遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『ヤマト政権誕生と大丹波王国』  伴とし子  新人物往来社

2021-08-26 11:21:44 | レビュー
 8月初旬に安部龍太郎著『日本はこうしてつくられた』(小学館)を読み、その読後印象記はご紹介した。この本で著者は「大丹波王国」という仮説に触れられていた。この「大丹波王国」という言葉を初めて目にし、これに触発されて本書を読んでみた。
 実にスリリング!古代史の裏面に封じ込まれていた歴史が国宝に指定されている文書と考古学の発掘調査結果などを駆使し、徐々に解き明かされていく。ヤマト政権とそれ以前の時代について、古代史を書き換える仮説と言える。興味深い。
 奥書を読むと著者は『古代丹後王国は、あった』(東洋経済、平成10年)、『前ヤマトを創った大丹波王国』(新人物往来社、平成16年)という本を上梓している。これらは未読だが、タイトルから推測すると、本書は現時点でそれらの延長線上で深耕された考察の成果をまとめた書と言えそうだ。2011(平成23)年1月に出版されている。

 表紙には、「国宝『海部(あまべ)氏系図』が古代史を書き換える」という副題が付いている。著者はこの「海部氏系図」を詳細に解読し、考古学上の発見などによる諸事実との論理的整合性を検討しながら、正史からは排除された古代政権の実態を明らかにしようと試みている。
 ヤマト政権の確立以前に、現在、丹後・丹波・但馬という地名で呼ばれる地域さらにはその周辺に広がる地域に「大丹波王国」と称し得る政権が存在し、その一族がヤマトにも移りヤマトを治めていた時代がある。神武東征伝説の神武より以前に畿内ヤマトを治めていたのが大丹波王国の一族だったと論じる。そして、神武とは争うことなく政権を譲り渡し友好関係を築く立場をとり、丹後の地に戻ったという。

 それは私たちが学校で日本史の授業を通して学ぶ「ヤマト政権」の樹立・発展という古代史には触れられることがほとんど無い古代の側面である。定説が確立していないからなのだろう。
 例えば手許に『詳説日本史研究』という学習参考書がある。これを読むと、古墳時代のところに、「古墳出現の前提となる広域の政治連合の形成が、西日本と東日本でそれぞれ別に進行していたこと、そして両者の合体によってヤマト政権が成立したことを示すものかもしれない」(p30)、「ヤマト政権の国土支配は、倭王武(雄略天皇)が中国の宋の皇帝に奉った上表文や、・・・・(古墳3例を列挙し、そこから出土の刀剣)に刻まれた銘文などから、5世紀中ごろから後半にかけて、東国から九州までにおよんでいたことがわかる。」(p42)、「ヤマト政権の中枢は、大王(おおきみ)を中心として、大和・河内やその周辺を基盤とする豪族の連合体によって占められていた。大王家は大和盆地南東部の三輪山山麓を地盤として勢力を伸ばしてきたが、5世紀に入ると、しだいに大王家内の血縁による大王位継承権を確立するようになった」(p42)という説明にとどまる。それ以上、深掘りする説明は出て来ない。

 つまり、学校の授業の古代史の「大和・河内やその周辺」から外れたところに、光をあてる作業が本書と言える。古代史に関心を抱く人には、古代政権の実情を捕らえ直す一冊になるのではないか。『日本書紀』『古事記』など正史には極力触れられず葬り去られた古代勢力の存在がここに息づいてくる。

 京都府北部、丹後半島の東側に宮津湾、そして有名な「天の橋立」がある。この天の橋立の北側(丹後半島側)に、丹後一宮籠(この)神社が位置する。籠神社に国宝に指定された『海部氏系図』が所蔵されている。この神社は代々海部氏の一族が祭祀を司って来られ、現在は第82代だという。ここにはさらに『海部氏勘注系図』を所蔵されている。著者はこれら系図を読み解きながら、九州の高千穂とは別に、丹後に天孫の丹波降臨伝承があったことや、系図の中にヤマトに入っていった古代の海部氏がいたことが記録されていること、丹後・丹波地域の古墳から出土した物などを総合的に考察して、「大丹波王国」が存在したという仮説を構築していく。
 第4章「丹後に広がる海部氏の故地-神の里と清地」の冒頭に、読者向けに考察の総論にあたる一文をまとめている。「丹後に本拠地をおいた海部氏の故地は、ヒコホアカリの降臨経路からみても、その子孫たちの活躍した状況、墓所などからみても、丹後丹波に留まらず、広く若狭から山城、大和へと広がっていく。古代海部族が、まずは、日本海沿岸である丹後に建国をして、大丹波王国を築き、やがて、大和へ入り、ヤマト政権の基礎を、すなわち、前ヤマトを構築し、初期ヤマト政権に深く関わってきたことを系図から分析できた」(p117)と。
 さらに、著者は海部氏系図の詳細な分析、読み解きの中で、卑弥呼が海部氏系図の中にいるという仮説も論じている。まさに、古代史を読み替える、あるいは現在語られている古代史を再吟味する必要性を提起していると言える。古代史好きにはおもしろい展開といえるのではなかろうか。

 本書の第8章は著者考察のまとめである。「まとめ 大丹波王国は、初期ヤマト政権そのものだった」と題されている。結論だけまず知りたい人はこの章を読むといいだろう。それまでの章はその論理的な考察の積み上げプロセスなのだから。勿論、この論理的な分析、考察プロセスを読むことにより、このまとめ、主張点を理解できることになる。

 本書で考察されている部分で、勝者の歴史書である『日本書紀』『続日本紀』『古事記』に記されている事実をいくつか例示しよう。著者が本書で考察している事項の源を手許の資料で確認してみた。本書との関係で言えば、勝者側の古代史記述において抹消できなかった事実の部分を断片的に書き残したものととらえることができる。著者の考察の要点も併記しご紹介してみたい。本書への興味が増すかもしれない。

*東征してきた神武天皇の皇軍は12月4日についにナガスネヒコを討つことになる。
 そのナガスネヒコは神武天皇に、昔、天磐船に乗り天降った天神の御子、クシタマニギハヤヒノミコトに仕えていると語っている。ナガスネヒコは殺害されるが、クシタマニギハヤヒノミコトは部下たちを率いて神武天皇に帰順した。その続きに、「天皇はニギハヤヒのミコトが天から降ったということは分り、いま忠誠の心を尽くしたので、これをほめて寵愛された。これが物部氏の先祖である」(p106)と『日本書紀』は記している。
 ⇒『海部氏勘注系図』に「始祖 彦火明命」と記し、またの名を列挙し「彦火明命のまた名はニギハヤヒノミコト、・・・・」と記されていることを指摘し、物部氏の祖と海部氏の祖はもともと同族だったと論じている。
 また、『海部氏系図』には「三世孫 倭宿祢命」と記す。この人が丹後からヤマトに入ったと注記されている。
*『古事記』の「海をわたるオキナガタラシヒメ-戦う女帝(=神功皇后)」の箇所に、「日継ぎの御子の側は、丸迩(わに)の臣の祖、ナニハネコタケブルクマに軍を統べさせておった」(p225)と記されている。軍を率いて忍熊王を討った人である。
*『日本書紀』の仁徳天皇の65年に、飛騨の宿儺という体は1つで2つの顔、4本の手を持つ人が皇命に従わず人民を略奪するので、「和珥臣の先祖の難波根子武振熊を遣わして殺させた」(p249)という記録もある。
 ⇒「十八世孫 丹波國造建振熊宿祢」という名が海部氏系図に記されている。古事記では和邇(=丸迩)の臣の祖としているので、海部氏と和邇氏との関わりが考えられる。『古事記』『日本書紀』に記されていないより詳しい内容がこの系図に注記されている。
  品田(=応神)天皇のとき、若狭木津高向宮で「海部直」の姓を賜るということが系図に書かれている。逆に言えば、この時皇位継承権を奪われた。静かなる国譲りをしたことになると著者は読み解いている。
*『日本書紀』開化天皇の6年春1月14日の条の後半に、「これより先、天皇は丹波竹野姫を妃とされた。彦湯産隅命を生まれた。次の妃の和珥臣の先祖姥津命(ははつのみこと)の妹姥津媛は、彦今坐王を生んだ」(p120)と記す。
 ⇒著者は「古代において大丹波王国が大きな力をもっていたことを表している」と説く。
*『日本書紀』垂仁天皇の15年春2月10日の条に、「丹波の5人の女を召して後宮に入れられた。一番上を日葉酢媛(ひばすひめ)という。次は・・・・・第五を竹野媛という。」それに続く秋の8月1日の条には、「日葉酢媛を立てて皇后とされた」(p141)と記す。
 ⇒海部氏と天皇との関係がうかがえる。皇統に丹波系の血脈が繋がっていく。

