140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

純粋理性批判(3)

2013-03-09 00:05:05 | カント
光文社「純粋理性批判 3」を読んだ。
第1分冊では「感性による直観の純粋な形式」である時間と空間を扱っていた。
第2分冊では「感覚器官が直観した対象を思考する能力」である知性に関して
「直観一般の対象そのものにアプリオリに関わる純粋知性概念」である「カテゴリー」が
列挙され、その超越論的な根拠づけ(演繹)が展開された。
第3分冊の原則論では「カテゴリーをどのようにして現象に適用するか」を扱っている。
「カテゴリーが現象に適用できるという事実の確認」ではなく、
「カテゴリーを適用するための方法」について考察される。
「根拠づけの応用編」とのことだ。

「感性なしでは対象が与えられないし、知性なしでは対象を思考することができない。
対象の概念を感覚的なものにすること、すなわち概念に直観の対象を与えることが
必要であると同時に、直観を理解できるものとすること、すなわち直観の対象を
概念のもとに配置することもまた必要なのである」と
カントは超越論的な論理学の最初のところで示していたという。

カテゴリーが対象に適用される可能性を示すため、カントは<図式論>を展開する。
解説によると概ね以下のようなことらしい。

「知性と感性を媒介する第三のものに必要な要件は二つあり、
第一の要件は、心に描かれた像のように具体性を持つという感性の側の性質と
カテゴリーのように純粋なものという知性の側の性質の両方を兼ねそなえていることだった」
「時間は内的な感覚能力で描かれる像の多様なものの形式的な条件であることで
感性と共通したものであると同時に、純粋な直観のうちにあるアプリオリな多様なものを
含むという意味でカテゴリーおよび知性と共通したものである。
こうして時間は第一の要件を満たす」

「第二の要件は、現象と同じように感性的なものであるという性質と、カテゴリーのように
知性的なものであるという性質を兼ねそなえていなければならないことだった」
「時間は普遍的なものであり、アプリオリな規則にもとづくものであるという意味で
カテゴリーと同種のものであると同時に、時間は多様なものを心のうちで経験的に
思い描いたときに、その像のうちにつねに含まれているという意味で
現象と同種のものである」

「このように時間は、感性と知性を媒介する第三のものに必要なすべての要件を満たしている。
だから超越論的な時間規定こそが、知性の概念の<図式>の役割をはたすのであり、
この時間規定を媒介として、現象がカテゴリーのもとに包摂されることになる」

ちょっとわかりにくいので箇条書きにしてみる。
①時間は内的な感覚能力で描かれる像の多様なものの形式的な条件である<感性と共通>
②時間は純粋な直観のうちにあるアプリオリな多様なものを含む<知性と共通>
③時間はアプリオリな規則にもとづくものである<カテゴリーと同種>
④時間は思い描いた像のうちにつねに含まれている<現象と同種>

もともと「感性による直観の純粋な形式」を時間と空間と捉えていたので①は定義通り。
さて②についてはどうだろう?アプリオリな多様なものとは何だろうか?
次に③についてはどうだろう?「直観の形式」であることは「アプリオリな規則にもとづく」
ことを含んでいるのだろうか?
最後に④についてはどうだろう?像のうちに含まれていることは①から自明と思われる。
だからといって現象と同種のものなのだろうか?
そもそも時間そのものを認識することはできないとしておきながら
時間を主語として文章を組み立てるのはおかしくないだろうか?
循環してはいないだろうか?

「すべての現象は時間のうちに存在する。(内的な直観の持続的な形式としての)時間は
基体であり、同時存在も継起も、時間のうちでしか思い描くことができない」
現象は時間のうちでしか思い描くことはできない。
そして時間そのものを思い描くことはできない。