遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『銀漢の賦』 葉室 麟  文藝春秋

2012-01-05 21:38:42 | レビュー
本書のタイトルにある「銀漢」はこんなシーンに出てくる。
祇園神社と呼ばれる高原神社の夏祭りで、十三、四歳頃の源五、小弥太、十蔵の三人が満天の星空を見上げている。小弥太がなにげなく言う。「知っておるか、天の川のことを銀漢というのを」「ぎんかん?」と十蔵はつぶやき、「それはどういう意味だ」と源五は顔をしかめるという場面だ。
私はこの言葉を知らなかった!宋の詩人・蘇軾の「中秋月」に「銀漢声無く玉盤を転ず」という一節で使われているようだ。
 著者は、この言葉に物語の最後の段階で、源五の思い「銀漢とは天の川のことなのだろうが、頭に霜を置き、年齢を重ねた漢(おとこ)も銀漢かもしれんな」を重ねている。
 本書を読み終わってから、改めてタイトルに戻る。少年時代に身分差を超えて友となった三人の男達が成人後あることを契機に友であることを断絶して、それぞれの生き方をとる。幾星霜の果てにも心の友としての絆が絶えてはいなかった。この物語の底流を表象するのに、「銀漢」は相応しい言葉だった。言葉選びの巧みさを感じる。

 本書は北九州あたりに想定された月ヶ瀬藩六万五千石を舞台とし、江戸幕府松平定信の治世を背景にして著者が創作した小藩の政争騒動物語である。

 日下部源五は普請組五十石の家の子で、鉄砲衆を経て、新田開発指導の群方という役目の下級武士である。岡本小弥太も同様に、普請組七十石の家の子だった。父は江戸で側用人として百五十石の家だったが、ある事件で急死し、直後に岡本家は半知となり、母親とともに国に戻ってきていた。二人が知り合うのは貫心流の磯貝道場である。ここでの剣術修業が友としての絆を育む。その小弥太は松浦家の養子婿に入り、千二百石の家老職にまで上りつめていく。十蔵は笹原村の百姓の子。源五と小弥太が道場で知り合った日に、魚籠を担いでいてよろけた十蔵と源五がぶつかりそうになり、それがきっかけで、十蔵の捕まえてきたうなぎを源五が小弥太の母のために買うことになる。この十蔵も磯貝道場に来ていたことがわかり、三人の友としての関わりが深まっていく。だが、少年時代の絆は成人以降、ある時から絶縁する事態に至る。それはなぜか?

 家老松浦将監(小弥太)が郡方の源五の案内で、風越峠を訪れるところから話が始まる。かつて家老と鉄砲衆という立場の違いはあるが、灌漑用水を引き三十八町歩の新田を開発することに尽力した土地のあたりを見回った後、将監の希望で風越峠に登るのだ。その時、源五は将監の異常に気づく。この峠は若い頃、二人が遠駆けをしてきた場所でもあった。その場所で、将監がつぶやく。「源五よ、わしは間も無く名家老どころか、逆臣と呼ばれることになるぞ」と。源五は背筋に戦慄を感じ、またその声に若いころを思わせる真摯さを併せて受け止める。
 源五は、苦い感慨とともに、十二歳のころの出会いを回想していく。

 翌日夕刻、源五は郡方上役を赤提灯の小さな店に誘う。この上役は城中の派閥の動きに詳しい男なのだ。二十年前の鷹島騒動という政変の話を持ち出して、いま月ヶ瀬藩に何が起ころうとしているのか探りを入れる。聞き出したのは、儒学者で側用人の山崎多聞が提言した新たな藩校・興譲館開設の話。寛政二年(1790)に幕府が<寛政異学の禁>を発し、朱子学を官学にするとしたことに絡んでいる。将監はこの提言を潰しに掛かり、興譲館は取り止めとなる。藩主惟忠と家老将監の間に底の見えない暗渠ができていく。藩主には新たな藩校設置を踏み台に、幕閣の一員に入りたいという気持ちがあったのだ。従来この藩には長崎警備の役があり、老中職就任はご遠慮という慣例があった。それ故、この藩主の希望の裏には、幕閣への道につながる別の働きかけも行われてきていた。

 源五による若い頃の回想と現下の多聞一派の画策が交互に絡みながら状況が進展していく。源五の回想は、新田開発のこと、藩内での一揆騒動の高まり、一揆の首謀者を鉄砲で撃ちとるように命令を受けたことなどに及んでいく。その一揆は、源五が将監に絶縁状を送る契機になり、一方、一揆は二十年前の鷹島騒動とも関連していた。そしてその鷹島騒動の中心人物であり、前藩主の下で政権を牛耳っていた九鬼夕斎は、将監の父を急死させたことにも関係していたのだ。
 片や現実の世界では、源五の娘婿の伊織を通じて多聞から呼び出しを受け、将監殺害を命じられるという事態になる。源五はその命を引き受けるが、恩賞として鷹島屋敷の屋敷番を望む。鷹島屋敷とは、鷹島騒動の舞台となったところである。

 将監殺害を命じられた源五が将監の屋敷を訪ねるというところから、現実の世界が動き出す。そして、そこで源五は将監の考えていることを詳しく聞かされることになる。

 「おぬしとは、つくづく悪縁じゃのう」
 「そうか、力を貸してくれるか」
 「お主の命、使い切らせてやろう」
 源五は落ち着いて言った。最初からそのつもりだったのである。

