140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

マタクリカエスノカ!?

2013-03-03 00:05:05 | Weblog
「おれたちはよりかがやかしい未来のために・・・
おれたちのあとからくる世代―――子孫のために毎日努力しているんだ!」
「ホウスルト・・・オ前サマガタノ子ドモハソノオカゲデ
毎日幸福ニクラセルトイウ分ケカノ?」
「い、いや・・・子どもたちだって、またその子どもたちのために
努力しなければ・・・」
「マタクリカエスノカ!? ソレジャ・・・イツニナッタラ・・・
誰ガサイゴニソノ幸福ヲモラエルノジャ!?」
進歩思想がこの問いに答えることができるとは思えない。

石ノ森章太郎「リュウの道」を例にして永井均は進歩思想の薄っぺらさを指摘している。
「次世代に望みを繋ぐ」と言い聞かせることで
進歩思想は人間の有限性から逃れようとしているように私には思える。
そこでは「私の人生は無駄ではない」と信じる理由が必要とされている。
今を生きているなら、そんなことは問題にならないだろうが、
未来のために現在を犠牲にする習慣が定着してしまうと
それを正当化しなければならなくなる。
嘘の生活には嘘の理由がつきまとう。

ジャン・クリストフの人生が無駄ではなかったことをロマン・ロランは描こうとしている。
しかし、そこにニヒリズムという道具を適用してみると、
その思想には何ら答が含まれていないことがわかる。
その小説が人の一生を克明に語れば語るほど喪失もまた増えていく。
誰もが次世代のために努力するなんて
ただ空虚なだけだ。

「努力をしない人間は世の中で認められない」と子どもの頃によく叱られた。
私には努力をする理由がよくわからなかった。
「人に認められるために努力するの?」
「なんで人に認められなければいけないの?」
そんなことを子どもなりに考えていたが、その問いは解消されていない。
今では「ビジネスパーソンとして成功するために努力が必要です」ということらしいが
「なんでビジネスパーソンとして成功しなければいけないの?」・・・
・・・何も変わってはいない。
そして私はつまらない価値観を押し付けてきた者を決して許さないだろう。
「世の中で認められたくて、それが実現したなら、それでいいんじゃないの?」
私が認めないことについて彼と彼女は何も気にする必要はない。
私が認められないことについて私は何も気にする必要はない。
それほどまでに彼らと私は違っている。

努力しなければ生き残れない。
ただそれだけのことだったとしたら?生き残るための人生だとしたら?
あるいはDNAが存続することが人生だったとしたら?
「マタクリカエスノカ!? ソレジャ・・・イツニナッタラ・・・
誰ガサイゴニソノ幸福ヲモラエルノジャ!?」?????
いや、もう幸福なんてどうでもいいですよ。
そんなものを目的化することは不幸ですよ。
幸福が未来にあるなんて幻想ですよ。
今そこにあるものが・・・

私は「人生が無意味だ」と主張しているわけでもなく
進歩思想を否定して「ニヒリズムが良い」と主張しているわけでもないんだけど・・・
・・・誤解を解こうとしても言葉が見当たらないことに気付く。
なんというか私が誤解しなければ良いのだと思う。
あるいは自分の誤解を解けば良い。
誤解されたとしても
仕方がない。