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鴨着く島

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投馬国の王統を探る(1)

2025-03-21 10:55:04 | 邪馬台国関連
「投馬国」とは魏志倭人伝上の倭国内にあったとされる一国だが、戸数が何と5万戸もあったと記録された大国なのに、邪馬台国のかげに隠れて一般には大雑把にしか追究されていない。

邪馬台国九州説ではおおむね投馬国は宮崎県の「都万(妻)」(西都市)あたりにあったとする説が多い。

また畿内説だが、私は畿内説を完全否定しているので取り上げる必要性はないのだが、一応畿内説における投馬国の比定地を挙げておくと、「瀬戸内海水行説」だと吉備国、「日本海水行説」だと出雲国が大勢のようである。

後者についてもう一つ二つ言えば、5万戸の大国という点と、官に「彌彌(ミミ)」がおり、副官に「彌彌那利(ミミナリ)」がいたと書かれているのだが、大国云々は措くとしても、「彌彌」と「彌彌那利」に関しては全く言及されることなく無視されていることがほとんどである。

前者の九州説にしてもほぼ同様で、宮崎県西都市の妻地方が比定地として取り上げられ、また神武天皇の東征説話に宮崎県の出発点(出航地)として日向市の「美々津(ミミツ)」がわずかに言及される程度である。

 邪馬台国は九州島を出ない

私は魏志倭人伝上の半島の帯方郡から九州島に至る行程における「水行」「陸行」とその距離と日数及び方角を考察してみて、次のような結論に至った。

帯方郡から半島南端の「狗邪韓国」までの水行7000里は「7日の行程」、狗邪韓国から対馬までの水行1000里は「1日の行程」、対馬から壱岐までの水行1000里も「1日の行程」、壱岐から末盧国(唐津)までの水行1000里も「1日の行程」とし、その合計は水行1万里すなわち「10日の行程」であると結論付けた。

この1万里とは、倭人伝で女王国連盟21か国を列挙したあとに、狗奴国を取り上げ、狗奴国は女王に属さずとしたうえで男王卑弥弓呼(ヒコミコ)と官に狗古智卑狗(キクチヒコ)がいると記したあとに、

<郡より女王国に至る万2000余里(なり)>

と書いてあるうちの「万(1万)里」であることは論を待たない。

ただし「水行」すなわち航海の場合は「風待ち」による遅延が生ずることは当たり前である。したがって「7000里が7日行程」「1000里が1日行程」とする場合、風待ちなどによる遅延を除いた言わば理想状態での行程である。

要するに「風や天候不順で遅れるのは勘定せず、海がベタ凪状態だったら」という「7日行程」であり、「1日行程」なのである。

また半島から対馬、壱岐、末盧国(唐津)へは3つの海峡を渡るのだが、それぞれの海峡は渡海の途中で寝るわけにはいかない。つまり1日行程でなければ対馬海流によって日本海へ流されるため、2日間にまたがらない必要性があり、海峡渡海の各1000里はすべて「1日行程」となる。

以上から帯方郡から狗邪韓国までの7000里は「7日行程」であり、狗邪韓国から九州北岸の末盧国(唐津)までの3000里は「3日行程」で、合計すると1万里で「10日の行程」となる。

これが「南、邪馬台国に至る、女王の都する所。水行10日、陸行一月。」のうちの「水行10日」の正体に他ならない。先に上げた<郡より女王国に至る、万2000余里(なり)。>のうちの「万(一万)里」に当たる。

したがって「南、邪馬台国に至る・・・」の南とは帯方郡からの南であることが理解される。要するに帯方郡から水行1万里(10日)で九州北岸の末盧国に到達したということである。

残りは「陸行一月」であるから、唐津に上陸したらあとは陸行、つまり徒歩による移動で邪馬台国まで行くということになる。邪馬台国は九州島の中に求める他ないのである。




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