 源五は若い頃に剣術家になることを夢想し、普請組から鉄砲衆に移り、新田開発の工事に加えられた。そこでは寝食を忘れるほどに工事に身を入れ、作業小屋に寝泊まりするほどで、その間に妻が病死する。新田開発が終わった後も、何の恩賞もないまま下級武士にとどまり、郡方を勤めている。
 将監は松浦家に養子に入った後、家老職に上り詰めるために精勤する。その裏には父の敵を討つという遠望を心の一隅に蔵していた。藩内で出世するだけでなく、その詩文や南画の才は江戸にまで知られ、三十を過ぎて月堂と号し、近隣の大名や幕閣にも月堂との交際を望む者がいるほどの人物になっていた。勘定方として大阪にいたころは、木村蒹葭堂と交際し、彼の描いた絵が禁裏にも知られるようになる。
 松平定信は、田安家に生まれ、白河松平の養子となった人物で、和歌に堪能で文人を好み、絵も描く。田安家には画人として名を上げた谷文晁がおり、定信の近侍として仕えていた。将監はこの谷文晁とも交流を深めており、文晁から月ヶ瀬藩に関わる幕閣の動きの一端を教えられていたのだ。
 
 文中のこんな下りを引用しておこう。
(しかし、それも愚痴だ。為政者は孤独なものだ。振り返るころなど許されぬ。)
 将監は自分に言い聞かせた。夕斎もまたそうではなかったか、と思うのだ。
(政事には悪人が必要だ)
 と近ごろの将監は考えている。権力を握った者はその現実から逃れることは許されない、と自分に言い聞かせるしかないのだ。


「お主は気づいていなかったかもしれんが、わしにはわかっておった。だから、お主が志乃様を妻として松浦家を継ぐのが一番よいのだと志乃様に言ったことがある。志乃様は嬉しそうにうなずいておられたが、その時には、もうお城に上がることが決まっておったのだ」     (注記:源五の言。志乃は前藩主惟常の側室となり世子を産む)
「しかし、志乃様はみつにお主のことを言ったのだぞ」  (注記:将監の言)
「志乃様は城に上がった後、お主がみつ殿を妻にすることになるだろう、と思っていたからではないか。その時に、みつ殿に余計な気遣いをさせまいと思って言われたのであろう」      (注記:源五の言)
 ・・・・・
考えてみれば、志乃の心がどうだったかなど、いまとなってはわかりようのないことである。すべては白い霧の彼方に消え去って、わかりようもないということが年を取るということなのかもしれない、と将監は思った。


 藩主と家老の関係、二つの政争に巻き込まれた人々の確執と両政争の対比、三人の男の友誼のあり方と顛末、小藩の新田開発の意味、松浦家の美人姉妹を巡る人間関係とそれぞれの思いの交錯など、様々な切り口が絡み合いながら物語が展開していく。巧妙にストーリーが構成されている。読後の後味のよい小説だった。

 最後に、源五に届けられた将監の遺品、一幅の掛け軸の画賛をとりあげておこう。

 玲瓏山に登る   蘇軾
 
 何年僵立す両蒼龍              僵立(きょうりつ)
 痩脊盤盤として尚空に倚る          倚る(よる)
 翠浪舞い翻る紅の罷亞            罷亞(ひあ)
 白雲穿ち破る碧き玲瓏            玲瓏(れいろう)
 三休亭上巧みに月を延き           延き(ひき)
 九折巌前巧みに風を貯う
 脚力尽きる時山更に好し
 有限を将て無窮を趁うこと莫れ        趁う(おう)

ご一読、ありがとうございます。


本書に関連する史実レベルの語句を検索してみた。
このフィクションの背景状況をリアルに膨らませるのに役立つと思う。
貫心流 ← 貫心流居合術
居合術 関口流抜刀術 :YouTube
荻野流砲術 ← 松山藩荻野流砲術
直心影流剣術  :ウィキペディア

柴野栗山 :ウィキペディア
朱子学  :ウィキペディア
寛政異学の禁 :ウィキペディア
陽明学  :ウィキペディア
伊藤仁斎 :ウィキペディア
荻生徂徠 :ウィキペディア
陳子昂  :ウィキペディア
蘇軾   :ウィキペディア
松平定信 :ウィキペディア
木村蒹葭堂 :ウィキペディア
谷文晁  :ウィキペディア

古河藩  :ウィキペディア

山中一揆 :「浄土宗摂取山念佛寺とフォルクローレ」のサイトから
千葉県茂原の車連判状  :「高崎五万石騒動」高崎五万石騒動研究会(代表:星野)


池坊 ← いけばなの歴史 :いけばな池坊
ツワブキ :「季節の花300」(山本純士さん)
白芙蓉  :「茶花大好き」(gionmamoriさん)
撫子   :ウィキペディア
櫨(はぜ):「植物園へようこそ! Botanical Garden」(Shigenobu AOKIさん)

谷文晁 公余探勝図 :文化遺産オンライン

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

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その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)




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1 コメント

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Unknown (通りすがり)
2015-01-16 21:33:07
文章の歯切れが悪くて、何が言いたいのか全く伝わらない。

まずは、国語力を培って欲しい。

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