投馬国からの「東征」はあった
南九州の令制国以前の日向を私は「古日向」と名付けるのだが、記紀ではこの古日向から畿内に向けての「東征」があったとしている。
ところが戦後の記紀の解釈ではおおむね、
<南九州というクマソ・ハヤトという王化に属していない貧寒な土地から、大和への東征などおとぎ話に過ぎない。「日向」という吉祥名が付けられたことによる付会である。>
と、戦後の論壇に復帰した津田左右吉という著名な国史学者の主張が容れられて、「神武東征」は完全に否定された。
それどころか、いやその前にまず神武を生んだとする南九州への「天孫降臨」が否定されているのだ。時系列からすれば天孫降臨4代目の神武(トヨミケヌ、別名イワレヒコ)もいなかったことになり、したがって神武東征も有り得ないことになったのである。
今ここでは、天孫降臨神話についての考察は省くが、魏志倭人伝上の投馬国と「神武東征」について新たな視点が浮上した。
それは私が比定した南九州(古日向)の投馬国の王と女王の名が「ミミ」と「ミミナリ」だったという点と、神武の皇子にタギシミミ・キスミミ、東征後に生まれた橿原王朝の2代目の皇子たちの名に「ミミ」が多用されているのを併せ考えた視点である。
神武天皇は、古日向から兄のイツセノミコトと皇子のタギシミミを連れて船出をした(その古日向の最終的な船出の地点は宮崎県日向市の美々津港とされている)が、安芸に7年、吉備に8年など相当な年月をかけて難波に到達するのだが、ナガスネヒコ(中津根彦)に行く手を阻まれ、大きく南へ迂回し紀伊半島南部から山を越えて奈良の宇陀地方に至り、土着の豪族たちとの戦いの末にようやく橿原に王朝をひらいた、とされる。
そして橿原王朝樹立後に事代主の娘イスケヨリヒメを娶って生まれた二人の皇子の名はカムヤイミミとカムヌナカワミミ。
以上のように古日向からの東征の前後にいた皇子たちの名に「ミミ」が多用されているのだ。
これについて、記紀を論じる学者たちは「ミミというのは修辞上の美称であろう。」くらいで済ましており、実質的な意味はないとしている。
ところが古日向(南九州)に投馬国があったとする私見からすれば、まさにどんぴしゃりの「ミミ」なのである。
記紀の編纂者がこの事象に気付いていたかどうかは分からない。しかし倭人伝は読まれていた可能性が高く、神功皇后のことを女王卑弥呼に見立てているかのような割注がある。
もしかしたら記紀の編纂者の中に投馬国を古日向であると考えていた人物がいて、「投馬国からの神武東征」があったと造作し、「ミミ」という投馬国の美称(または敬称)を造作しまくった可能性もあるが、それだとそもそも造作の意味がないだろう。
何故なら記紀のテーマとして、南九州は王化に属さぬ野蛮なクマソ・ハヤトの地で、ヤマト王権こそが列島の初めからの自立した中央政権であったことを、内外、特に大陸の王朝に向けて宣言したような文書だからだ。
神武とはタギシミミのことである
以上から私は古日向の投馬国からの「東征」はあったと考える。そうであればこその「ミミ」名の多用であり、これは記紀編纂上の造作ではないと考えるのである。
ただ私が古日向からの「東征」では常にカッコ付きで表すのは、武力討伐という手のものとは一線を画していると考えているからだ。
瀬戸内海の安芸国に7年、吉備国に8年(筑紫国岡田宮にも1年)という都合16年もの長い東征期間というのは有り得ず、これはむしろ移住的な「東征」だったと考えるものである。
その移住的な「東征」をなぜ敢行したのかについては、当時の古日向を襲った大規模な何かからの避難ではなかったかとも考えている。
その何かとはまず考えられるのは南九州特有の「火山噴火」や「超大型台風」、「地震・津波」また「感染症の大流行」などが挙げられる。
いずれにしてももともと火山灰土という「貧寒な」土地条件がある上に、さらに今挙げたような大規模災害が加われば、生活は極めて困難になるだろう。
そういった不利や危機を見越して国を挙げて移住への機運が高まった結果、船団を組んで移住先へ向かったのではないか。
(※確定した意見ではないが、考古学上の弥生時代後期の遺構・遺物ともに南九州では前期・中期に比して激減しているのはその証左になろうか。)
そして安芸や吉備に一端は落ち着いたものの、それぞれ7~8年もすると後続の投馬国人が増加して土地が手狭になるか現地人との共存がうまく行かなくなり、さらに中央を目指したのではないか。
この投馬国人の移住船団の先頭を切ったのが神武の皇子とされるタギシミミだと考える。タギシミミの「タギシ」とは「船舵」のことであり、タギシミミとは「船舵王」と解釈され、まさに船団を率いるにふさわしい王名である。
したがって私は「神武」とは実はタギシミミのことであると考えている。
このタギシミミは橿原に王朝が樹立されたあと「朝機を歴(へ)たり」(綏靖天皇紀)とあるように、しばらく天皇位にいたように書かれているのである。
ところが神武天皇の大和での妻イスケヨリヒメという「継母」に言い寄ったため不義なりとして、イスケヨリヒメの生んだ皇子カムヌナカワミミによって殺害される。
この記述から見えるのは、タギシミミという古日向(投馬国)由来の王がクマソ・ハヤトという王化に属さぬ南九州の地から大和へ東征して大和王権を打ち立てるなどと言うのは記紀のテーマである大和王権中央自生説に反するので排除されたということだろう。
一種の「証拠隠滅」だが、その一方で投馬国由来の「ミミ」名までは抹殺しなかったのは「頭かくして尻隠さず」というべきか。
それとも「ミミ」名だけでも残しておこうという客観的な歴史主義者が記紀の編纂者の中にいたためなのか。
そのおかげで、私は魏志倭人伝上の投馬国の王「タギシミミ」こそが橿原王朝を樹立した「神武(イワレヒコ)」その人に違いないと確定することが可能になったのである。
ただしこの「東征」はもとより移住的な「東征」であり、東征というより「東遷」を使うのがふさわしいと思う。南九州(古日向)の王権が畿内へ「東遷」した結果生まれたのが橿原王朝であり、初代の王はタギシミミであった、と考えている。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます