140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

純粋理性批判(5)二律背反

2013-03-16 00:05:05 | カント
光文社「純粋理性批判 5」を読んだ。
第5分冊は「超越論的な弁証論」の続きで「純粋理性の二律背反」を扱っている。
「二律背反(アンチノミー)」とは「二つの対立する命題が、同じ根拠を持って成立することを
意味する論理学の用語」とのことだ。
「理性を、経験の限界を超えたところにまで拡張しようとすると、そこには詭弁的な理論が発生する」
「この理論には矛盾が含まれることがないのであり、それだけでなく理性の本性のうちの
必然的な条件から生まれるものである。ただ不幸なことに対立する命題も同じように、
妥当で必然的な主張の根拠を備えているのである」
そうしたものとしてカントは四つの二律背反について語る。

第一の二律背反
定立命題 :世界は時間的な端緒をもち、空間的にも限界によって囲まれている。
反定立命題:世界は時間的な端緒をもたず、空間的な限界をもたない。
      世界は時間的にも空間的にも無限である。

第二の二律背反
定立命題 :世界において、合成された実体はすべて単純な部分で構成されている。
      また世界には、単純なものか、単純なものから合成されたものしか現存しない。
反定立命題:世界のうちのいかなる合成されたものも、単純な部分で構成されたものではない。
      だから世界のうちには単純なものはまったく存在しない。

第三の二律背反
定立命題 :自然法則に基づいた因果関係が、世界の現象の全体を説明できる唯一の因果関係ではない。
      現象を説明するためには、自由に基づいた因果関係についても想定する必要がある。
反定立命題:自由というものは存在せず、世界ではすべてが自然法則だけによって生起する。

第四の二律背反
定立命題 :世界にはその一部であるか、その原因であるような絶対に必然的な存在者が含まれる。
反定立命題:世界のうちにも、世界の外にも、世界の原因として絶対に必然的な存在者などというものが
      現存することはない。

第二の定立命題は心の性質が単純であれば不滅であるということと関連している。
つまり二律背反は第4分冊にあった「形而上学の探求の目的とするところは、神、自由、不死という
三つの理念だけである」ということと関連している。

「思索にかかわる関心」として
定立命題は「すべての条件の連鎖をアプリオリに、そして完全に掌握することができることになる」が
反定立命題は「はてしなくどこまでも問いつづけざるをえなくするために、多くの人を不快にするのである」という。
明晰さという点では定立命題を支持する人が多いのだと思う。
「どこまでも問いつづけること」に耐えられる人は少ないのだと思う。

「通俗的という関心」については以下の記載がある。
「定立命題の側には通俗性という利点があり、この利点が定立命題の好ましさの大きな支えと
なっているのである。ふつうの人の知性は、すべての総合には無条件的な端緒が存在しているという理念には
いかなる困難な問題もないと考える。そしてこうした知性は、結果から原因に上昇するよりも、
原因から結果に下降することに慣れているのである。
そして絶対的な第一のものという概念のうちに安らぎをえるのであり、自分の歩みを導く糸を
結びつけるための確実な点をみいだすのである」
つまり考えることに安らぎなんてない。

「第一と第二の二律背反はどちらも虚偽であると判定された」と解説に書いてある。
どちらかが真であるという命題ではなかったということだ。
私たちは「無限」という概念を扱いきれないのだと思う。
そして経験的なことから遠ざかってしまうことで虚偽に至る。

第三の二律背反についてはどちらも正しいと考えることができるのだという。
「叡智的な原因という観点から眺めたときは自由なものとみなされるが、現象という観点から
眺めるときには、自然の必然性にしたがったさまざまな現象の帰結とみなされる」という。
なぜ「叡知的なもの」を引っ張り出してきているのかよくわからないが
カントは道徳的な自由が否定されることを避けようとしている感じがする。
カントはキリスト教からは自由ではなかったのだろうか?
ニーチェは道徳を攻撃したし、ウィトゲンシュタインは語りえぬものにしてしまった。
道徳的に自由であることから法的な責任が生じるというようなことも書いている。
哲学が法に助けてもらおうなんてどうかしている。

さて今を生きる私たちには少しでもまっとうな命題が与えられているだろうか?
遠くの天体ほど速く遠ざかっているという観測結果から宇宙は膨張を続けていると考えられている。
膨張の前には虚無の空間があり膨張の後には虚無の空間が埋められていくというわけでもない。
風船にいくつか点をかいて膨らませると点と点の間は広がって行くが、
この場合は三次元的に膨らむことにより二次元の空間が膨張していると考えられる。
そうすると宇宙は四次元的の球が膨らむことにより三次元の空間が膨張しているのだということになる。
しかし「四次元の球」なんて私たちは想像することもできない。
それは私たちの経験を超えたことであり空間に関しては第一の二律背反自体が意味をなくす。
そして時間的な端緒というものは今でも想像することができない。
時間があるから始まりとか終わりといえるのであって時間そのものの始まりなんて意味がない。
宇宙は無の揺らぎから生まれたといったとしても時間的な端緒については何も語れない。
それでもやはり理性は求めてしまうので安直な答に同意しないよう
気をつけなければならない。

空間が無限に分割できるのであれば物質も無限に分割できると考えてもよさそうだが
素粒子は単体では存在できないそうだ。
素粒子で構成された物質をエネルギーを加えて引っ張っても質量とエネルギーは等価だから
加えたエネルギーによって素粒子は新しいペアとくっついてしまう。
だいたい質量とエネルギーが等価といった途端に第二の二律背反自体が意味をなくす。
物質を分割するという行為は無限には繰り返せないし
単純なものを確認することもできない。

「1980年代にリベットは、被験者の脳の活動が、意識的に動作を決定するおおよそ1/3秒前に
開始したことを発見した。これは、実際の決定がまず潜在意識でなされており、
それから意識的決定へと翻訳されていることを暗示している」という。
自由意志はあるのだろうか?
入力と内部状態から出力を決める回路をステートマシン(有限状態機械)と呼んでいる。
感知することが入力に相当し、内部状態が思考に相当し、行動が出力に相当するのなら
私たちはちょっと複雑なステートマシンのようなものではないかと思う。
電気回路と異なるところは経験によって回路を変更することができるところだと思う。
その組み合わせが膨大になるので無限の選択肢が容易されていると錯覚する。
機械のように単純に動いているわけではない。
とても複雑な機械が動いている・・・

そうすると今、こうして書いていることも
自由意志によるものではないと
いうことになる。

二律背反の問題はカントのオリジナルというわけではなくて
18世紀初頭にはニュートンの代理人であるクラークとライプニッツのあいだで、
世界、神、自由について激しい論争が行われたという。
古代ギリシャではプラトンとエピクロスの対立があったという。
しかしSNSもメールもない時代なのでクラークとライプニッツは往復書簡を交わす形で論争を行ったという。
往復書簡ってなんか仲が良さそうだね。