまとまって発見されており、南九州古日向域の超古代の先進性は否定すべくもない状況にある。