*『続日本紀』には、元明天皇の和銅6年(713)夏4月3日の条に「丹波国の加佐・与佐・丹波・武野・熊野の五郡を割いて、初めて丹後国を設けた」と記す。
 ⇒逆に言えば、それまでは一つの丹波国・旦波(たには)国だった。

 この書に、考古学の観点、丹後・丹波の古墳の分布とその出土品等について、系図と併せて考察されている。私はいままでこの地域の古墳の存在を意識したことがなかった。その多さに驚いた。古墳と大丹波王国との関係を論じている点は実に興味深い。それは、海部氏つまり海人族が大陸との交流を含め力を培い、大豪族として各地域を治め、王国と呼べる勢力となっていたことを頷かせる。

 もう一つ、丹後の祖神として、豊受大神の信仰について著者が考察を展開している側面がある。豊受大神とは何か。この神は記紀の中でどう位置づけられてきたか。豊受大神がまぜ伊勢神宮の外宮に遷されたのか。この視点もあらためて興味深い論点だと思うようになった。本書でご確認いただきたい。
 出雲圏のことも考えあわせると、古代史は、未だ秘められた部分、未知の部分が多くて、ますますおもしろく、奥が深そうである。
 本書は古代史に一石を投じている。

 ご一読ありがとうございます。

参照資料
『詳細日本史研究』 五味文彦・高埜利彦・鳥海靖編、山川出版社 1998年
『日本書紀 上 全現代語訳』 宇治谷孟訳  講談社学術文庫
『続日本紀 (上) 全現代語訳』 宇治谷孟訳  講談社学術文庫
『口語訳 古事記 [完全版]』 訳・註釈 三浦佑之  文藝春秋


本書との関連で、関心事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
丹後一宮 元伊勢 籠神社  ホームページ
  国宝 海部氏系図(平安初期)
海部氏系図   :「文化遺産データベース」
海部氏系図  :ウィキペディア
天の橋立  :ウィキペディア
丹波とは 名の由来は「田庭」など諸説  :「丹波篠山市」
なぜ丹後半島には古墳が多いのか?失われた古代「丹後王国」の謎を追う
  [謎解き歴史紀行「半島をゆく」歴史解説編」  :「サライ」
丹後半島の古墳 1(京都府) 旧石器・縄文‐弥生・古墳時代の遺跡と資料館を訪ねる
 :「小さな日本の風景」
丹後半島の古墳 2(京都府 旧石器・縄文‐弥生・古墳時代の遺跡と資料館を訪ねる
:「小さな日本の風景」
トヨウケビメ :ウィキペディア
登由宇気神  :「國學院大学古事記学センター」
物部氏    :ウィキペディア
和珥氏    :ウィキペディア
海人族    :ウィキペディア

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