鴨着く島

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王子遺跡が示した先進性

2022-02-09 11:40:31 | 鹿児島古代史の謎
昭和48年頃に国道220号線鹿屋バイパス計画が策定され、54年度の発掘予備調査で弥生時代の遺跡が確認され、同56年から59年にかけて発掘調査が行われた「王子遺跡」は、大隅地方の弥生時代に大きな画期をもたらした。

発掘場所は現在はそのバイパスの道路(現在は国道220号に格上げされた)によって埋められてしまい、「王子遺跡址」という御影石の石碑と、のり面に遺跡の説明板があるだけだ。


約50mの道路幅に沿って長さ250m、面積12500㎡に及ぶ広さで発掘された。道路の向こうに行くと鹿屋大橋という肝属川に架かる長大橋があり、垂水市に到る。手前側は東九州自動車道の鹿屋市への入り口である笠之原地区に到る。

この辺りの標高は70m。肝属川が流れる市街地の標高が25mほどだから、比高差は45mほどあるシラス台地上で、眺望はよい。

遺跡は弥生時代の中期、約2000年前のもので、遺構として竪穴式住居27軒と掘立柱建物12棟が確認された。昭和56年の当時としては大隅地区で初めて建物の遺構が確認されたことで大きな話題になった。しかも掘立柱建物には「棟持ち柱」が付随しており、伊勢神宮等の神明造りの原型ではないかとこれも大きなニュースになった。


鹿屋市文化センターの裏にある「王子遺跡資料館」の内部に再現された建物遺構。手前が竪穴式住居、奥が棟持ち柱付建物。

棟持ち柱付建物の正式な利用形態は分かっていない。倉庫(穀物など)または宗教的な施設などと言われているが、12軒もあったことからすれば、倉庫説が優先されるだろう。

建物群の遺構が出たことよって「大隅でも弥生時代に人が住んでいたのだ。しかも他の出土品からしてかなり先進的だった」という見解が出されるようになった。

2000年も前に人が住んでいたということは、当然その後の古墳時代、古代前史にも人が住んでいたことを意味し、そうであれば例えば元鹿児島国際大学教授で隼人研究の第一人者である中村明蔵氏の「隼人という南九州人が中央政権に見出されたのは、百済救援に向かった大和王権(斉明天皇・中大兄皇子)が九州にやって来た時だった」という説は否定されなければならない。

中村明蔵氏の隼人解釈はこの王子遺跡の発掘(昭和56年=1981年)前の段階のものであり、まだ弥生時代(古墳時代も)の建物遺構が発遣されていない時の解釈であったわけで、「隼人以前」に南九州人がかなりの文明性を持って存在したことを考慮する必要に迫られている。

南九州人の2000年前の「文明性」とは、棟持ち柱付建物の出土に加えて鉄製品があったことである。ヤリガンナがその中心だが、鉄滓も見つかっていることから当地ではすでに鉄の溶融と加工まで行っていた可能性が高い。

標高70mというシラス台地上の高燥地に位置しているのは水田耕作には不向きだが、すぐ下を肝属川が流れ、その流域に展開する水田適地は狭いながらも存在するから、耕作時のみ河川流域に降りて行って農耕することは可能だったろう。

実は同じような「高燥地」は、平成20年頃から10年余りにわたって続けられた「東九州自動車道」の建設にかかわる発掘調査により、鹿屋市から志布志市市までの間の到るところの丘陵地帯で見つかっており、特に弥生時代に限れば、王子遺跡と同じような2000年前前後(前期~中期)の遺構・遺物が多量に見つかっている。

ただ、王子遺跡で見つかったような棟持ち柱付建物の遺構は極めて少ない。それだけ王子遺跡の先進性と統合性は大きく、一地方の政治的な中心であった可能性が考えられる。

ところが弥生時代の中期のこの一時期を過ぎると、後継するはずの後期遺跡(遺構・遺物)は見つからなくなる。この点も東九州自動車道建設前の発掘調査で明らかになった「前期は多量、中期は少量、後期は皆無」という弥生時代の遺構・遺物の発掘量が著しく偏っていることと軌を一にしている。

私はこの現象を「弥生時代後期のおおよそ2世紀前半に、南九州で何らかの大災害が発生し、140年から160年頃にかけて大挙して移住していった状況を表している」と考えている。

具体的に言うなら南九州に所在した「投馬国」(魏志倭人伝)による移住的東遷であり、「神武東征」の下敷きになった出来事であった。

この「神武東征」も景行天皇によるクマソ征伐も、とにかく記紀文献上の応神・仁徳王権まではすべて架空、雄略天皇からは実在した可能性が高いというのが日本古代史の定説であり、先に登場願った中村明蔵隼人学説もその域を出ないでいる。

とにかく、王子遺跡はじめ鹿屋から志布志までのシラス台地上に存在する驚くほど多くの遺跡群は、日本古代史を根底から覆す可能性を秘めているのである。